2015年12月31日木曜日

12月31日

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、…[黙示録1:17]

神はこの世界の始まりを作られましたが、では終わりはどうなるでしょう?この質問に対して、神ご自身が答えを出されています。黙示録の第1章で、主による宣言がなされています、『わたしは、最初であり、最後である』と。これは、イエス・キリストの黙示です。そして、同じ書の最終章(22:13)で主は、『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。』と、再び宣言しています。これもまたイエス・キリストの黙示です。

言葉を換えて言えば、神が始めたことは、真実をもって終えられるということです。かつて、エデンの園で解決できなかった問題も、後に解決されます。主のあがないは完全で完璧なものです。そして主の永遠の計画は完遂されなければなりません。今日解決できなかった問題はすべて、主がやがて来る日に解決してくれます。神に感謝しましょう。来るべき日にはキリストがすべてのものを完成してくれます。主は、最後であると同時に最初でもあるからです。これはイエス・キリストの黙示です。神は私たちに示されます。最初であり最後であるこの方ご自身が、まことにすべての問いへの答えであることを。

2015年12月30日水曜日

12月30日

すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです[1コリント15:22]

アダムにある以上、私たちは皆、罪人であることを忘れてはなりません。アダムから生まれたものはみな、アダムの性質を受け継ぎます。私たちの中の罪人は、すぐにかんしゃくを起こし、ためらいなく嘘をつきます。アダムの命、性質や行いが私たちの中に入り込んでいるからです。救いの道は、神が私たちを良くしてくれる事ではなく、アダムから私たちを救い出して、キリストの中に入れてくださることにあるのです。これによって、キリストにあるすべてのものが私たちの中に流れ込んできます。アダムの中にある私たちはすぐに罪を犯し、キリストの中にあるときにはじめて、義を実践できることを聖書は示しています。次のことに注意してください。私たちの心の中に秘密の場所があり、そこに間違いが潜んでいます。それは、神が私たちを変えてくれることを待ち望む考えです。しかし、神が私たちの内に何かをするということは決してありません。そうではなく、私たちの中にキリストを入れてくださるのです。

2015年12月29日火曜日

12月29日

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』[マタイ25:21]

霊的な事柄においては、『時』は『永遠』のためにあることを認めなくてはなりません。すなわち、今のこの時に行う働きは、私たちが永遠に用いられための準備に過ぎないと言うことです。神が、私たちを今、この場所におかれたのは、永遠の中で用いられるように訓練するためです。時間とは、霊的な訓練と教育を受ける学校のようなものです。今、この時に受けている霊的な訓練と教育のおかげで、永遠の中で、私たちは真に神の役に立つようになれるのです。黙示録22章から分かるように、私たちは永遠の中でさえ神に仕えるのです。今日、主が私たちを神の子供たちの間におかれるのは、私たちが彼らと共に学んで、主に用いられ、永遠に仕える準備をするためにです。

2015年12月28日月曜日

12月28日

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです[ピリピ2:13]

ある女性が亡くなったとき、その墓石にはその人自身の言葉が刻まれました、『彼女は自分にはできなかったことをなした!』

私たちはとても厳しい毎日を送っています。私たちが完璧な救いを得て、清い生活を送ろうと思えば、それは神のみ業でなければなりません。多くの人がキリストの真似をしようとしますが、絶対にうまく行きません。しかし、神がなされるから、私にできるのです。神が私の中で働かれるのだと言う事実を早く認めてください。働くのは私ではありません。神が初めに働かれるから、私が働くのです。聖書にある崇高な要求を、自分の力で為そうと試みても、失敗するに決まっています。私がしなければいけないのはただ、望むこと、私の中で働いてくださいと神に頼むだけです。

2015年12月27日日曜日

12月27日

するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」[ルカ5:5]

すべてのものは神の所有物であり、神にできないことはありません。だから、神こそがすべてであるはずです。すべては御霊の力のうちに成されなければなりません。もし人間がほとんど無になってしまったら、神のみ言葉も大きな痛手をこうむり、あらゆるものが前に進むことを止め、すべてがいっせいに消え去ることはないにしても、その実は衰えてしまうだろう、と考える人がいます。しかし、私たちにとって大切なのは、本物の霊的な働きであり、神の前になる御霊の実です。

御霊の働きは、たった5分でも霊的な役に立ちます。一晩中、ずっと仕事をしても何もなしとげられない私たちと違います。主の命令が下るまで待って、ただの一投げで網いっぱいの魚を捕まえるほうがはるかによいのではないでしょうか?

2015年12月26日土曜日

12月26日

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った[使徒16:6]

私たちが神の僕であることを理解しましょう。主は、ご自分の働きを私たちに任せてくれますが、その僕に指示する権威は、いつも維持しておられます。思い出してみてください。アンテオケにおいて、聖霊が主の僕たちに働きをさせるために呼び出しましたが、パウロとシラスは自分たちが選択したアジアには行けませんでした。主の僕がどこへ行くか、それを決める権威は、永久に聖霊の手の内にあります。この時、アジアの誰かに必要があったからではなく、アジアにおいて、神が彼らを必要としていたのでした。主のために働く力を与えてくれる御霊が、働くところと時を定めてくれることを、使途行伝が教えてくれます。これは素晴らしいことです。働きをするにあたって私たちの責任は、神のその時々の必要を支えることにあります。

2015年12月25日金曜日

12月25日

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」[マタイ2:1-2]

人が飢えていなければ、神は啓示を与えないでしょう。東方の博士たちはおそらく、神に仕え、神を求めてきた人たちなのでしょう。死んだ知識しかなければ、パリサイ人のようになってしまいます。聖書の言葉は知っていても、天国の光を見ることはできません。彼らは、聖書を読んで、救い主のことを、非常に詳しく知っていました。しかし、天国の星が現れたのを見て、彼らは救い主の降臨をみとめたのです!天に現れた星とミカ書(5:2)の予言があったからこそです。神の啓示を受け止める条件とは、待つこと、そして求めることです。

2015年12月24日木曜日

12月24日

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい[マタイ26:41]

クリスチャンがもっとも攻撃を受けやすいのは祈っている時であることは、みな知っています。他のことをしている時は、夜11時、12時までも人と話していられるし、深夜遅くまで働くこともできます。しかし、夜9時に祈ろうとすれば、何かが足を引っ張り、もう眠りたいと思うでしょう。なぜ、初めは調子よかったのに、祈り始めた途端に疲れた気分になるのか、理解できないと思います。

あなたを祈らせないように妨げる敵がいるのだと考えれば、これは説明がつきます。敵は、あなたが天国に語りかける回線を切断したいのです。祈りの力を知っているからです。祈りによって、その活動が制限され、天国からの力を呼び入れることをよく知っているのです。

2015年12月23日水曜日

12月23日

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか[マタイ6:26]

『神にできるだろうか?』、とか、『神はしてくれるだろうか?』とたずねる者は、自分の不信仰をあらわにしています。神への信仰なしに生きることは、人間にとってなんと言う苦しみでしょうか。私たちの悩み事はただ神を信じることによってのみ、和らげてもらえます。神がこの世界を5日間で造り上げた後、6日目に人間を造られました。神は人間を作る前に、必要なもののすべてを用意されました。私たちはよく、自分たちが初めの日に造られたと想ってしまいます!

心配しても何の助けにもならないと分かっているのに、なぜ心配してしまうのですか?助けがあるなら、心配する必要はありません。誰も助けてくれないなら、心配しても、やはり意味はありません。

2015年12月22日火曜日

12月22日

神の霊は水の上を動いていた[創世記1:2]

『動いていた』は元の意味では、『浮かんでいた』とか、上を『漂っていた』と言うことになります。この意味からは、愛情と思いやりを示す絵が浮かんできます。ここにあるのは、母鷲と子鷲を描いた申命記32章11節と同じ言葉です。神もまったく同じではないでしょうか、『わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。』。私たちが神の愛に応えられますように!神のみ心は、どれだけ私たちを求めていることでしょう!そして、私たちは何者なのでしょう?罪びと以外の何者でもありません。堕ちた人間に過ぎません。それでも、主は私たちに怒っておられませんし、私たちを蔑むことも、見放すことも決してありません。神は、私たちの上に精霊が漂う価値がないとは決して考えません。