2015年5月31日日曜日

5月31日

ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。…だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ[マタイ25:26,27]

このたとえに登場するしもべが叱られたのは、すべて彼の怠惰のためです。D・L・ムーディーズはかつて、怠惰な人が救われることは困難であると言いました。私たちは、少なくともこう言うことはできます。怠惰な人は報酬を受け取ることはできません。私たちは受けた物が、小さいからと言って、そのままにしておくことはやめましょう。奉仕しやすく、間違いなくできる時が来るまで待とうと思ってはいけません。

『おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった』贈り物を他の人に配れば、何かを得ることはできます。私たちも、一人だけでなく、多くの人と交流すべきです。どんなに小さな贈り物でも、使わずに放置するべきではありません。少なくとも、それを使って、ひとつの魂を救い、ひとりの命を助け、または、一人の心を慰めることができるかもしれません。

2015年5月30日土曜日

5月30日

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです[エペソ1:22]

キリストの体とは何かを知るために、私たちは神の恵みを求めるべきです。私たちのいのちは、体全体に守ってもらう必要があり、個々の部分だけでは、役に立たないのです。生命を維持するためには、自分の身体が守られる必要があり、他人の身体も、同じように、滅ぼされてはいけません。否定的な言い方をすれば、血管の一箇所に穴が開いて、出血し続ければ、体全体がいずれは死んでしまいます。しかし、肯定的な面を見れば、耳が聞くものは、全身が聞くのであり、目が見たものは、全身が見ているのです。ある部分が受け取ったものは、他のすべての部分も共有できるということです。ですから、私たちは、み体全体の中で生きることを学ばなければなりません。自分のことを、実際以上により高く考えないようにしましょう。教会を大切にすることを学び、また、すべての神の子供たちとともに歩むことを学びましょう。

2015年5月29日金曜日

5月29日

むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい[ローマ6:13]

たとえば、ある姉妹の人生において、神が何かを起こしたとしましょう。その人は長い間、神との間でもがき苦しみますが、決して服従しません。その女性は、他の人と一緒に祈ることは好きですが、その祈りは無意味なものです。まだ彼女は、神が求めるものを受け入れていないからです。彼女は他の人を助けようと、どれだけ大きな努力をしても、助けることができないことに気付きます。しかし、ある日、キリストの愛がこの姉妹を捉え、彼女は涙を流して、神の前にひれ伏します。このように、神の求めに答えた後で、あらためて人を助けるために、外に出てゆくと、今度は真に人々の心を動かすのです。このことが示すのは、霊的な力が主への献身から生まれることです。あなたの献身の大きさがそのまま、神があなたに下さる力の大きさなのです。

2015年5月28日木曜日

5月28日

この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです[ヘブル6:19]

巨大な錨のついた気船に乗っていると考えてみましょう。錨が船の上に置かれたままだったら、なんの役に立つでしょうか?錨は、水の中に投げ入れて、船を安定させるためのものです。船の上に、ずっと置いておくものではありません。これは、信仰についても同じことです。信仰とは、私たちの内側にあるものを信じることではありません。信仰は、主イエスに投げかけるためのものです。私たちからキリストに投げかけられます。こう言わせてください。汽船は、どれだけ大きな錨が積まれていても、水の中に投げ込まない限り、船が安定することはありません。私たちは、自分自身を見れば見るほど、失望してしまいます。しかし、信仰の錨を主イエスの十字架の上に投げかけたとき、平安を得られるはずです。

2015年5月27日水曜日

5月27日

しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた[マタイ15:24]

なぜ主は彼女にこんなことを言われるのでしょうか?それは、この女にしがみつく手がかりを与えるためです。主はイスラエルの家に送られたと言われていますが、それは、失われた羊に対して送られたということにすぎません。『失われた羊』とは、はるかに広い相手を含んでいます。この女は失われた羊ではないのでしょうか?彼女は恵みを受ける資格がないのでしょうか?彼女が自分は失われた羊であることを認めさえすればよいのです。主は彼女に投げやりな答えをしています。主は初めは、彼女に答えません(23節)が、これは拒絶ではありません。むしろ、無言の容認です。主は、初めは口を開きませんが、彼女への恵みを示すことのできない、主の心は愛で苦しんでいます。この女が、罪人として立場を認めない限り、主はその要求に答えることができないのです。神が答えを遅らせているのは、まったき拒絶ではないことを理解しましょう。すぐに応えないことは、決して無関心を示すものではありません。むしろ主は、私たちがそばに来るのを待っています。

2015年5月26日火曜日

5月26日

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません[マタイ10:38]

重荷と十字架は同じものではありません。重荷は避けることができません。一方、十字架は個々の意思で選択すべきもので、回避することができます。歴史上、初めての十字架に習い、その後に立てられた無数の小さい十字架も従うべきです。初めの十字架が、主の意思で選ばれたのと同様に、今日の十字架もまた、私たちの意思で選択しなければなりません。何かの困難に陥いったり、苦痛に遭遇するたびに、自分は十字架を背負っているのだと、考える人がいますが、これは間違いです。このようなことは、信者ではなくても、ごく当たり前に起こるからです。

では十字架とはなんでしょう?その答えは、主イエスご自身の言葉にあります、『わが父よ、どうぞみこころのとおりをなさってください』(マタイ26:42)。主は父に、御子の思いではなく、父の思いが成されるようにと頼みました。これが、十字架です。十字架を取ることは、父が決めた意志を選択することです。

2015年5月25日月曜日

5月25日

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる[ヘブル8:10]

神の宇宙における目的とは何でしょう?創世記2章で学ぶことですが、神が人を創造された後で示唆したのは、人間は自分の自由意志によって神の人生を選択しなくてはいけないということです。では、神が宇宙で得たいものは何なのか、この一節は明らかにしてくれません。創世記3章の別の節では、次のことを学びます。すなわち、人は罪に落ちましたが、ここでも、悪魔が盗み去ろうとしたものが何だったのか、文章の中ではっきり示されません。それらの事柄は、覆い隠されたままでした。神が、十戒を宣言した中で、ご自身の心が望まれることを書き綴る日まで。

十戒のひとつめは、『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない』。二つ目には、『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない…それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神(だからである)』。三つ目は、『あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない』。そして4つ目は、『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ』(出エジプト記20:3~8)。これら4つの戒めは、神の心からの願いを示しています。これは、神が神であることを望む以外の何物でもありません。神は神であり、神は人間のあいだの神でありたいのです。

2015年5月24日日曜日

5月24日

主よ。立ち上がってください。あなたの安息の場所に、おはいりください。あなたと、あなたの御力の箱も[詩篇132:8]

イスラエルの子供たちが幕屋や神殿との関係を適切に守っている間は、彼らは勝利し続け、どの国も、彼らを倒すことはできませんでした。敵勢は、戦争のやり方を心得ており、一方、イスラエルの人々は戦闘に慣れていませんでしたが、すべての敵を打ち破りました。しかし、幕屋や神殿に問題が生じると、彼らは直ちに、捕らえられてしまいました。強力な王や偉大な知恵があったかどうかと言ったことはなにも、意味を持ちませんでした。ただひとつ、重要だったのは、彼らが幕屋や神殿の箱の威厳を損ねたことでした。主が大きな場所を占めているとき、勝利は彼らのものとなりました。これは、今日は私たちも同じことです。キリストの勝利を大切にすれば、我々もまた、勝利します。私たちがキリストを最高の位置に置かなければ、私たちは打ち勝つことができません。キリストが私たちの心の中で、大きな場所を占めていなければ、私たちは克服することはできません。

2015年5月23日土曜日

5月23日

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません[マタイ10:37]

主は、私たちがすべてを与えることを求めています。やや少なめにを与えるのでは、意味がありません。主が求めるのは、相対的ではなく、絶対的な愛です。主は私たちを必要としています。自分自身が傷つくほどに主を愛することができれば、私たちは主を愛することの喜びへと導かれます。主を愛しているけれど、その愛に喜びがないのなら、まだ、自分が傷つくところまで愛していないからです。しかし、それだけ主を愛する人なら、十字架を担いで、歌い始めると言う経験を持つことでしょう。

『ふさわしい』とはまず、主の側から考えなければなりません。主は、あなたの愛を受けるにふさわしいでしょうか?この問いは、主はふさわしいかどうか、と言う点を中心に展開します。どこまで主を捨てるかではなく、主はどれほどの奉仕をするにふさわしいお方であるかと言うことです。もし、福音を述べ伝えている君主の異常な行為とみなすなら、私たちは主の栄光と威厳を知らないままでいることでしょう。われらの主はふさわしいお方です!この世界のすべての優れた人たちの奉仕を受けるにふさわしいお方です。

2015年5月22日金曜日

5月22日

神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです[1ヨハネ3:8]

悪魔が働いていることに気づいたら、すぐに、次のように祈るとよいでしょう、『神よ、あなたの息子は悪魔の働きを打ち壊すようにと示されました。主が、十字架の上で悪魔の働きを打ち破ったことに、どれだけ、感謝したらいいでしょう。しかし、悪魔は再び働いています。どうか、私たちの中の悪魔の働きを破壊してください。私たちの働きに入り込めないように打ち破ってください。私たちの周りにある悪魔の仕掛けを粉砕してください。すべての働きを破壊してください』。祈るときは、その時々の自分の状況に応じて祈ってよいのです。サタンが私たち自身、家族、仕事、学校、国家に働きかけていることに気づいたら、その特定の領域で、悪魔の働きを破壊してくれるように、神に求めることができます。

2015年5月21日木曜日

5月21日

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです[1ヨハネ2:27]

神に仕える方が、かつて、こんな話をしてくれました。一人の兄弟が、あることをしてもよいか、尋ねに来ました。『あなたは自分では分かっていますか?』と、彼は訊きました。その兄弟は、すぐにこう答えたそうです、『知っています』。数日の後、この兄弟は再び訪れ、主のしもべに、別の問題について質問しました。しもべは、前回と同じように、『あなたは自分の中では分かっていますか?』、と答えました、その人は、再び、『知っていますとも』と、答えたそうです。そしてこの兄弟は、三度目に戻ってきたので、神のしもべは、三度目には、彼にこう尋ねました、『あなたの内側にあるものは、どう言っていますか?』と。すると彼はすぐに、自分で分かっていると答えました。その時、神のしもべは心の中でこう言いました(口には決して出しませんでしたが)、『友よ、なぜ、あなたは近くにあるものに目をそらし、遠くにあるものを求めるのか?あなたの内側には、すべてのものに応えてくれる何かがあり、それは真実で、決して嘘をつかないのに』。私は今、ここで言いいたいのです。この何かとは人生の法則です。それが私たちに、何をすべきで、何をすべきでないかを教えてくれるものです。

2015年5月20日水曜日

5月20日

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです[マタイ20:28]

生きているキリストには、私たちを救うことはできません。救うことができるのは死んだキリストだけです。主は、地上の生活で私たちを救うことはできません。ご自分が十字架につけられたことで私たちをあがなえるのです。ベツレヘム、ナザレ、ガリラヤは、私たちを咎めます。十字架の立つ丘だけが私たちに永遠の命を与えてくれます。これを聞いて驚いてはいけません。多くの人が、イエスは自分たちの見本であると言います。主は偉大な教師、偉大なラビなのでしょうか?多くの人は、主のすばらしい人格、高い道徳、大きな力、そして、高貴な性格を讃えます。しかし、言わせてもらうなら、主イエスがよく見えるほど、あなたや私は悪い者と見えるようです。

神を賛美し、感謝しましょう。神の御子がこの世に来られたのは、私たちが次第に救われてゆく間に、模範とすべき見本となるためではないのです。そうではありません!神がその御子を地上に送った目的は、私たち、罪人のために死ぬこと、私たちのために救いを達成することです。神は、私たちから何ものをも必要としません。主がすべてを行ったからです。

2015年5月19日火曜日

5月19日

人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動している[2コリント1:12]

クリスチャン生活の根本は、自分の賢さではなく、神の意志に寄り頼むことであり、私たち自身の知恵でなく、神の恵みに依存することです。これが、我々が学ばなければならない教訓です。

あなたが何かの行動を求められていると想像してみてください。あなたは、どうやって、それをすればよいのかわからず、皆目見当がつかないとします。どちらが正しいのか、まったく分かりません。そこで、あなたは、考えられる行動をとった場合の影響をじっくり考え始めます。この方法でやったら、人はどう言うだろうか?自分でうまくやろうとします。どうやって?どう言えば、どうすれば、一番問題が少ないか、また、どうすれば反対意見を最小に抑えられるか。このような規範に従って行動するとき、あなたは、神の子どもは人間的な賢さのおかげで生きていられるのではないことを忘れています。キリスト者になることは、実際にはかなり簡単なことです。ひとつだけ尋ねればよいのです、『神よ、あなたは私は何をして欲しいのですか?』と。

2015年5月18日月曜日

5月18日

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて…[エペソ1:20]

主イエスが昇天された意味は、神が主にサタンのすべての力よりも高い地位を与えたことにあります。天で主がおられるのはサタンを凌ぐ位置です。サタンは、今は主の足の下にいて、もはや主を攻撃する機会はなくなりました。なぜなら、主は今や、すべてのものの上に立つ主であり、かしらだからです。主ご自身は現在、自分に属する人々を、天の同じ場所に立てるように導いています。ひとつには主のために輝き、また一方では、彼らを攻撃する闇の力に打ち勝つためです。太陽の光が闇を克服するように、キリストがおられる天の場所は、闇の力に打ち勝ちます。月や星が、太陽と同じ天にあるように、キリスト者は天の場所でキリストに従います。

2015年5月17日日曜日

5月17日

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた[マルコ2:5]

悲しいことに、罪はいつも人間の肉体を傷つけ、また、心にも痛みを引き起こします。誰でも認めるところですが、多くの病気は、感染や過労など、自然な理由に起因しています。しかし、聖書はまた、いくつかの病気が、罪の結果であることも明らかにしています(マルコ2:5、ヨハネ5:14)。病気が罪から来るものであれば、隠れていても、外に現れていても、罪人はそれを知っているはずです。後悔の気持ちを言い表し、嘆く以外に、その人はどんな言動を取ることができるでしょう。中風の人の場合、主はこの病気の原因を知っていました。だからこそ、最初に、中風の人にこう言いました、『子よ。あなたの罪は赦されました』。それから、もう一度、言葉をかけ、『起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』(11節)、と言われたのです。これは途方もない福音ではないでしょうか!このような許しは、永遠であり、後に、罪のために病気になったすべての人に大きな福音となっています。

2015年5月16日土曜日

5月16日

兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします[1コリント14:26]

パウロは、コリントの信者にこのように指導しました。信者の中には、教会の集まりに、観光か見物のような気分にやって来る人もいます。このような気持ちで集えば、間違いなく、集会に死をもたらします。決して、そうならないようにしましょう。集う時は、いつも、互い助け合いが見られるようにしましょう。肉の体と同じように、キリストの霊的な体のすべての部分も、絶え間なくお互いと語り合っているべきであって、どの部分も今ある場所にとどまっていることはできません。どの部分であろうと、他との交わりを止めてしまえば、それは神のいのちの流れを停止することとなり、体に死をもたらします。どの部分も、交わりや分かち合いを止めれば必ず、教会に損傷を与えることになります。

2015年5月15日金曜日

5月15日

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか[ローマ7:24]

よく知られていますが、水難救助の専門家は、水に落ちたばかりの人をすぐ助けに行きません。利口な救助者は溺れている人が、水の中で疲れ切って、もがくことをやめるまで待つものです。

同じように、神は今日、神の子供たちがもがき続けて、苦しむままにしておき、自分で努力しても無益なことであって、より危険なところに向かっていることに気付くまで放っておきます。主は彼らが力尽きるまで待っています。その時、彼らは自分が死にかけていることに気付きます。そんな時、彼らはこんなふうに考えるようになります。神が救ってくれなければ、私は自分に与えられたものを一分と守っていられない。神の助けがなければ、私は間違いなく死んでしまうのだ!まさにこの瞬間まで、神は救いの御手を差し伸べてはくれません。信者が自分自身により頼むことをやめたたら、いつでも、神は直ちに完全な救いを与えてくれます。

2015年5月14日木曜日

5月14日

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです[ローマ5:10]

キリストの死と復活は、私たちに新しい命を与えてくれます。主は、私たちのために死んだのと同じように、私たちのために甦られました(ローマ4:25)。私たちは、彼の死を必要としたと同じくらい、彼の復活をも、必要としています。ふたつのどちらが欠けても、福音は空虚なものとなってしまいます。主イエスの死を通して、私たちは、アダムに属するすべてのものから解放されます。すなわち自然の状態に移ります。主の復活によって、私たちは、キリストに属するすべてに入ることができるのです。すなわち超自然です。主の死は、罪人としての存在と過去の経験から私たちを解放してくれます。それは、私たちが、罪人でなくなるためです。主の復活は、私たちを義なるものとし、義人としての存在と経験を与えてくれます。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(2コリント5:17)』

2015年5月13日水曜日

5月13日

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」[ヘブル13:5]

ある神の子供が、自分の暮らしを守ってくれるという約束を主に求めました。ある日、この女性は次のみ言葉を読みました、『金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」』(ヘブル13:5)。彼女はこの言葉に、驚き、かつ、喜びました。このような約束には、条件があります。人は先ず、何かを手に入れたいと言う欲から離れ、今、持っているもので満足しなければなりません。これができて初めて、主の変わらぬ助けと援助を体験することができます。彼女はこの約束に、何度もアーメンを繰り返しました。過去20年間、この女性は一方では、次の言葉を自分への鉄則として守ってきました、『働きたくない者は食べるな』(2テサロニケ3:10)。そしてまた一方で、彼女は主が決して、瓶の中の一握りの食べ物も粗末にせず、壷に入ったわずかの油も無駄にしないことを経験しました(1列王記17:8~16を参照)。主は彼女をあきらめることも、見捨てることもなかったのです。

2015年5月12日火曜日

5月12日

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています[1ヨハネ4:7]

あるとき、キリストにある兄弟に子供が生まれました。彼はこんな質問を受けました、『これであなたも父親になったわけですが、自分の息子を愛していますか』。彼の答えは、『1週間前はまだ父親になっていなくて、どんな風に息子を愛したらいいのか、考え続けていました。しかし、生まれてすぐに、息子を見た瞬間、私の心はまったく自然に彼のほうに向かい、愛するようになりました』。このことから、人間の愛は、内側の意識から湧き出るものであって、外から教えられて生まれるものではないことが分かります。同様に、小羊の血で買い取られ、神のいのちを受け、キリストの体へと洗礼を受けた、すべての神の子供たちは、内から動かされ、同じみからだの一部としてお互いを愛さずにいられなくなります。

2015年5月11日月曜日

5月11日

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し…[ヘブル4:12]

魂に属する(soulish)とはどういうことでしょう?魂に基づいて行うことは、すなわち、自分で行うことです。では、霊的(spiritual)とはなんでしょう?それは神によって成されるもののことです。そして、これらふたつは根本的に異なるものです。人は神に仕えることなく、また、神に信頼しなくても、何かを行うことはできます。このような行動は肉に属するものであり、また、魂に属するものです。しかし、人が、神が話す前には話すことができず、神が先に動かなければ自分も動けないとしたらどうでしょう。すなわち、もしその人が、神に目を向け、神に仕え、神に信頼するしかないなら、その人とその行動は霊に属するものです。ですから、私たちは、自分たちのすることのすべてが精霊にあるかどうか、自分に尋ねてみましょう。

2015年5月10日日曜日

5月10日

イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれた[マルコ6:48]

漂うよりは、苦しむほうがましです。風に吹かれるままに進むより、漕ぎあぐねているほうがはるかにましです。簡単な道を選んで漂うより、困難な道に進むほうがはるかによいのです。漂うだけなら、エネルギーは消費しません。漕ぐのをやめたら、風は私たちを出発地点まで連れ戻してしまいます。小さな妥協を重ねて、適当に物事を進めていたら、風は私たちを押し戻します。世を愛することは、努力を要しません。世に従うだけなら、力は求められません。しかし、立ち上がって主に真を尽くせば、間違いなく向かい風に出会うことになるでしょう。そして、すぐに漕ぎあぐねることとなります。

始まる前の場所に戻るのは、きわめて簡単なことです。しかし、前に進むことは厳しい生き方です。しかし、今こそを真を尽くすときです。私たちが、神が指し示す道を歩けますように。

2015年5月9日土曜日

5月9日

そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです[コロサイ2:10]

今日、多くのクリスチャンがジレンマを抱えています。彼らは死ぬことができないようです。今日、彼らは悪かったのですが、明日も悪いままでしょう。どれだけ、よくなろうと試みても、無理なのです。こう言わせてください。自分の力で、それを行うように呼びかけるような福音は、間違っています。

全てはキリストによって行われるのです。それは主の仕事です。私たちは主がなされたみ業を覚えるべきです。主イエス様が成し遂げられたことのおかげで、私たちは主において完全となれるのです。そして、精霊がキリストにある全てのものを私たちの中に現してくれるのです。主は死んだだけでなく、よみがったのです。キリストが死んだとき、私たちも死んだのです。主が復活されたとき、私たちもまた、復活したのです。そして、主が天に昇ったとき、私たちも昇りました。私たちが主から受け継いだものは、実に想像をはるかに超えたものです。

2015年5月8日金曜日

5月8日

そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから[ルカ15:23,24]

今日、あなたに新しい考えを語りたいと思います。それは神の喜びです。私が救われた夜は、そのことを思えば思うほどに、気持ちはますます明るくなり、たくさんの歌を歌ったものです。音階もリズムも外れていても、気にもしませんでした。これが、救われた喜びです。それでも、この聖書の節が教えてくれることは、一番、喜んだのは父だったということです。すなわち、ここで表現されているのは、魂が救われたことに対する神の喜びです。我々がいつも考えるのは、罪人が救われたときに、その人がどれだけ嬉しいか、私たちがどれだけ嬉しいだろうかということです。罪人を救った時、父である神もまた、どれほど喜んでいるかというかことには、気付きません。このことが分かった時こそ、私たちは、父の心を理解し始めることになります。

2015年5月7日木曜日

5月7日

あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました[1コリント2:3]

パウロが教えるメッセージは、主イエス・キリストの十字架です。彼が伝えることは無意味ではありません。彼は、神の命が通る管であるからです。十字架の福音によって、彼は多くのいのちを生みます。十字架の言葉を伝えていますが、彼自身はどうだったでしょうか?彼はこう言っています、『あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました』。彼自身が十字架にかけられた人です!十字架の言葉を語るのは、十字架にかけられた人であることが必要です。ここで、パウロは自分にまったく自信を持っていません。自分の弱さ、恐れ、ずっと震えていること、-自分をまったく信頼できず自分自身を何の役にも立たない者と見ている-、これが十字架にかけられた者であることを示す確実な兆候です。パウロはかつて、このように宣言しました、『私はキリストとともに十字架につけられました』(ガラテヤ2:20)。彼はさらにこうも言いました、『私にとって、毎日が死の連続です』(1コリント15:31)。パウロにとって、十字架に付けられたと宣言するためには、死ぬことが必要でした。真に自分が死ぬことなくては、キリストのいのちが、流れ出ることはありません。

2015年5月6日水曜日

5月6日

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか[ヘブル12:1]

走るときに、絶対に忘れてはならないことが二つあります。ひとつは、すべての重荷を捨る去ること、そして、罪を脱ぎ捨てることです。罪は前進を妨げる最大のものです。それは、人を走るのに不適格な者としてしまいます。罪とは、ルールを犯すことであって、ルールを犯す者は、競争を走ることは許されません。傍観するように命じられるのです。信者は、自分が知っている罪を脱ぎ捨てるべきです。嫉妬、誇り、心の汚れ、嘘の言葉、怒りっぽい気性、また、湧き出る欲望、こういったものは、人を競走に出るには不適格なものしてしまいます。キリスト者は、ローマ人への手紙6章6節と6章11節に立ち、自分が罪に死んだものであると考えることが必要です。自分の罪を捨てることが必要であり、罪が自分を支配することを許してはなりません。人はまた、体の各部分を神の義のために用いられる道具として差し出さなければなりません。主の教えに背いた場合は、それが何であれ、正直に告白し、悔い改め、そして、それを打ち捨てて、神の許しを得なければなりません。

(参考)ローマ人への手紙

6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

2015年5月5日火曜日

5月5日

イエスは彼らに言われた。どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです[マルコ4:40]

ある時、主イエスは、弟子たちに言われました、ガリラヤ湖の『向こう岸へ渡ろう』。しかし突然、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水であふれそうになりました。弟子たちは寝ているイエスを起こして泣き叫びました、『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか』。主が立って、風や嵐を叱かりつけると、風がやんで、大なぎになりました。しかし、その後、主は、弟子を叱責していいました、『信仰がないのは、どうしたことです』。考えて見ましょう。みんなで対岸に行くことは、主が命じられたのですから、弟子たちとイエスは湖の反対側に到達するのです。強い風が吹き、波は高く上がるかもしれません。それでも、主が言われた以上、彼らが妨げられて、対岸に到着できないことはあり得ないのです。ですから、最も重要なことは、神の言葉を信じることです。神が言ってくだされば、それで十分です。他のことは、何も問題ではありません。

2015年5月4日月曜日

5月4日

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい[エペソ6:18]

私たちが周りに注意深くなるのは、目の前に危険があるときです。何の危険もなく、敵が近くに潜んでいる心配もなければ、警戒する必要はないでしょう。したがって、祈りと願いの時間の間はずっと、注意深くなければなりません。私たちは、祈る時間を自分から見つける必要があります。暇な時間を待って、祈るような考えでいる限り、真に祈る機会を得ることは決してありません。とりなしのはたらきをしたい、また、祈りの生活の中で進歩したいと望む人は誰でも、祈りの時間を特別に決めておくことが必要です。この時間をしっかりと守りましょう。そして、この祈りの時間が守られるように、祈らなければいけません。祈りの時間が決して失われないように祈りましょう。

2015年5月3日日曜日

5月3日

それらの燭台の真中には、…人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く…[黙示録1:13, 14]

聖書では、人間の堕落と変容について語るとき、よく、頭髪が灰色になると言う表現をします(ホセア7:9を参照)。この点、私たちの主は、ただ一本も灰色の毛を持っていません。一方で、箴言では次のように述べています、『しらがは光栄の冠』(箴言16:31)。故に、白髪は経験、栄光、そして年月の長さのすべてを意味します。それはまた、聖なるものであることを表します。イザヤ書では、神が、人間の罪を洗い流し、雪のように、羊の毛のように白くなると約束した(イザヤ1:18)と記録されています。主の頭と髪の毛が白いように、私たちの罪も真っ白に洗いながされていることを思い出すたびに、主の恵みの大きさに驚嘆せずにはいられないはずです。

2015年5月2日土曜日

5月2日

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように[詩篇19:13]

ダビデの詩編に納められたこの詩から、神の前に2種類の罪があることが示されています。ひとつは、そむきの罪、もうひとつは、傲慢の罪です。命じられたとおりにしないことは、そむきの罪とみなされます。さて、私たちは誰も、この種の罪の深さを知っていますし、この罪から、解放されるよう望んでいます。しかし、注意してください。そむきの罪の他に、傲慢の罪もあるのです。それは、命じられていないことをすることです。

主の意志にないことで、活発に動くのは傲慢に当たります。神の命令がないのに行動するのも、同じく罪深いと知っていますか?私たちが、主の命令を受けていないのに、自身の考えで働けば、自分でどんなにすばらしいことをしているつもりでも、それは、主の前に罪とみなされてしまいます。ダビデの祈りはエホバに対し、傲慢の罪から守ってくださるように、と言うものです。

2015年5月1日金曜日

5月1日

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます[マタイ11:29]

私たちの主が、地上にいる間、ずっと取り続けていたのは、心優しく、へりくだった者の態度でした。クリスチャンである私たちが、主が語った安らぎを見つけるためには、2つのことを行う必要があります。最初に、『わたしのくびきを負う』こと、そして、『わたしから学ぶ』ことです。くびきとは、木でできた棒で、牛の背中に取り付けて、勝手な方向に行かずに、しっかりと働くようにしたものです。ユダヤの地では、一頭ではなく、常にひとつのくびきを二頭の牛を並べて取り付けました。くびきは牛の飼い主が取り付けました。ゆえに、私たちの飼い主である主は、こう言われるのです、『彼のくびきを私たちが負いなさい』と。このくびきは、神から与えられたものであって、人間や悪魔から来たものでありません。それは神が下さったもので、私たちが選んだのです。

神の命令は、何であれ、それを受け入れれば、必ず幸せにしてくれます。満足すれば、私には平安があります。私には不幸になる理由は何もありません。それは、神が私に付けたくびきから逃れていないからです。