2015年11月30日月曜日

11月30日

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである[黙示録1:1]

すべての未来の出来事を、黙示録に記録するに当たって、ヨハネの目的は、それがいつ、どのように起こるのかを知らせることではなく、ただ私たちに、イエス・キリストが王国を支配することを認めさせようとしたのです。その御国ではイエス・キリストが王であること、黙示録が私たちに教えているのはそれです。私たちは主を、救い主として知っていますが、それだけで不十分です。主が王であられることも知らなければなりません。主の厳しさだけでなく、その愛も知らなければいけません。はっきり理解しましょう。黙示録の目的は、私たちが、イエス・キリストのことをよりよく知って、主に間近にお会いする日に備えておけるようにすることです。

2015年11月29日日曜日

11月29日

また彼は、純金で燭台を作った[出エジプト記37:17]

神聖な場所にあるものはすべて、金でできていました。あまりに、輝いていたので、司祭が指先で触れただけで、すぐに指紋の跡が現れました。聖なる場所に来て仕えたいという気持ちを持っているのでなければ、何も気にはならないでしょう。しかし、仕えるために聖なる場所に入れば、本当の姿が直ちに現れます。誰も、自分の罪と穢れた姿を見ずにはいられませんでした。自分が何者であるか告白しなければなりませんでした。そこにあったものはすべて、神聖であったからです。

神に仕えるときはいつでも、本当の姿が曝け出されてしまいます。自分の姿を真に知りたければ、神への奉仕を通して知るしかありません。神への奉仕を行う中で、自分の人生についてよく知るほど、自分たちが神に仕えていること、自分たちのしていることが真に神への奉仕であることに、より強い確信が持てるようになります。はっきりこう自覚できる者こそが、真に神に仕えるものです。

2015年11月28日土曜日

11月28日

その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ[ヨシュア記6:16]

第一に、キリストにあるときに与えられる豊かさを見なければいけません。これが、信仰の門から入ることです。ただし、入るにあたっては、新しい場所に立ち、どのような誘惑、プライド、嫉妬などがあなたのいく手を塞ごうと、それに立ち向かわなければなりません。信仰を持って立ち、すべての誘惑を断ち切ると高らかに宣言してください。そうすれば、必ず断ち切ることができます。ハレルヤ!イスラエルの子供たちは、エリコの街を取り囲み、エリコの城壁が崩れ落ちるまで、信仰の言葉を叫び続けました。人間的な見方をすれば、こんな行動はばかげています。しかし彼らが実際に叫んだとき、エリコの街は陥落したのです。

2015年11月27日金曜日

11月27日

もし死ねば、豊かな実を結びます[ヨハネ12:24]

この一粒の麦が結ぶ実はさまざまなものです。イエス様は、『豊かな実』と言われました。いわば、多くの粒ということです。私たちが自分の人生に縛り付けられている間は、持てる力のすべてを出し切れば、一人か二人は獲得できるかも知れません(ですので、ここで誰一人として救うことはできないとは言うつもりはありません)。しかし、もし、私たちが一粒の麦が死ぬように死ねば、『豊かな実』を結ぶことでしょう。どこへ行こうと、そして、時には一つ二つの言葉をかけるだけで、人々は救われ、啓発されます。ですから、豊かに実を結びたいと、期待しようではありませんか。

2015年11月26日木曜日

11月26日

今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです[1サムエル13:12]

サウロは、あまりに熱意が強く、生贄を捧げることを切望するあまり、性急に祈りすぎて、神に拒絶されてしまいました。彼の行動の目的は実に幅広いものでした。それにもかかわらず、神は、しばらくのうちに、み心にかなう者を求めて探し出し、ご自身の民を支配する王子として、この男を任命しました。主が願う者とは、性急に過ぎて待てない者ではありません。私たちに選択が任されているなら、疑うことなくサウロのような者に心を傾けるでしょう。彼は並外れた男です。彼は事実、他の人々より、際立っていました。しかし、神は並外れた人間を求めてはおられません。ただ、ご自身のみ心にかなう者を求めておられます。主に使える目的が、偉大なことを成し遂げて自分や他の者を喜ばせることにはなく、み心に触れて神を喜ばせることとなりますように。このような人を、神は用いられます。神はそのようなものを探しておられます。

2015年11月25日水曜日

11月25日

あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい[マタイ11:29]

『あなたのくびきを負います』、神にこのように言う時、あなたに平安が訪れます。日々の生活の小さな出来事において、また、人生の大きな問題においても、私たちが神のくびきを負いたいと願えるようにと、神は今日、私たちを導いています。職場の仲間と働くことを苦痛と感じている労働者、義理の親と一緒の生活に耐え難い姉妹、同僚と一緒に働くのが嫌でたまらない雇われ人、先生や他の学生のと関係にくじけそうになっている学生。これらは背負わなければならないくびきです。もちろん、あなた方はそれが嫌でならない。それを捨ててしまえたら、または、それがあなたから離れてくれたらどんなに良いかと願っています。しかし、どうか分かってください。これは神があなたに下さったくびきなのです。神があなたに分け与えた取り分なのです。神はあなたにこの環境に従って欲しいのです。それが、あなたにとって最良のことだからです。

2015年11月24日火曜日

11月24日

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように[詩篇19:14]

心こそが主要な問題です。口から外に出る言葉が正しいか否かは、大きな問題ではありません。外に向けた態度の正しさも同じです。本当の問題は心の中の目的にあります。心の中の考えや意図は無視してはならない問題です。このために、ダビデは、口から出る言葉だけでなく、彼の心の思いが神に受け入れられるようにと祈っているのです。彼の祈りは、自分の内なる願望を神が受けて入れてくれるように、と言うものでした。だからこそ、パウロはダビデが神の御心にかなう者であったと証ししたのです(使途13章)。

神御自身の御心にかなうものとはどのような人間でしょうか?それは神が自分の心に触れることを許す人です。神に心に触れることを許さなければ、その人は、神の御心にかなうものとなることは決してありません。

2015年11月23日月曜日

11月23日

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました[2テモテ4:7]

私たちが、最後まで競争を走りぬく走者でありますように。走っている途中、人間の手から来る敵対、誤解や拒絶を受けて、傷を受けるかもしれませんが、それでも、私たちは心を奮い立たせて、主イエス様のために走り続けなければなりません。競争が終わって、人から最大の賛辞を受けるのは誰でしょう?怪我をしても、一等賞を取るまで走り続けた人ではないでしょうか?ですから、私たちが怪我をしても、苦しみを受けても、負けたように見えたとしても、それは問題にしてはいけません。それでも、立ち上がって走ることが私たちにとって最善なのです。道にいる間は何をしても、価値を認められないことを覚えておきましょう。コースの終点でのみ、判定がくだされるのです。ですから、どんな理由であっても、競争を放棄しないようにしましょう。力を失って投げ出してしまったり、やる気を失なってはいけません。反対に、私たちはイエス様のほうに向かい、最後の地点まで走り抜けなければなりません。

2015年11月22日日曜日

11月22日

これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし…[ヘブル2:14]

主イエス様は、ご自身もヨルダン川で洗礼を受けられました。主が洗礼を受ける水の中に下りて行ったのは、死を象徴するものです。主が水の中から出てこられたのは復活を現しています。主は復活の力を通じて死に打ち勝つのです。私たちが知るサタンの最大の力は死そのものです(第1コリント15:26を見てください)。私に向かってできることは何でもしてみるがよい、主は敵にこう挑んでいるかのようです。実際に、サタンはあらゆる力を使ってきます。しかし、神には復活の力があります。サタンは主を完全に死なせようと必死になっていますが、主は死にもってしても、触れることも捉えることもできない命を持っています。主は、言うなれば、乾いた土地の上を進んでいかれます!主の復活を離れては、死に打ち勝つ力はどこにもありません。新たな創生のときに私たちが受け取る命は、この復活の命そのものです。そして、復活の命の力は、すべての死を追い払ってしまいます。

2015年11月21日土曜日

11月21日

この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません[ルカ7:47]

私たちはどうすれば主を愛せるでしょう?私たちの罪がどのように許されたのかを思い出せば、主を愛さずにはいられないでしょう。十字架が私たちの心を動かさなかった日があったとしたら、その日こそ私たちは地に堕ちたのです。エバン・ロバーツは、自分の心が十字架に動かされなかったことに気付いたとき、大いに泣きました。それが数ヶ月に渡って続いた後、神は彼を再び動かしました。その後でウェールズにおいて大きなリバイバルが続きました。これは、世界で誰も見たこともなかったような、もっともすばらしい精神の再生でした。

この女は、主の足を自分の涙で洗い、髪で拭い、唇で接吻しましたが、なぜ、このようなことをしたのでしょう?それは彼女が、すべての自分の罪が、どうして許されたかを思い出したからです。私たちも、常に十字架の元に立ち続けましょう。そして、いつの日か、私たちの心が今より何百倍も強くなったとしても、常に主によって私たちの罪が許された事実を覚えるようにしましょう。

2015年11月20日金曜日

11月20日

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です[ヨハネ15:5]

ある兄弟は勝利を求めて、大変な努力をしました。彼は、ずっと求め続けたのに、神は勝利を与えてくれなかったことを認めました。ある日、彼はヨハネ15章5節のキリストの言葉を読みました、『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です』。彼はすぐに光を見ました。彼はひざまずき、こう祈りました、『私は世界中でもっとも愚かな者です。私が捜し求めていた勝利の生活は、もう持っていました。あなたがたは枝です、とイエス様は言われました。あなた方は枝になるとはいいませんでした』。何年にも渡って彼は自分が枝のように樹の一部に加えられるよう頼み続けてきましたが、自分はもう樹につながった枝であったことを知りませんでした。このときまで、彼は神の黙示を受けておらず、本物の信仰もありませんでした。後にこの人はこう言いました、『私は打ち負かされ、勝利を探したが、勝利を得ることはなかった。しかし、信じたその日に、勝利は来た。』

2015年11月19日木曜日

11月19日

しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた[マタイ2:22]

神の導きに関して言えば、このマタイの第2章は、以下の各要素のことを語っています。すなわち、聖書の知識、天からの黙示、人間の常識、そして、信仰、待つこと、および従順です。

私たちは神の導きのただ中にあっても、常識をもって考える必要があります。神はヨセフに対し、ただイスラエルの地に戻ると言う命令のみを課し、その中のどこに住むべきかは言いませんでした。ヨセフがエルサレムを通っていたなら、大変なことになっていたでしょう。彼は常識に沿って考えたので思いとどまり、このおかげで神は彼を導くことができたのです。

2015年11月18日水曜日

11月18日

しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい[マタイ17:27]

『つまずきを与える』。原則に基づいて言えば、ある人物に触れるあらゆるもの、神聖さ、神の働きは決して妥協を許しません。この面で大目に見ると言ったことはありえないのです。もっと小さな事では、他者と波風を立てないように、主に倣うべきです。ここに、主の大いなる知恵が示されます。主は優しくとも、弱くはなく、へりくだっていても、ためらうことはありません。多くの事柄で、主は人々を先へと推し進めてくれます。

『わたしとあなた』。この順番が大切です。なぜ、『わたしたち』と言わないのでしょう?主は私たちと同じ高さに立つことはないからです。主は初穂であり、神の一人子です。私たちは子供たちの一人です。自分の栄光を隠し、主は讃えてくれます。やさしさを持って、主はペテロを讃えます。主は、間違いなく私たちの必要なものすべてを与えてくれます。

2015年11月17日火曜日

11月17日

ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか[ルカ23:40]

初めは主イエス様を激しく罵っていたこの強盗が、急に変わり、キリストを信じるようになったのはなぜなのか、確かなことはわかりません。しかし、それはルカ伝23:34に記録されたキリストの尊い祈りのためだったのではないでしょうか、『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』この言葉が罪人の心に触れたに違いありません。これほどの慈悲、これほどの愛、これほどの寛大、これほどに満ち満ちた優しさが、男のかたくなな魂を動かし、偏見を砕き、そして、捻じ曲がった心を和ませたのではないでしょうか。この祈りによって、彼は、十字架にかけられている方が真にかけがえのないただ一人のキリスト、神の子であることを知ったのです。ローマ人の十字架のために彼はキリストを激しく罵りましたが、キリストの十字架のおかげで悔い改め、救い主を信じることになりました。律法と刑罰は魂を救えません。恵みと愛が人に涙を流させ、かたくなだった罪人を悔い改めへと向かわせ、慈悲を求めて神へと近づけるのです。

2015年11月16日月曜日

11月16日

ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません[マタイ17:21]

ここで主は信仰を持った後で行う祈りを示されています。信仰を一度、持ってしまえばもう祈る必要はなく、賛美するだけでよいから、と言う人がいます。あまりに多くの祈りを捧げることで、信仰が揺るがされるからというのです。これは、神に何かをお願いすることに関して言えば、確かにそのとおりです。しかし、悪霊に対しては、そうではありません。信仰を持った後も、絶え間ない祈りが必要とされます。悪霊を追い出すための信仰を受けたものとして、さらに踏み込んで、それをどう使うかを尋ね求めるべきです。ルカ18章に出てくるやもめの女は、祈りに励みつつも、相手に対する裁きを要求しています。この相手とは、もちろんサタンです。私たちが人生を通じ、祈りを武器として攻撃しなければならない敵です。信仰を受けた者には、祈りと断食が必要とされます。この二つは心構えであると同時に、行動の規範でもあり、神への依存と自己否定がそこに現れます。

2015年11月15日日曜日

11月15日

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。[ピリピ4:6]

なんの思い煩いもないキリスト者というのは、私は滅多に会いません。ほとんどすべての方はたくさんの心配事で押し潰されそうになっています。7人の息子を持つ母親がいました。この母親はこう述べました、『私はこの息子たち全部が無事に成長して、救われるまで、皆のことが心配で心配で、死にそうなほどです。』ある兄弟がこの人に心配することは間違っている、実のところ心配は罪であると話したところ、この女性はこう言い返しました、『母親ならば、自分の子供のことを心配するのは当たり前です。心配しなければその方が罪です。』この兄弟は、彼女にピリピ書4章6~7節を見せました。それでも、彼女はここに書いてある思い煩いとは、自分が持っているような心配事とは違う類のものだろうと考えました。この人の考えでは、妻が夫のことを心配し、親が子供のことを心配し、商人が商売のことで思い煩うのは当然のことだったからです。しかし、私たちは聖書がきっぱりと、『何も思い煩わないで』と言っていることをはっきりと覚えましょう。他に何もいりません!

2015年11月14日土曜日

11月14日

わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける[ヘブル8:10]

ここに、新しい契約と古い契約の違いがあります。古い契約においては、律法は、石版に刻み付けられ、人間の体の外に置かれたものでした。新しい契約では、私たちの精神の中におかれ、心に刻まれています。体の外にあり、石版に刻まれているものは、文字に過ぎません(第2コリント3:6)。それでは、私たちの中にあり、心に刻まれた律法とは、なんでしょうか?この律法の性質はどのようなものでしょうか?神の言葉が、それを教えてくれます。私たちの精神の中に入り、心に刻み付けることのできる律法は、文字ではなく、いのちです。個々の律法はいのちではないかもしれませんが、いのちはどれも、それぞれの律法を持っています。神が私たちの間に置いた律法は、神がくれたいのちであり、『キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理(ローマ8:2)』でさえあるのです。

2015年11月13日金曜日

11月13日

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。[ヨハネ17:21]

簡単に言えば、一体とは神ご自身のことです。私たち全員が神の外にあるものをうち捨て、神の中に住み始めたら、私たちの中におられる神は一体となります。一体とは、神が私たちの中に絶対的な位置を占めているときのことを言います。一体とは、神のみがすべての中にあること、神がすべてを満たしている状態を言います。神の子供たちが、神で満たされている時、彼らの間には調和が保たれます。ひとつの体としての私たちを引き裂こうと、サタンが試みる時、意見を分裂させたり、対立させたりする必要はなく、ただ、私たちの中に不純物とか、神の立場を置き換えてしまう何かを混ぜるだけですむのです。例えて言うなら、人がコンクリートをこねているところを、見たことがあるでしょうか?砂に粘土が混じってしまうと、セメントは硬く凝固してくれません。サタンが私たちの体としての一体性を突き崩すためには、小さな泥の塊りを広げるだけでよいのです。私たちの中の神のいのちと相容れない何かです。これだけで、ひとつの体であった私たちは分裂してしまいます。

私たちに必要なものはただひとつ、心の内で神と向かい合い、十字架と精霊の力で私たちをきよめ、純粋なものとしていただくことです。

2015年11月12日木曜日

11月12日

すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく…』と書いてある。」[マタイ4:3-4]

"しかし、イエスは答えて"—主の答えはサタンの問いかけと完全に反対のものでした。サタンは言葉巧みに誘惑しますが、主も相対する考えを持って反論します。『…と書いてある』、これが主が使われる武器のひとつです。誘惑があったとき、それに抗うことによって、自分の身を守るだけでなく、悪魔を去らせることもできます。それでも、完全に孤立無援の状態になってしまうこともあります。そんなときは、神の言葉を言明することで、確実に相手を去らせることができるのです。神の言葉は精霊が使う剣です。その剣を振りかざせば闘いに勝つことができます。ただし、信仰をもって振りかざすことが絶対に必要です。神の言葉は、最高裁判所の判決のようなものです。

2015年11月11日水曜日

11月11日

夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれた。[マルコ6:48]

私たちが、今のままでいるか、それとも変わるか、主は見ておられます。主は私たちが前に進むか、後ろに戻るかを、見極めようと待っておられます。主の目は私とあなたに向いています。主は私たちが進む一歩一歩に目を留められます。主は、私たちに降りかかる誘惑がどれほど大きく、私たちの状況がどれだけ困難なものかを良くご存知です。それでも、主は夜中の3時を過ぎた後も、苦しみを長引かせようとはなさいません。暗闇が最も濃い時間になると、主が来られます。主は、私たちのために死ななかったから、私たちの苦難を知って、祈るために、天に昇らなかったからでしょうか?空が一番、暗くなった時に、主は戻ってこられます。

2015年11月10日火曜日

11月10日

彼らは、その知性において暗くなり、…神のいのちから遠く離れています。[エペソ4:18]

初めに、神はご自身の命、そして、敬虔さに関わる全てのものを、私たちに与えるようと計画されました。私たちは、罪と、罪から来る死のゆえに、神から遠く引き離され、神に属するあらゆる物を受けることはできなくなりました。神が与えてくれたもの、またこれから与えようと考えていたものすら、失われてしまいました。しかし今では、主イエス様が流された血によって、私たちの罪はきよめられ、神との関係は修復されました(エペソ2:13)。こうして、神がくださった物、これからくださる物は何であれ、遮られることなく私たちに与えられることになりました。主イエス様の血は私たちを神と和解させてくださり、また、神ご自身を与えてくれたのです。

2015年11月9日月曜日

11月9日

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。[ローマ6:6]

罪の力から引き離されたい、罪の奴隷であることをやめたいと望むなら、自分のからだに打ち勝たなければなりません。ローマ書6:6の中で、この使徒は主が、からだの強固な支配から、私たちを引き離してくださったことを明らかにしています。主イエス様は私たちの内なる古い人を自分とともに十字架につけることによって、私たちの罪のからだを滅ぼしました。『滅びた』(または、『破壊した』)にあたるギリシャ語の原語は、『休止させる、機能しなくなる、動作しなくなる、動きを止めさせる』などを意味する言葉です。主が十字架で成し遂げたみ業によって、主イエス様は、私たちの罪の体の働きを止め、罪の奴隷という立場から開放してくれました。それでも、体は存在しており、完全に滅ぼし去られわけではありません。ただ、生理的な構造に起因する欲望が、主の力で、その働きを弱められていることが分かります。私たちは皆、十字架を通して勝利するのです。

2015年11月8日日曜日

11月8日

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です[マタイ10:31]

どれほど小さなことであっても神は自分の子らに対して無関心ではありません。ある夫婦が海を渡っているときに嵐に遭いました。妻は恐れおののきましたが、夫の方は荒れ狂う海をまったく落ち着いた様子で眺めていました。夫の様子にいらだった妻は、彼を叱り付けました。すると、夫はナイフを取り出し妻を殺すようなふりをしました。しかし、妻はまったく恐れている様子を見せませんでした。夫が、なぜ怖くないのかと尋ねました。妻の答えは、ナイフが夫の手にあったからというものでした。それで、今度は夫のほうが、なぜ嵐を恐れないか説明できたのです。それは、父なる神の御手の中にあったからです。

2015年11月7日土曜日

11月7日

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。[1ヨハネ5:14]

信者が何かを欲しいと思った時はいつも、先ずはこう自問してみましょう、これが欠けていると神に影響するだろうか?私が欲していることを、神は望んでいるだろうか?私の欲求をかなえることは神の御心だろうか?あなたの欲求をかなえることが神の御心であると信じたら初めて、必要なものを備えて御心をかなえてください、と求めてもよいのです。神の御心を知るようになったからには、あなたが知り得たその御心に合わせて祈らなければなりません。御心がなるようにと祈ってください。もはや、問題はあなたの願いがかなえられたかではなく、御心が成ったかどうかになります。今日のあなたのお祈りは過去の祈りとそう大きく違わないかもしれません。それでも、今ではあなたが求めるものは、特定の問題において、御心が成されるようにという点に移っており、自分自身の欲求が満たされることではなくなっています。

2015年11月6日金曜日

11月6日

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです[ピリピ2:13]

ある姉妹がいました。この女性は、良心を徹底的に糾弾されていて、自分には神の御心も必要ないし、もう神に従うことも決してしないと決めていました。この女性は、ただ死刑判決を待っているような、深い苦悩の中にありました。そんな時、彼女は自分の中で祈りをしました。彼女は神にささやきました、『ああ、神様、私にはあなたの御心を求めることはできませんが、どうか、あなたに従いたいと思えるようにしてください。』不思議なことにこの日、ピリピ書2章13節の言葉が、彼女を支えました。神が心に働きかけてくれなければ、自分にはこんな祈りをできなかったと、理解し始めたのです。神ご自身がこの女性の内側にこのお祈りをするように働きかけたのですから、間違いなく神のおかげで、この女性は主の喜びを求め、そのために働くようになったのです。神はご自身の御心にこの女性が従えるようにしました。これが神の働きの目的だからです。この女性はそれを見て、立ち上がり、喜びに満ち溢れたのです。

2015年11月5日木曜日

11月5日

ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです[士師記6:15]

神の前にへりくだるのは比較的易しいことです。しかし、人の前にへりくだり、自分よりも優れている者として敬意を持つことは、非常に難しいものです。『自分は小さいものです』と言うのは、どちらかと言うと簡単ですが、父の家で自分が一番若いと告白するのは簡単ではありません。自分の父の家がもっとも貧しいと告げることは、それほど困難なことではありませんが、自分の父の家がマナセで最も貧しいことを認めるのは、きわめて屈辱的なことです。顔から、自分でも知らないのに輝きを放っている者、外から自信に満ちた輝きを認められれるものこそ勝利者です。自分の顔が輝いているかを確かめようとして、鏡を見るようなものは、誰一人として勝利者ではありません。ダビデは油注がれたものでありながら、自分自身を死んだ犬とみなしました(1サムエル24:14)。勝利者とは、真に勝利を得たもののことであって、勝利者と名乗っている者のことではないのです。

2015年11月4日水曜日

11月4日

ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。[マタイ25:20-21]

儲かった5タラントは成功を表すものではありません。むしろ、このしもべが良く忠実なものであることを表現しています。外見から言えばステファノ(使途6~7)は力が全く足りないように見えていたかもしれませんが、霊的な現実においては彼は、良く忠実な働きをしました。従って、もし一杯の冷たい水がキリストのために捧げられれば(これこそが忠実さです)、それは報われます。忠実であることは、それを主のために行うことを意味します。私たちは本当は誰のために働いているのでしょうか?よく、私たちは成功を求めますが、主のための成功でなければ、それは木、草、切り株に過ぎないことが分かっていません。主は忠実さを求めておられます。

2015年11月3日火曜日

11月3日

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。[マタイ16:18]

誰もが、こんなふうに何度でも証しすることができるしょう。大きな困難に遭遇した時、信仰も祈りも助けにならなかったが、、立ち上がってこう宣言したある時、すべてを乗り越えて勝利にいたる道筋が示された、『イエスよ、あなたは主です。あなたは王です。あなたはすべての悪魔を足元にひれ伏させました。そしてあなたは、敵のすべての業を打ち破りました!』こう宣言した瞬間に不思議な力が与えられました。このような状況では、最良の祈りとは何かをお願いする祈りではありません。最良の祈りとは、はっきりとこう宣言することです。『あなたがそうです!』、『あなたこそがそのお方です!』、これが教会における信仰の宣言になります。教会は神の黙示のみに基づいて作られたのではなく、人間が受けた啓示を宣言することによって成り立っています。黙示の結果としての宣言は霊的な価値に満ちています。そこにはハデスを揺さぶるほどの霊的な力があるのです。

2015年11月2日月曜日

11月2日

また彼らが…、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。[ヘブル8:11]

砂糖と塩は見た目はよく似ています。どちらも白く、細かい粒でできています。口に入れてみるまで、どちらが砂糖で、どちらが塩かは分かりません。砂糖か塩か、外から見た目だけで判断するのは、舌で味わって内側で判断するより、はるかに困難です。神に対する知識もこれと同じです。外から入ってくる知識は、在り来たりのものであり、内にある知識は確かなものです。神が私たちの中でご自身を味あわせてくださるときはいつも、言葉にできないほどの喜びがあります。『主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は(詩篇34:8)』。私たちが神様を味わうとは不思議な言い方ですが、これは真実です。『一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで…(ヘブル6:4-5)』。この御言葉は、霊的なものであっても、実際に味わうことができることを示しています。新しい契約の特徴として、霊的なもの、神ご自身までをも私たちが味わい知ることが許されています。ですから、神に感謝しようではありませんか。なんという祝福でしょう。なんと光栄なことでしょう。ハレルヤ!

2015年11月1日日曜日

11月1日

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。[ヨハネ4:14]

外から入ってくるものは何であれ、人を真に満足させることはできません。しかし、キリストを受ければ、それは、その人の内で泉となり、日々、満足を得ることができます。人間に欠けているものは内なる満足です。

ある人が医師の元を訪れました。その人は医師に、なぜ人生は無味乾燥で、希望がないのかと尋ねました。診察してもらった後でその人は、医学的にどこも悪いところがないことを告げられました。男は、ひどく落ち込んだ気分を癒してくれるものは何かないかと尋ねました。医師の答えは、『人生を楽しみなさい。おもしろい道化芝居でも見に行ったらどうです?人を大笑いさせて、すごく明るくしてくれますよ』。すると、その男が言うには、『実は私がその道化師なんです』。そして彼は続けて、『他の人を笑わせることはできても、自分は笑えません』。なんと悲しいことでしょう。しかし、この世が与えてくれるのはこの程度のものです。人を少しだけ笑わせて、その時だけ喜ばせてくれますが、それで終わりなのです。