2015年8月31日月曜日

8月31日

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか[ローマ6:3]

バプテスマを受ける時、私たちはキリストにつくバプテスマを受けます。水の中でバプテスマを受けるだけでなく、キリストにつくバプテスマを受けるのです。ローマ書6:3の最後の一文(『その死にあずかるバプテスマを受けた』)によれば、この節で語られているバプテスマの水は、死を表すものです。しかし、同じ節の最初の文(『キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた』)を見ると、水は、またキリストをも意味しています。私たちはいつも、神に一杯の水を求めます。しかし、神は私たちにキリストの中に入ってほしいのです。この点をはっきり分かっていれば、それは私たち自身の問題ではなく、キリストであり、すべては主の中にあることを理解できるはずです。

2015年8月30日日曜日

8月30日

ですから、私たちも、いっさいの重荷を捨てて…[ヘブル12:1]

重荷とはなんでしょう?重荷は罪ではないかもしれないし、必ずしも悪いものとも限りませんが、私たちをいとも簡単にがんじがらめにしてしまうことは、疑いありません。走り続けることができないように邪魔するもの、進歩の妨げとなるものは何であれ、重荷とみなされます。

19世紀、ある男性がいて、大いに主に用いられました。彼は長大な時間を費やして、ヘブライ語の辞書を編纂しました。作業が完了すると、彼は批評してもらうため友人たちにそれを送りました。誰もが、その仕事を大いに賞賛しました。しかし、この兄弟は原稿を燃やしてしまったのです。学者志望だったその男が言うには、それは、彼がその本を編纂している間に、主への愛だけでなく、魂への愛も同じように、大きく消えていくのを感じたためでした。彼にとって、その書を校正、印刷するとなれば、その後も、さらに続けて多くの時間とエネルギーを費やすことになってしまいます。このような行動を取ったことにより、この信者は重荷から解放されたのです。

2015年8月29日土曜日

8月29日

モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」[出エジプト4:10]

自分が役に立たないことを認めても、それだけでは、まだ役に立ちません。大切なことは神の力を知ることです。これこそが真の復活です。神がモーセに知って欲しかったのは、人に口を与えたのは神ご自身であると言うことでした。神はモーセを勇気付けたかったのです。『すると申し上げた。ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください(出エジプト記4:13)』。モーセはここでも、言い逃れをしました。神はこれを聴いて、モーセに対して怒りを燃やしました。何故でしょう?私たちが時に自信をなくしたり、自分を信じられなくなることには、意味があり、神にとっても受け入れられます。しかし、私たちがそこで立ち止まり、神を信じて前に進むことを拒めば、神を大いに悲しませることになるからです。

極端な行動を取ることのないよう、気をつけなければなりません。神は私たちを死へと渡しますが、それは後に復活させるためです。死は終わりではなく、復活がゴールです。死んだままでいて、復活することがなければ、私たちは何の役にも立ちません。

2015年8月28日金曜日

8月28日

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい[エペソ4:32]

かつて、ある兄弟がこう言いました、『歳若い兄弟が、私に対して罪を犯しても、許すことはできます。しかし、年長の兄弟が私に対して罪を犯したら、彼を許すことはできません』。これを聞いた別の兄弟は、この人の胸を見て、何度もうなずきました。この動作に現れている思いは、『それがあなたの心ですね!あなたの心!小さな兄弟を許しながら、大きな兄弟を許さないことで、あなたは自分の心がどんなものか明らかにしていますよ。小さな兄弟が、あなたに対して罪を犯しても許されるからといって、あなたの本当の心の状態は分かりません。しかし、あなたに対して罪を犯した大きな兄弟を決して許さないということは、あなたの心の中に何があるのか、本当のことを示しています』。この出来事を通して、その兄弟が人を許さない心を持っていることが明らかになりました。

2015年8月27日木曜日

8月27日

イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれた[マルコ6:48]

夜中の三時ごろと言えば、夜のうちでも最も暗い時間であり、夜が終わりかけているときでもあります。私たちが前へと進まなければならないのはまさにこのような時です。私たちはみな、誘惑とこころみがあることは、よく理解しています。しかし今、最も危険なのは、少しだけ冷めてしまうこと、多少の妥協を許すこと、そして、居眠りしてしまうことです。私たちは本当に疲れているから。初めは、立ち上がるだけの力がありました。私たちが、愛で捉えられていたからです。しかし、その後、非常に長い時間が経つと、あまりにも苦しみが大きくなったため、簡単に冷めてしまうようになりました。

ある兄弟がかつてこう言われました。50歳を超えてもまだ主のために熱心に働いている人など、もう滅多にいなくなった、と。情熱と信仰の深さは少しずつ冷えてきますし、これは他のどんな誘惑より抗いがたいものです。罪に打ち勝つことは可能です。しかし、風に向かって舟をこぎ続け、冷めないでいることはほとんど不可能です。

2015年8月26日水曜日

8月26日

肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です[ヨハネ3:6]

肉とは何なのか、本当に分かっている人はいるでしょうか?肉に打ち勝つとは何を意味しているのか、また、肉の裁きの意味を、誰が理解しているでしょうか?多くの人は、罪への勝利は、すべてが完成したことを示すものだと考えています。しかし、彼らは、そこにはまだ罪を犯す肉があることを知らないのです。聖書によると、『肉』は神の咎めを受けます。それは、神が最も嫌うものです。肉はただひとつ私たちが、この世に生まれた時に与えられたものです。

私たちが生まれたときから持っているものは、すべて肉から来ており、そこには、罪と汚れ、堕落だけでなく、生来の善良さ、能力、熱意、知恵と力も含まれています。信者が生活の中で、学ばなければならない最も難しい課題は、自分自身の肉を知ることです。キリスト者は、全てにおいて間違いを犯し、全てを奪われる経験をしなくては、自分の肉とは何であるかを知ることはできません。

2015年8月25日火曜日

8月25日

このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります[2コリント11:28]

主の前に真にへりくだり、主を怖れている信者が、一人に限らず何人かいて、主の子供たちの中に問題を見つけたら、どうすればよいでしょうか?彼らが学ばなければならないことはただひとつ、その主の子供たちを肩に背負い、胸に抱いて、父の御心をうかがいに行かせることです(出エジプト28章)。パウロが、すべての神の聖者を肩に背負い、神のすべての教会を胸の上に載せたのと同じように。

パウロはなぜこれほど明瞭に、教会に対して、神の道を書き伝えることができたのかを理解する必要があります。彼の手紙には、教会のための日々の祈りの中で、心に思い浮かんだ言葉をただ書き連ねたようなものはひとつもありません。パウロは、そのように不用意に書くことは決してありませんでした。主の聖者を神の臨在へと運ぶというこの原理を、私たちは理解し、実行しなければなりません。パウロが、御父に頼りながら、神の子供たちのことを心の中で心配していた期間が、何日、何週間だったのか、私たちには分かりません。しかし、ある日、彼は神の光の中に何かを見出し、その光とともに、彼は座って手紙を書くようになったのです。

2015年8月24日月曜日

8月24日

どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります[マタイ13:32]

教会は、神に寄り頼むという、本来の性質をどこまでも失ってしまいました。からし種のように、教会は外に大きく広がった樹となりましたが、実際には、大きく欠けたところがあるのです。

ですから、適度に『小さく』あることを心がけましょう。人間の偉大さを賞賛してはなりません。栄誉においては、相手に多く与え、苦しみは相手より多く受けなさい。苦しみを進んで受ける気持ちを持ちましょう。必要なら、自分の懐は貧しくしておき、心が豊かであればよいのです。勝利の秘訣は、主から与えられた土地に立つことにあります。サウロが小さくあろうとした時、神は彼を用いました。しかし、彼が自分を大切にするようになると、神は他の者を求めました。それがダビデです。神が求めているのは小さな器であり、大きな器ではありません。

2015年8月23日日曜日

8月23日

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい[ローマ12:2]

新しくされた心であれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかを理解することができます。ある時には、これが神のみこころにかなうと思えたのに、別の時には、また別の何かの方が、みこころのように思えることが、実によくあるのです。本当にいつも、どちらがみこころなのか、取り違えてしまいます。しかし、新しくなった心があれば、何が神のみこころであるか、間違いを犯すことはありません。心が一新されていなければ、何が神のみこころであるかを知ることはかないません。その場合、完全な救いを経験することもあり得ないでしょう。それでもなお、神は私たちが今いる場所に救い上げただけではなく、さらに救いを続けて、完璧なところへ導いてくれます。まさにこのことを、私たちは待ち望み、神に感謝しなければならないのです。

2015年8月22日土曜日

8月22日

なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである[ヘブル8:12]

なんとも残念なことですが、私たちはいつも、神が覚えているものを忘れ、また、神が忘れたものを覚えています。こんな風に考え込んでばかりいる人々がいます。私はこれほど多くの恐ろしい罪を犯したのに、神は本当に許してくれるのだろうか?神は、本当にそれを思い出さないのだろうか?また、こう思う人もいるかもしれません。神が罪を消したとしても、間違いなく残っている傷跡を見て、自分がどれほどの罪人であったか、神はいつまでも思い起こすのではないだろうか?

今も過去の罪に悩まされ、その良心が休まることがない人がいたら、ぜひ、この聖歌を歌いましょう。その人が、心の中でアーメンと応えることができるまで。

なぜ私は悩み、疑い、また怖れるのだろう?

神はその御子に負わせたのではなかったか、

私の罪を、あの木の上で?

キリストが私のために支払った債務、

神がそのみ心を変えて

私に再び償わせることなどあろうか?

2015年8月21日金曜日

8月21日

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました[エペソ1:22]

主にこう言ったことがありますか、『主よ、あなたは私のかしらです。私には何かを決定する権利も、自分で何かを選ぶ権威すらありません。どうか私が、自分のかしらになろうとは決して考えませんように』と。神の命令を受け入れるにはどうすればよいか、一人ひとりが学ばなければいけません。すなわち、キリストがかしらであり、自分の意思に従ってはいけないのです。主によって支配され、主に降伏する。これがすべてのクリスチャンにとって、基本的な経験となるべきです。

パウロが改心した際の経験を見てみましょう。ダマスコに向かう途中、主が彼の周りを照らしました。そして、彼は尋ねました、『主よ、あなたはどなたですか?』(使徒9:5)。パウロは先ず、イエスを主として見て、その後で、イエスが救い主であると信じたのです。ああ、私たちは誰もが、心からこう言えるようにならなければなりません、『主よ、私は完成しました。これから後、私を指図するのはあなたです。あなたは主であられますから。』

2015年8月20日木曜日

8月20日

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい[1コリント10:12]

はっきり言いますが、神から学び、一瞬一瞬を神に信頼する以外に、清められた生活を送る方法を私は知りません。主により頼まなければ、どれだけ主とともに進めるかを知ることはできません。神に依存しなければ、何もできず、キリスト者として生きることすら、一日たりとも、かなわないのです。私たちは本当に今、そうに感じていますか?私たちは、どこでも惨めに打ち負かされますが、それは、神の恵みを受けるためではなかったでしょう?私たちはいつも、神のみ前に、怖れに震えながらひれ伏し、神の恵みを乞わねばなりません。

2015年8月19日水曜日

8月19日

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった[創世記1:31]

神は決して悪い物を造られることはありません。悪いものはすべて罪から来ており、神が創造されたものではないのです。この悪に染まった世界に住む我々は、神に不満を述べるべきではありません。神の中に悪はなく、創造主の御腕から何か悪いものが作られたことは一度もないからです。逆に、神は人類をこれ以上できないほど優しく、扱ってくださいました。神は三日目に人間の食べ物として葉と草を用意されました。私たちを造る前に、神はすべての環境を整えられました。この優しい御手に本当に触れるなら、どれだけ慰めとなることでしょう!神は常に、ご自分で造られた者のためにすべてを用意されます。草を作られる前に、神は地面を作られました。動物を作る前に、神は植物を創られました。私たちは時に、神とその優しさを見失って、恐怖に陥ります。しかし、信仰のあるものはなんと恵まれていることでしょう!何者もその心を揺り動かすことはできないのです。

2015年8月18日火曜日

8月18日

そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです[ヘブル6:17]

聖書は、神の契約とは神の約束であることを教えてくれます。ただし、神の約束とは神が言われることであり、これに対し、神の契約とはそこに宣誓による誓約が入ります。約束が神との結びつきであれば、契約はより強固な結びつきと言えます。

神の恵みを深く学び、神をよく知ったものにとって、神の約束と神の契約は大きく違うものではありません。そのような人は、神が義であるように、神が真実な方であることを知っているからです。そのような人は、神が約束されたことなら、必ず成されることを信じています。神の約束は、契約書に書き留める必要などないのです。彼らは神の約束を、神の契約と同じく有効なものと見なしています。しかし、信仰の弱い者にとって、神の契約は、神の約束とは極めて異なるものです。契約によって、約束の履行が保証されると考えるからです。

2015年8月17日月曜日

8月17日

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした[詩篇32:5]

罪を犯して、悲しみを覚える人はどのくらいいるでしょう?悲しみを感じない人がいたら、その人たちは罪の告白という点で失敗しています。しかし、もしクリスチャンが、その罪を告白して、神と人の前に明らかにしたなら、その人は目の前に敷かれた道を迷うことなく進んで行けるでしょう。彼は他のクリスチャンより早く歩むはずです。多くの信者が罪に対してあまりに鈍感なのは、悲しいことです。人々が罪を犯した後で、ぐっすり眠っていたり、よく食べているのを見て驚くことがあります。われらの神は罪を憎んでいます。私が罪を憎むのは体面を守ったり、その結果を怖れるからではなく、神のためです。罪に対する感覚を研ぎ澄ますために、クリスチャンは自分の罪を告白しましょう。少なくともこれだけは確かです。罪を告白することで、より罪を憎むことになります。

2015年8月16日日曜日

8月16日

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます[ヨハネ12:24]

ここに主イエス様は実を結ぶための原理を示されます。一粒の麦が蒔かれたなら、豊かな実を結ぶために、必ず死ななければならないのです。すなわち、死は実を結ぶために必要不可欠な過程ということになります。これが示す事実は、死が実を結ぶためのただひとつの道であるということです。多くの実を結ぶために大きな力をくださいと主に願うと、主は私たちに死ななければならないと言われます。私たちが、聖霊の力を欲するなら、十字架を経験しなければならないとも言われます。何故でしょう。五旬節を成し遂げようと試みる中で、私たちはいつも、十字架への道を避けてしまいます。自分が十字架にかけられて、持てるすべてのものをふさわしい方に返さない限り、聖霊が私たちとともに働いて多くの人々を導くことはできないことに気づかないのです。ここに霊的な原理があります。まず、死に、それから実を結びなさい。

2015年8月15日土曜日

8月15日

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから[詩篇23:4]

初めて自分が救われた日よりも、今日のほうが喜びが大きいと言えるクリスチャンがいるでしょうか?私たち信者の心はどれほど悩みに満ちているでしょう!私たちは自分が罪を犯し、打ち負かされたと感じています。私たちは、初めて救われたときのような喜びを感じてはいません。とはいえ、実際のところ、心の渇きは、必ずしも精神的な衰弱を意味するものではありません。

次のように説明してみたいと思います。無くした時計を見つけたら、この上もなく幸せに感じることでしょう。でも、それから数日すれば、初めに時計を見つけたときの浮かれた気持ちはなくなってゆきます。そしておそらく、更に、何日か経てば、喜びは完全に消えてしまうでしょう。しかし、そのときには、時計がまた無くなったわけではないのです。では、何が起こったのでしょうか?簡単なことです。無くなったものは、今度は腕時計ではなく、初めに時計を見つけたときの喜びなのです!私たちが気づかなければならないのはここです。信者のよろこびに満ちていた気持ちは消えても、その喜びを与えてくれたものは決して無くなることはないのです。

2015年8月14日金曜日

8月14日

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです[ピリピ2:8]

神を神と認めるものは誰でも、人になるすべを学びます。堕落していたとき、私たちは自分が神になりたいという誘惑に駆られましたが、解放を受けたとき、私たちには人間になる備えができています。エデンの園の本質は、善と悪の知恵の木の実を食べることによって、『あなたがたが神のようになる』(創世記3:5)ことです。これに対し十字架の意義は私たちを人間本来の位置に戻すことにあります。

私たちの主が大工の家に生まれた理由は人間となるためです。主がヨハネの洗礼を受けたのも同じく人間となるためでした。また、主は3度にわたって悪魔の誘惑を退けられましたが、これもまた人間となることが目的でした(マタイ4:1-10)。主『ご自身が試みを受けて苦しまれた』(ヘブル2:18)と言う事実は、主が人間であったことの証拠です。これらすべてが主に関して真実であるなら、私たちはもっと人間であるべきなのではないでしょうか!

2015年8月13日木曜日

8月13日

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです[エペソ4:4]

誰もが経験することですが、肉体の弱さなどの理由から、どうしても、年に1~2日は、いつものように祈り、聖書を読むことができない日があります。何か大事なものが欠落してしまって、打ち負かされ、倒れ伏すしかないためでしょうか?決して、そうではありません。驚くべきことに、たとえば、ある週の月曜日には、むしろ神の近くにいると感じ、火曜から金曜にはとても恵まれた気分で過ごすことができたのに、土曜日には、祈り、聖書を読むと言った、当然のことができない場合があるのです。おそらく、疲れているためです。だからと言って、必ずしも土曜につまづき倒れたり、金曜より悪くなってしまうとは限りません。まことに不思議なことに、何かの力が私を支えてくれ、その日を切り抜けられるのです。では、このような助けがあるのは何故でしょう?それはキリストのみからだから、命が補われるからではないでしょうか?気づかないところで、体のほかの部分が祈り、神に対してそのすべての子供たちに恵みを与えてくださるように求めています。命が他の部分から自分のほうへと流れてくるからこそ、私たちは立ち上がることができるのです。

2015年8月12日水曜日

8月12日

また彼に仰せられた。わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。[創世記15:7]

アブラハムはこの約束を信じたでしょうか?彼の器はそこまで大きくなかったのです。彼はこう尋ねて、疑いを言葉に出してしまいました、『神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか?』この約束は、大きすぎてアブラハムの信仰ではとても理解できなかったので、彼は信用に足る証拠を示してくれるよう、神に頼みました。

契約を結ぶことはアブラハムの信仰を増し強めるために神がとった手段でした。神は、自分が行うことについて、約束しただけにとどまらず、アブラハムと契約を結んだのです(18節)。こうして、アブラハムも信じることができたのでした。契約を結んだことで、神はその契約どおりに働くしかなくなりました。そうしなければ、不誠実、不公正、不法となってしまうからです。このような契約に守られて、アブラハムの信仰の器は自然と大きさを増したのでした。

2015年8月11日火曜日

8月11日

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます[マタイ7:7]

祈りはなんのために行われるのでしょうか?神は全知だけでなく、全能でもあられるのではないでしょうか?では、なぜ神は、私たちが祈るまで待って、働きを始めなければならないのでしょう?既にすべてを知っておられるはずの神に、あらためて伝える必要があるのは何故でしょう(ピリピ4:6)?全能でありながら、なぜ神は直ちに、働かれないのでしょうか?

このような疑問を呈することで、私たちは、祈りが大切な奥義であることが分かってきます。ここに、神の働きの原理が見られます。それは、神ご自身が立ち上がって働かれるためには、神の民は、祈らなければならないと言うことです。主の御心は、主に属する者の祈りを通して初めて理解できます。信者の祈りは御心を成し遂げるために行われるものです。神は、ご自身だけではその御心を満たすことはできません。主の働きは、民が祈りの中で主への思いを現してから始まるのです。

2015年8月10日月曜日

8月10日

このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません[マタイ24:2]

なぜ、主はここで、それほど美しい宮が、イスラエルの子孫の手に渡る前に荒れ果ててしまうなどと言われるのでしょう?それは宮の栄光が、金銀財宝ではなく、主の臨在にあるからです。世界中の金や宝物を集めた宮であっても、主がいなければ、それがなんの役に立つでしょう?こう言った物が遺されて、人々がそれに心を奪われることがあってはならないのです。神の宮である私たちは、神が真に臨在されているのでなければ、外見を取り繕っているにすぎないことに注意しましょう。

2015年8月9日日曜日

8月9日

主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように[詩篇41:3]

私たちの体が病み、弱められることを神が許されるのは、次の点を学ぶためです、(1)夜の間に祈る、(2)屋根にとまったスズメのように見る、(3)主がどのように私たちを床に着けてくださるかを知る、(4)罪を負う、(5)静かな心で待つ、(6)主の着物のふさにさわる、(7)神がみ言葉を送って私たちを癒すことを知る、(8)神が病によって私たちを使い良き器とするさまを見定める、(9)聖なるものこそが癒しであることを知る、そして、(10)自分の弱さ、病と死を克服する中で主のよみがえりの力を体験する。神のおかげで、私たちは病を通して、信じ、信頼し、かつ従うことを学びます。こうして、キリストが私たちの生活の中でもっとも大きな位置を占めることになります。

2015年8月8日土曜日

8月8日

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました[エペソ2:6]

主に仕えるようになったばかりの頃、主が自分をともによみがえらせてくれるよう祈ったことを思い出します。その当時、私は、主がご自身とともに生き返らせてくれるなら、自分に、神の御心を実行する力が与えられると考えていたのです。このような祈りは間違っていました。自分自身から出たものだったからです。すべてはキリストとともに始まります。聖書は言っています、私はキリストとともによみがえらされた、と。これは既に成された事実です。覚えておきましょう。私たちは、自分自身の方を見ればそれだけ、悪くなるのです。

今、私はこう言うことができます、『主よ、あなたがすでによみがえられたこと、私もあなたとともに生き返ったことに感謝します』。私たちは先ず、自分が死者の中からよみがえった事実を信じる必要があります。とは言え、私はどのようにして生き返るのでしょう?自分が復活したと感じるからですか?そうではありません。私を生き返らせたのはキリストです。

2015年8月7日金曜日

8月7日

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです[2コリント4:10]

私たちは、いのちの通る管なのですから、何者にも押し止められてはいけません。そうなれば、詰まった管の中を水が流れないのと同じで、神の命が私たちの中を通ってゆくことができないからです。十字架の働きによって、私たちは開かれます。他の人たちも聖霊の命を受けることができるように、アダムから来たあらゆるものを捨て去り、、自然の秩序を排除するためです。聖霊に満たされることによって、私たちの霊は常に、キリストの十字架を負うことができます。そして、一度聖霊に満たされたら、十字架のいのちを持つことによって、私たちは神の御霊に用いられ、自分たちの中から、周囲の人々へと、同じ十字架のいのちを放つことになるのです。私たちは、自ずと会話や人とのやり取りの中で、いのちを広めることになります。個人的な会話の中でも、公の場でも、こうして私たちは触れ合う誰をも豊かにするのです。

2015年8月6日木曜日

8月6日

母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」[ヨハネ2:5]

キリストのしもべにとって、もっとも大切なことは、神が自分に何をして欲しいかを知ること、いつ、どのようなかたちでして欲しいのかを知ることです。主に仕える者は、なすべき仕事を自分で計画する必要はまったくありません。新しい契約の特徴のひとつとして、誰にでも神の御心を知ることが許されています。キリストのしもべは自分の心に聖霊の啓示を受けることを認められているので、神が自分に何を求めているかを明確に把握できます。こうして得る知識は本物で、自分の想像から来たものでもなく、他者からの励ましや指導によってもたらされるものでもありません。それは聖書の教えに基づいたものであって、その人の心に宿る聖霊によって、神から命令として、いのちの奥底に示されます。

2015年8月5日水曜日

8月5日

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます[マタイ11:29]

時々神は、慎重な人と不注意な人、強い人と弱い人、健康な人と病気の人、賢い人と無知な人、短気な人と穏やかな人、また、きちんとした人とガサツな人をひとつにすることがあります。これは、どちらか一方がもう片方のくびきとなるためです。これにより、両者ともにキリストの本質を学ぶ機会が与えられます。それに抗うなら、気持ちが安らぐことはありません。しかし、もし神に対し、『あなたがくださったくびきを負います。私は自分の居るべき場所に住まい、従いたいのです』と言うなら、そこに安らぎと喜びを見出すでしょう。

2015年8月4日火曜日

8月4日

わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです[マタイ12:28]

神の王国は、神の主権が及ぶところです。主の主権があるところ、悪霊には何の力もなくなります。聖書は二つのことを語っています。神の御国と、神の力です。神の王国は、神の主権を象徴します。神の霊とは、神の力を表すものです。神には権威がありますが、これはその背後に力があるからです。御霊は神の王国の力です。神の御国はどのように来るのでしょう?その力を通してです。主はここに力を示され、神の王国が来るのです。

2015年8月3日月曜日

8月3日

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです[ヨハネ6:63]

主イエスの成されるわざを、霊において見るとき、主のすべての働きが私たちのために生きていることに気づきます。主の働きを霊の外から見ると、すべてはただの文字となってしまいます。文字は死んでいます。こう言ったものを単に教義として扱うとき、それは死んでいるのです。聖書に記録された事実を信じているのに、それが日々の生活に何の助けにもならない人がいるのは何故でしょう?また、教義を聞いても、何の力にもなっていないという人もいます。さらにまた、聖書の中に神の言葉を見出しても、それが働かないのはなぜでしょう?こんなふうになってしまうのはすべて、神の真実に霊の中で触れないためです。キリストにおけるあらゆることがらは、単なる文字や書物として取り扱われると、過去のものとなってしまいます。しかし、御霊においてそれらに近づくなら、決して、過去とはならず、生きた現実として存在し続けます。

2015年8月2日日曜日

8月2日

主はモーセに告げて仰せられた。「…最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」[出エジプト13:1-2]

ここで、これから後、イスラエルのすべての初子は神のものであると言い渡されています。今日も代わらず、小羊のかけがえのない血潮をもって引き寄せられた者は、誰もが神に属しています。私たちは買い取られたのですから、もはや自由ではありません。誰が心から、『神よ、私はあなたのものです、私はあなたの奴隷です』と、言えるでしょうか?『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい(1コリント6:20)。』人が救われた日が、その人が買い取られた日となります。奴隷は金で買い取られますが、召使いは金で雇われます。買い取られたものには、何の自由もありませんが、雇われたものには自由があります。私たちは鎖につながれた神の奴隷であって、雇われ人ではありません。聖書が書かれた原語によれば、私たちは神に買い取られた奴隷であって、雇われた使用人ではないのです。

2015年8月1日土曜日

8月1日

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。[ピリピ2:12]

恐れおののいて自分の救いを達成するためには、私たちは自分で責任を負わなければなりません。自分で責任を負わなければ、キリスト者としての生活において偏ってしまいます。キリストはまことに、私たちのために死なれ、私たちのために血を流され、私たちのためによみがえって、天に昇られました。この事実を知った上で、自分は礼拝だけしておけばよいだろうと考えてしまう者もいます。そのような人は、どこまでも受身で考えます。自分から祈り、聖書を読み、また、自分を清めて献身することの必要を感じません。しかし、大切なことがあります。神が私たちのためにすべてを完了されたのですから、私たちもいっそうの熱意を持たなければなりません。神は既に私たちの中に働きかけてくださったのですから、今度は私たちがそれをやり遂げなければなりません。