2015年10月31日土曜日

10月31日

もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません[エペソ4:17]

これから人に説こうとする真実を既に知っていたとしても、自分の頭の中からをそれを引き出して、人に伝えるのはやめましょう。その代わり、へりくだって神の前にひれ伏し、私たちが既に知っている真実をあらためて生き返らせてくれるように頼むのです。こうすることによって、真実は私たちの中に新たに焼き付けられ、過去に経験したことの思い出にとどまらず、人生の中でこれから経験するであろうことについて話すことができます。こうして、聖霊は、その聖なる力を持って、私たちが伝道する言葉を保証してくれます。私たちにとって最善なのは、語り始める前には、主の言葉(時には既に知っていることであっても)が、自分の霊の中に新たに刻み付けられるまで、主の御前にしばらく待つことです。

2015年10月30日金曜日

10月30日

キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです[ローマ15:3]

私たちの主は、御国の喜びのために、(はずかしめを)『ものともせず』、また、(十字架を)『忍び』ました(ヘブル12:2)。私たちはどうでしょう?私たちはやがて来る御国の栄光のために、全てを捨て去ったでしょうか?私たちは、神の褒美を受けるために、やりたくないことを行い、やりたいことを行わなかったことがあるでしょうか?この喜びが私たちの主を引き付けることができるのに、なぜそれに惹きつけられないのですか?数え切れないほどの信者が、大昔も今も、御国の栄光のために、全てを投げ打って、主に従ったのです。あなたや私はどうでしょうか?

2015年10月29日木曜日

10月29日

モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」[出エジプト記3:13]

このとき、既にモーセは神によって変えられていました。彼は何かをみなすことも、想像することもしませんでした。彼は自分から表に立つことを、あえてしませんでした。この故にこそ、彼は主にこのように尋ねたのです。彼は事実を学んだのです。それは後に主ご自身が語られるのと、ほとんど同じ事実です。『わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです』(ヨハネ12:49,50)。私たちの言葉に、神による抑制が欠けていることがよくあります。モーセは、言葉でさえも、主の命令がなければ、口に出すことはできないことを、理解するようになりました。

2015年10月28日水曜日

10月28日

この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる[イザヤ7:15]

私たちの主には凝乳と蜂蜜がありました。このため、主は善を選んで、悪を退けることができました。従うには大きな力が必要なのです。まず、神があなたの心を満たすことがなければ、心の外でどれだけがんばっても、うまく行きません。私たちは日々、神に近づくことを学び、天国から凝乳と蜂蜜(神の恵みと愛)の両方を受けなければなりません。これにより、毎日の地上の生活において、善を選び、悪を退けることになります。

本日、このようなことを言うのは、主の戻られる日が迫り、王国がすぐそこまで来ていると、私の中で深く感じているからです。これからは、誘惑が大きくなり、危険は何倍にも増し、策略は深まるでしょう。ああ、この点を心に刻んでください。私たちの前に何が来ようとも、ただ心をひとつにしてに選ぶことができるはずです。私たちは天の凝乳と蜂蜜を既に受けているのですから。

2015年10月27日火曜日

10月27日

そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ[士師記7:6]

小さなことから、私たちの本当の状態が現れてしまうことがよくあります。当時、ユダヤ人もアラブ人も荷物を背中にかついで旅しました。このとき、路の上で水を飲む方法には、二つありました。担いでいた荷物を降ろし、膝をついて水を飲むやり方と、丸めた手のひらに水を汲んで飲むやり方であり、後者は、旅の時間を節約し、かつ、盗賊の襲撃から身を守るためでもありました。旅に加わった10000人の男のうち、9700人が膝をついて飲み、300人だけが口に手を当てて水を飲みました。膝をついて飲んだものは全て、神によって排除されました。手から水を飲んだ者のみが選ばれたのです。この世の楽しみにおぼれて暮らすこともできながら、そうしなかった者は、十字架の意味するところをもう理解しているのです。そのような人は、神に用いられます。十字架が自分のいのちの中で働くことができるように、何時いかなる時も用意できている人が神に用いられます。

2015年10月26日月曜日

10月26日

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです[エペソ6:12]

多くの人は霊と肉の戦いについてはよく知っていますが、エペソ書6章に記されているような、私たち信者と悪霊の間に生じる衝突に気がついていません。現実の霊の戦いは、私たちと、悪霊を引き連れたサタンとの間で行われます。この戦いには全ての成長した信者が参加します。この地上において、神の子供は毎日のように悪霊の攻撃にさらされているからです。こういった攻撃は、信者の生きる環境のうちで起こることもあり、信者の肉体のうちで行われることもあり、その思考のうちで、感情のうちで、また、その霊のうちで起こることもあります。

信者が悪霊に攻撃されているのに、それに気づいていないことが実よくあります。なぜ、全てが自分に害をくわえるように思えるのか理解できず、ひどく混乱し、取り乱してしまいます。それが、自然に起こっているのだと考えてしまって、毎日のように悪霊からこの世のものならぬ圧迫を受けていることに気が付かないのです。

2015年10月25日日曜日

10月25日

そして(もうひとりの犯罪人は)言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」[ルカ23:42,43]

強盗は救われることができるでしょうか?この世の人は、こう決め付けるでしょう。人を殺したり、物を奪ったりした者は滅ぼされるべきであって、そんな危険な囚人は地獄の一番底まで落とされなければならないと。この男は最も重い刑罰を受けてしかるべきでした。この世的な目で見た救いとは、地上での善き人のみが受ける分だからです。誰に想像できるでしょう?強盗として生きてきた者、繰り返し法を破ってきた者が、死ぬ瞬間に救われ得るなどと。しかし、なにひとつよいことをせず、むしろ生涯を通して悪いことしかしてこなかった者が、主イエス様を信じれば直ちに救われたこと。これは歴史的な事実なのです。主イエス様を信じれば、誰でも瞬きする間に救われるのです。驚くべき物語ではありませんか。これは奇跡的な救いです。

2015年10月24日土曜日

10月24日

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた[ルカ2:51]

ある姉妹と語ったことがあるのですが、もしご主人が許してさえくれたら、彼女は3人の子供を残して、チベットに福音を伝えに行きたいと思ったそうです。この女性は、自分を縛り付けているものをすべて断ち切って、飛んでゆけたらと願っていました。しかし、これは主の態度ではありません。主は神であられながら、この世の両親には従順であったし、また肉の兄弟姉妹のことも気にかけていました。私たちも従順であることを学ばなければなりません。自分の誤った志しを追い求めることは許されないのです。もし神が、家族や子供を通して私たちの行動を留めるなら、喜んでそれに従うべきです。商人が商売せずに生きることを考えることは間違っているし、学生が勉強しないことを望んだり、教師が教えないでいるにはどうするかを考えたりすることなども、同じ誤りです。私たちが、安らぎを得るのは、主がそうされたように、あらゆる種類の制限を逆らうことなく受け入れたときです。

2015年10月23日金曜日

10月23日

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい[1ペテロ1:13]

ほとんどの方がご存知と思いますが、古い時代、ユダヤ人が着る衣は体の回りに緩く垂れ下がり、ボタンもありませんでした。働く時は、動きやすくするために、腰の周りを帯でまとめなければいけませんでした。私たちの乱れた思いは、まとめられていない腰周りの布のようなものです。それでも、神は、人が腰の布を締めるように、乱れた思いをまとめてくれます。私たちの想いは、汚れてこそいなくても、なぜこういつも、散漫に乱れ、集中できないのでしょう。祈りの中で、また神のみ言葉を調べる中で、私たちの心は乱れてゆきます。私たちの考えることは悪い物ではないにしろ、善良で品の良い考えが然るべき時に浮かんでこないのです。これは、心の中の腰回りにあたる部分が、あまりに緩く、きちんとまとまっていないからではないでしょうか。それでも神には、人の心を引き締め、考えを一点にまとめる力があります。

2015年10月22日木曜日

10月22日

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです[ヨハネ14:18]

主は私たちを孤児として捨ておくことはしません。主はご自身で私たちの世話をしてくださり、養ってくださり、啓発してくださり、また、完全に責任を負ってくださいます。言葉を換えれば、内在の精霊が、キリストが十字架の上で成し遂げた客観的な事実を私たちの主体的な体験へと、転換してくれます。真実の御霊が私たちを現実へと導いてくれます。

原典が書かれたギリシャ語の『慰め手』には二つの考えが込められています。ひとつの意味は、『誰かの側に呼ばれる者』、つまり、誰かを助けるために呼ばれる者です。すなわち、精霊はいつでも、そばにいる助け手です。助けが必要なときはそのために私たちのそばにおられます。もうひとつの意味は、『他者の目的を擁護するもの』、すなわち、支持者です。キリストは、言うなれば、神の前に立って、私たちのために語ってくれます。私たちを守るために弁護してくださるのです。

2015年10月21日水曜日

10月21日

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている[ローマ12:6]

キリストのみ体において、私たちに割り当てられる奉仕は、主に関する知識に基づいて決められます。ただし、それは一般的な知識でありません。キリストの概要だけを知っていても十分ではないからです。主の特定の側面を知ることで、キリストの体において、定められた奉仕を行うことになるのです。他の誰も知らないことを学んだとき、あなたは主から特別な教えを受けたのであり、その特別な知識を持って主に仕えることができるのです。人間の体を見ると、たとえば、目は見ることができ、耳は聞くことができ、鼻は匂いをかぐことができます。それぞれに定まった機能があり、与えられた分があるのです。キリストのみ体の各部分にも同じことが言えます。全ての部分が、見て、聞いて、嗅ぐことができるわけではありません。しかし、各部分は、それぞれに特殊な能力を持っています。それこそが各部分に与えられた責務なのです。

10月20日

園の中央には、いのちの木[創世記2:9]

造られた物が、被造物としてのいのちを生きている限りは、神に頼る必要はあまり大きくありません。しかし、被造物が創造主のいのちを生きるためには、完全により頼まなければなりません。これからの人生はもはや自分のものではなく、神のものだからです。その人は神から離れて生きることはもうできず、神のとの交わりを守り続け、完全に神により頼まなければならないことになります。アダムの中にはこのようないのちがなかったので、彼は神を信頼してそれを受けなければいけません。

また、そのようないのちを、アダムが受けたとしても、それは自分の努力で守り抜けるようなものではなく、それを保つためには神に依存し続けなければなりません。ですから、それを守るための条件は、それを受ける条件と同じなのです。神のいのちを現実に生き抜くためには、アダムも日々、神に頼らざるをえないのです。

2015年10月19日月曜日

10月19日

なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです[ローマ5:17]

実は、私たちは今すぐにでも『いのちにあって支配する』ことはできるのです。ただし、それを完全に理解できるのは、ずっと後のことです。今日、主から賜った権威を行使すれば、すべてのことを、支配することはできます。私たちは今日こそ、あらゆる悪の霊の働きを抑えて、彼らを支配する王となるべきです。いずれ、サタンが千年王国の間に力を増したとしても、私たちは間違いなく、『後にやがて来る世の力(ヘブル6:5)』によって、サタンの動きを封じ込めることができます。今日、祈りの武器を使って、自分たちが置かれた状況を制御することもできます。国、家族、教会、または個人的な事柄であろうと、祈りによって支配できるのです。

2015年10月18日日曜日

10月18日

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました[ローマ3:24,25]

キリストがこの世界に来られるまで、人間はふたつの大きなものを失っていました。ひとつはアダムが罪を犯しために失われたものであり、もうひとつは、私たちが神のおきてを守る力がないために失われました。死と罪に支配されている限り、私たちは神から離れ、その臨在を喜ぶことはできません。私たちは愚かになり、神を知ることはありません。私たちに霊的ないのちはなく、神の御心を行う力もありません。ああ、アダムにおいて、また法の下で、私たちに誇れるものは何一つなく、泣き叫ぶことしかできません。『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの罪と死から、私を救い出してくれるのでしょうか。』罪と死の問題を解決する手立てはどこにもないのでしょうか?実は、それがあるのです。ご自身の血を流すことによって、主イエス様がふたつの問題を解決してくださいました。主の流された血潮のおかげで、私たちは死ぬ必要もなく、罪は清められているのです。

2015年10月17日土曜日

10月17日

ソロモンはエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた[第一列王記3:15]

主が目の前に現れるまで、ソロモンは箱がどれだけ重要なものか理解することも、感じとることもできませんでした。しかし、主が現れると、彼は主の臨在が他のすべてに勝って大切なものであることを知るようになりました。この後、彼は急いでエルサレムに戻り、主の箱の前にいけにえをささげました。ギベオンでは、ソロモンは全焼のいけにえを奉げただけでしたが、全焼のいけにえの他に、和解のいけにえもささげ、すべての僕のために宴を催しました。神の前にささげる礼拝こそ、真の礼拝です。神と交わることこそ、真の交わりです。そして神の臨在を喜ぶことが、真の喜びなのです。これがソロモンの経験したことでした。そして、ソロモンは聖なる宮を打ち建てると、その中に箱を置きました。そして、箱が聖なる宮の中心となったのです。

2015年10月16日金曜日

10月16日

女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です[マタイ11:11]

ヨハネはあらゆる預言者よりも偉大であると名指しされていますが、それは信仰、行い、名声、はたらき、および聖霊の面で、他のどの預言者よりも上を行っていると言う意味ではありません。より優れているのはただひとつの点においてのみです。すべての預言者は、ヨハネまでのことを預言したのです。ヨハネ自身は預言をしませんでした。彼はただキリストを人に示しました。『見よ、神の子羊。』ヨハネが他のものより優れていたのはここだけです。彼の生きた時間と与えられた機会が、他の預言者と違っていたのです。『天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。』とありますが、これはヨハネの信仰、行い、霊的生活やはたらきが小さいので、天の御国に入ることができないと言っているのではありません。これはただ、天の御国にいる者であれば、キリストのはたらきが既に成された事実を証明できることを示しています。

2015年10月15日木曜日

10月15日

私にとっては、生きることはキリストです[ピリピ1:21]

神が、あなたをキリスト者にするとき、人が猿に服の着方、食べ方、動き方を教えるようなことはしません。猿に人と同じ生き方をするように教えれば、大きなお重荷となり、人間になることを学ぶより、そのままの姿で生きることを選ぶでしょう。

イエス・キリストは私たちのいのちであり、私たちの中ですべてを行われます。神は、キリスト者にこれをしろ、とか、あれをしろと要求はなさいません。パウロは、『私にとっては、生きることはキリスト』と述べ、また、自分の中にキリストが生きていることの故に、むち打たれることも、どのような迫害、危険、エルサレムでの投獄、そしてローマへの移送にすら耐えることもできます。それは、彼がキリストのようであるからではないし、キリストのように振舞ったからでもなく、中に住んでいたキリストのゆえにこそ、こういったものに耐える力を見るのです。猿が人間に変わることが決してできないように、キリスト者がキリストの真似をすることもできないのです。

2015年10月14日水曜日

10月14日

わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える[エゼキエル36:26]

石の心とは心のかたくなさをさしており、一方、肉の心は、心の柔らかさ、優しさを表しています。人が救われた日、石の心が柔らかくなります。しかし、完全に柔らかくなったとは言えません。

人生が前に進むことは、心の変化だけにかかっています。すなわち、かたくなか、それとも柔らかな心を持っているかということです。私たちの心が、神の外にある何かに握られていたら、すなわち、何かの出来事、人や物に支配されていたら、いのちを作り変えることの妨げとなるでしょう。このため、神は心が、完全に柔らかな肉のようになるまで、変え続けます。こうなって初めて、御霊は私たちの内なるいのちが、力を得て大きくなるよう助けてくれます。神に従いたいと、ただ望むだけで、神のいのちがあなたの心の中にある良心、知性、意思や感情の中に入り込んでくるのです。それは動き続けます。

2015年10月13日火曜日

10月13日

イエスは答えて言われた。もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう[ヨハネ4:10]

サマリアに来られてヤコブの井戸の横に腰を下ろしたその日、主イエス様は空腹で、喉も渇いていました。しかし、サマリアの女は主よりも、もっと乾いていました。そこで主は、この女に生ける水を与え、渇きを癒したのです。弟子たちが食べ物を持って戻ってきた時、主はもう空腹ではありませんでした(ヨハネ4章5~34節を参照)。主の生涯の中のこの物語から、霊的な教訓を学ぶことができます。すなわち、誰かが乾くことがないようにと助ける者は、自分自身も満たされます。また、他の誰かの重荷を担うことを学ぶ者は、自分の重荷も軽くなることに気付くでしょう。霊的な働きにおいては、この辺で辞めてもよかろう、と言うことはないのです。『わたしの父は今に至るまで働いておられます』、と主イエス様は宣言されました、『ですからわたしも働いているのです』(ヨハネ5:17)。

2015年10月12日月曜日

10月12日

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです[マタイ24:42]

『目をさましていなさい』という言葉にこめられた意味はなんでしょう?目をさましているという意味は、注意力を失わないようにということです。キリスト者は、自信過剰になりがちなところがあります。注意深くあるとは、気を緩めることの正反対です。人が眠るのは、何事も起こるはずはないと、自信を持っているからです。それに較べ、目をさましている者は自分の肉に対して信頼をおきません。自分を信じきっている者が転びやすいのは、『昨日の自分とは違う』と高ぶることで、失敗への道を開いてしまうからです。自分には力がないと心の奥底で感じる者だけが、注意深くあることができます。その時がいつなのか、主がまだ語ってくださらないのですから、私たちはいつも、目を覚まし、気を配っていましょう。

2015年10月11日日曜日

10月11日

今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです[ヨハネ12:31]

今はサタンが一時的にこの世界を支配しているにしても、それは力で強奪した上で、居座っているに過ぎません。主イエス様が十字架の上で死なれた時、この世の支配者は既に追放されたのです。主はご自身の死において、『すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました(コロサイ2:15)。』この世界は今、悪の支配の下にありますが、それは不法に行われていることです。そして、神は既に、御自分の王国を取り返し、御子がこの世界の王として、千年、さらにはとこしえまで支配なさる日を定めておられます。その時が来るまで、神はサタンの好きなようにさせているだけなのです。その間も、神ご自身がこの世界の支配権を握っておられます。サタンは、自分に許されたものを思いどうりに操ることはできるかもしれませんし、神に属する者を迫害することさえ許されていますが、これはつかの間のことに過ぎません。そして、この短い期間においても、サタンは神の手の内から逃れることはできません。サタンは聖者を苦しめることはできますが、それも限られた範囲の中のことです。神が認めたことの他は、この敵にはどのような権威も与えられていないのです。

2015年10月10日土曜日

10月10日

敬虔のために自分を鍛練しなさい[1テモテ4:7]

キリスト者の中には、頑迷さを敬虔と勘違いしている人がいます。彼らは自分自身を偽っているのです。ある兄弟がこういいました。彼が出会った他の兄弟が、ひとこと、ふたこと、言葉を発するごとに、頭を地面に向かって下げたり、また、天に向かって上げたりしていました。彼は、この兄弟が敬虔さを装っていることに気づきました。彼は心からこう叫んでやりたくなったそうです、『兄弟、偽るのはやめなさい!』私たちは、いのちとは何であるかを知らなくてはなりません。それは、自然に流れるものです。こんな頑迷さを持つ兄弟であっては、御霊も神であっても、近づくことはできないでしょう。ですから、敬虔であろうと試みるなら、いつも、新鮮で生き生きとしていなければなりません。私たちの言葉と心構えを通して、ご自分を現されるのは神なのですから。

2015年10月9日金曜日

10月9日

主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった[ヨシュア3:17]

川の底は死の場所です。そこに心地よいものは何もなく、安らぎもありません。休むことも、座ることも、寝そべることもできず、立っているしかありません。私が自分の短気な性格のままに生きるなら、キリストは他の人の中に生きることはできません。しかし、私が川底に立てば、他の人々がヨルダン川を渡って、勝利に至ることができます。死が私の中に働き、いのちが他の人の中に働きます。私が死に従う中で、いのちが他の誰かの中で働き、その人を神に従わせます。キリストの死が、私たちの中で、そのいのちに息吹を与えます。死がなければ、いのちもありません。

川底で箱をかつぐのは、たいへんに辛い仕事で、大きな苦難に満ちていました。少しでも気を抜けば、聖なる神が彼らを滅ぼしてしまいます。彼らはそこに立ち、イスラエルの子供たちがひとりずつ通ってゆくのを見つめていました。こうして彼らは最後まで残されました。主よ、他の者が生きられるように私を死なせてください。私たちも、こう祈ることができますように。

2015年10月8日木曜日

10月8日

ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い…[マタイ24:48]

このしもべが失敗した原因は、何だったのでしょう?『主人はまだまだ帰るまい。』この男は間違いなく主の再臨を信じていたのですが、ただ、そんなに早くは来ないだろうと思い込んでしまったのです。主がすぐに戻られることを信じないものは、誰であれ、悪いしもべです。この悪いしもべの過ちは何であると主は言われるのでしょう?それはただ、彼が口では主は間違いなく来られるといいながら、心の中では主はもっと遅くなるだろうと思っていることです。こんな人の足元は、実に心もとないものです。主がすぐに来られることを知らなければ、人は気を抜かずにいられるでしょうか?私たちは主がすぐに戻られる時に、また、その日を待ち望んでいなければいけないのです。

2015年10月7日水曜日

10月7日

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます[マタイ16:19]

主が、天の御国のかぎをペテロにくださったことは、この使途が扉を開ける使命をはっきりと担ったことを示しています。これは、初めにユダヤ人に、次いで異邦人に対してのことです。この天の御国のかぎがペテロの手の内にあるのですから、彼は自分自身も天の御国に既に入っているのでなくてはなりません。鍵はペテロの手の中にあり、それを守るように言い渡されています。もし、たとえば、門を開ける鍵が、私の手にゆだねられたなら、この集まりに早く来てしまった人は、私が到着して鍵で開けるまで、鉄の門の外で待っていなければなりません。わたしが初めに入って、初めて、他の人たちが入ることができるのです。鍵を持っていない人のほうが先に入るということは絶対にあり得ません。したがって、ペテロが天の御国の領地に一番に入る者であることは、これ以上ないほど明らかです。

2015年10月6日火曜日

10月6日

目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません[1ヨハネ4:20]

これは多くの人がよく知っているみ言葉です。しかし、注意してください。この節が語っているのは、家族としての兄弟を愛することではなく、キリストにある兄弟を愛すべきであることです。他の人たちの態度や言動がひどくて、とても愛することなどできないことがよくあります。それでも、神の愛があなたの中にあるなら、その人たちを愛することができるはずです。自分の好きな兄弟たちを愛するのではなく、兄弟たちを愛すること、これに尽きます!愛すべき兄弟たちを愛するのではなく、すべての兄弟たちを愛するのです。兄弟を愛することができないなら、それは、父の愛があなたの中にはないことを証明しています。あなたに神の愛があるなら、兄弟たちを愛さずにはいられないはずです。

2015年10月5日月曜日

10月5日

だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように[マタイ6:9,10]

『だから、こう祈りなさい。』この言葉の後に来るものは、祈りのお手本とか、礼拝の作法として用いることを意図されたのではなく、私たちが見習うべき例として言われたのです。弟子たちは、このように祈ることを学ぶことです。

今日のキリスト者は、とてつもなく責任を負っています。それは、王国を祈りを通して、この地上に導きいれることです。サタンが今もこの地上にいるのはなぜなのでしょう?キリストに属する者が、キリストの勝利をまだ体験していないからです。『御国が来ますように。』それは既に私たちの中に来ていることは確かなのですが、まだ姿を見せていないのは、今もなお、信者たちの祈りを待ち続けているからです。

2015年10月4日日曜日

10月4日

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。イエスは言われた。あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません[マタイ17:19,20]

『あなたがたの信仰が薄いからです。』または彼らの不信心のためです。ここが注意しなければいけないところですが、このような不信仰は、信者から来るものです。したがって、主イエス様を救い主として信じていないと言う意味ではありません。『からし種』のことを話されたのは、たとえとして使われたのですから、山も何かのたとえに違いありません。後者は、最終的で深く根を降ろした困難のことを語っています。山はもっとも安定したものではありますが、信仰は多くの山、多くの困難を動かして来ました。動き回る星と異なり、山はその場所にしっかりと留まっているものです。不信仰な子供や失業と言った問題は、山に似ています。信仰さえあれば、そのような山を動かすことができるし、どのような種類の困難にも対処できます。それなのになぜ、まず他の人に助けを求めるのですか?

2015年10月3日土曜日

10月3日

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました[エペソ1:19,20]

パウロが生きていた頃、エペソの信徒たちのために、彼らが、神が賜った力のすばらしさ、偉大さに気付くことができるようにと祈りました。もし今、自分の中にある力とキリストの中にある力が、同じひとつのものであると信じられなければ、それを理解できるように祈らなければなりません。私たちの中に現された力が、キリストの中に現された力よりも弱ければ、まだ分かっていないことがたくさんあることを認めざるを得ません。へりくだって神の前に告白し、理解させてくださいと祈りましょう。信じる者の中で神が働く力は、神がキリストの中で働かれた力の強さに一致するほどのものです。ハレルヤ!これが霊的な真実です。本当にこの事実を理解し、受け入れることができるよう、神に目を開いてくださいとお願いしましょう。神に、外からもっと大きな力を注いでくださいと、お願いするのではありません。ただ、私たちが既に自分の中にあるものに気づき、見つけられますようにと、頼むのです。

2015年10月2日金曜日

10月2日

ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ひとりの年寄りの預言者がベテルに住んでいた。[第一列王記13:1,11]

ベテルに住んでいたこの年老いた預言者は、かつては神に用いられた者でしたが、この時は役に立たなくなっていました。神は、ヤロブアムがかつてベテルで犯した罪の事で警告を与えたかったのですが、そのために、この年老いた預言者を用いて語らせることはしませんでした。

『神の人』という言い方は、その人が神との交わりを持つことを示しています。交わりは神からの光の基です。交わりが失われたら、その瞬間に光も消えます。この年老いた預言者は、かつては本当の預言者であり、霊的な歴史を持っていました。しかし、このときには神との交わりを失っていました。神がこの者を用いられなくなった以上、この人はただの古き預言者となりました。なんと、悲しいことでしょう。このことを考えて、キリスト者としての歩みにおける、きわめて重要な問題に注意を向けましょう。それは、神に切り捨てられないためにはどうすべきか、拒絶され、用いられなくなることを避けるにはどうすればよいかという点です。主の前に新鮮な気持ちでいることは、用いられ続けるために、もっとも大切な習慣です。

2015年10月1日木曜日

10月1日

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました[エペソ2:6]

主を信じ始めた頃、私は、天の所に座って、日々、罪を足の下に踏み潰すことができたら、どれほど幸いだろうと夢見ながら、何時間も過ごしたものでした。しかし、紙飛行機を飛ばしているのと同じで、いつまでも、上に留まっていることはできず、私は、すぐに墜ちてしまいました。私はひたすら祈り続け、自分が何時の日か天の所にしっかりと腰を降ろして、上昇の新記録を立てることを願い続けていました。ある日、エペソ書2章6節を読み、理解し始めました。キリスト者がキリストともに上げられる時、その者は天の所にキリストともに座らされるのです。その人はキリストとそこに座りますが、それは自分の努力のおかげでも、祈りのおかげでもなく、キリスト御自身が天に上られたとき、ともに天の所に引き上げてくれたからです。キリスト御自身が天の所におられるからこそ、私も天の所にいるのです。