2015年7月31日金曜日

7月31日

神のことばは生きていて、…たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます[ヘブル4:12]

はっきりと認めるべきです。私たち自身にとって、霊に属するものと、たましいに属するものを、外から見ただけで区別するのは、容易なことではありません。これは霊に属するものか、あれはたましいに属するのかと、日々自問しても無益なことです。このような問いには何の霊的な価値もありません。尋ねることはできますが、答えを得ることは決してありません。霊的な事柄においては、自己を分析しても、現実を見出すことができないだけでなく、精神を麻痺させることにもなってしまいます。事実を見て、理解するのは神の光を当てられて初めてできることです。光が輝けば、自然に目に見えてきます。ですから、もはや自問する必要もありません。私たちに必要なのは、み言葉が私たちの中で輝くよう神にお願いすることです。神の言葉は生きており、もっとも効き目があるからです。

2015年7月30日木曜日

7月30日

さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた[ルカ14:25]

なぜ、これほど大ぜいの群集が主といっしょに歩いていたのでしょう?それは、主が福音を伝えたすぐ後だったからです。前の節のたとえで示されたように主は大ぜいの人を招き寄せました。実際には、お腹のすいていた人たちが来たのです。多くはキリスト者です。救われるのは、どれほどうれしいことでしょう。生まれ変わって、神の恵みを受けるのはなんとすばらしいことでしょう。そのような人々は神とともに歩み、神は彼らの方を向いて語ります。主が次に語られた言葉の趣旨は、『確かにあなたは救われましたが、私に着いて来たければ、条件を満たさなければならない』ということです。主はここで、真理に至るための基準を高くします。大ぜいの群衆に合わせて、神の定めた物差しを緩めることはできないからです。主イエスを信じ、救われるための門は広いが、主に従い主とともに栄光を受けるために通らなければならない門は狭いのです。

2015年7月29日水曜日

7月29日

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです[ローマ10:17]

家庭、学校、仕事や個人的なことがらで問題を抱えているときも、神のみ言葉を信じていなければ、祈る意味はありません。欲しいものが手に入らないのは、祈らないからです。祈っても、まだいただけなければ、それはあなたが神のみ言葉を信じていないからです(ヤコブ4:2,3)。神のみ言葉を信じないまま祈っても、時間の無駄です。神の恵みを受けたければ、必要なことはただひとつだけ、み言葉をしっかりと掴むことです。あなたが信じれば、神は働いてくださります。困難に立ち向かうときは、いつでも、主にみ言葉をくださるよう頼みなさい。そうすれば、主のみ言葉によってどのような問題も切り抜けることができるはずです。このような形で神の言葉を受け取るのは、御霊の剣を持つことに他なりません。エペソ6章で語られた武具はそのほとんど全てが身を守るものですが、『神の言葉である』精霊の剣だけは、攻撃のために使われます。神の言葉があれば、行く手をふさぐ何者をも打ち破り、あらゆる問題を解決できるのです。

2015年7月28日火曜日

7月28日

イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った[ヨハネ20:16]

私たちは、マリアに聞こえたこの声を聞いたことがあるでしょうか?この『マリア』と言う声を、物置の中で祈る時でも聞くことができたら、満足できることでしょう。主が『マリア』と言った時、すぐにそれが誰なのか分かりました。これは啓示です。主が、一言だけ語ればそれで十分です。羊飼いが、羊を呼べば、羊の目は直ぐに開きます。マリアは主の声を聞くやいなや、それが庭師ではなく、先生の声であることが分かりました。泣く必要はもはやなくなったのです。主がご自分を人に現されたら、それ以上言葉を発する必要はないのです。私たちも、マリアのように主の声を聞き分けることができるでしょうか?

2015年7月27日月曜日

7月27日

女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」[1サムエル18:7]

ダビデはゴリアテを殺した後、神の手で面倒な立場に追い込まれました。イスラエルの女たちが、こう歌ったからです、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』この二つの節をよく読むと、ひとつはダビデを試すためであり、もうひとつは、サウルを試すためであったことが分かるでしょう。箴言27章にも、『他人の称賛によって人はためされる(21節)』とあります。人に過剰に誉められるときは、自分が高慢になっていないか気を付け、また、人に十分誉められないときは、嫉妬心を持っていないか注意しなさい。イスラエルの女たちのこのふたつの宣告が、ダビデとサウルの心をどう動かしたでしょう?ダビデは、『彼は万を打った』と言う叫びに、微塵も動揺しなかったのに対し、サウルのほうは、彼が千しか打たなかったと言う言葉に、深く傷つけられたのです。

2015年7月26日日曜日

7月26日

このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました[2コリント12:8]

祈りには、皆が知っておくべき秘訣があります。主に対して3回祈ると言うことです。『三度』とありますが、これは3回だけに限定するわけではなく、もっと多くてもよいのです。主イエスはゲッセマネの園で3回お願いしたところで、祈りを聞いてもらうことができ、その時点で止めました。パウロも神に三度祈り、み言葉を与えられたので、祈りを終えました。ですから、祈るときは、三度と言う原則を心に留めておきましょう。ここで言う『三度』とは、私たちがただ、1回、2回、そして、3回祈ったら、止めなければならないという意味ではありません。神が聞いてくださるまでは、気持ちをこめて祈らなければならないことを象徴しているのです。

2015年7月25日土曜日

7月25日

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています[ガラテヤ4:19]

パウロはここでむなしい言葉を使っていなし、自分の悲しみを表現しているのでもありません。彼は、子どもたちのために『再び産みの苦しみ』をしています。そこには時間、愛、とりなし、涙、そして日々、待ち望むことが必要です。

今日、神の子供たちの中で、内側にキリストが形造られている人はどれだけいるでしょう?主に仕えるもののうち、何人が、神の子供たちの霊的な状態を観て、彼らが受けている霊的な産みの苦しみのことを気にかけているでしょうか?ああ、ここで私たちは、自分たちの異常な状態と、神の子供たちへの愛の欠乏を思って、悔い改め、嘆き、そして、涙を流さなければいけません。神の子供たちの中に、その霊的な状態が、子供じみていたり、異常であったり、時には後ろ向きであるものが多いのは何故でしょうか?その責任は彼らだけにあるのでしょうか?私たちは彼らのために嘆き、祈ったのでしょうか?ああ、神よ、お許しください。私たちを哀れんでください!

2015年7月24日金曜日

7月24日

宝をちりの上に置け。…そうすれば全能者はあなたの黄金となる[ヨブ22:24, 25]

一般に、信者は金銭的な問題を抱えていることがよくあります。これには二つの理由があり、ひとつは、自分に合わない職業に従事し続ける能力に欠けること、また、神が何らかの霊的な目的から特別にその人を追い込んでいることもあります。時に、神は私たちの富を取り去ることで、キリストを求めるように追い込み、主がすべてに勝る存在となるように仕向けてくれます。金持ちが神の御国に入るのは不可能なことではなく、極めて難しいというだけです。

神は荒れ野でイスラエルの子供たちから衣食など、この世の必需品をすべて奪い去ることで、神の豊かさを知らしめました。地上のものがなくなった時、天から賜物が降ってきました。必要な物が欠乏したとき、私たちは主を追い求めますが、これは信仰の教えを受けるためであり、キリストがあらゆるもののかしらであることを知るためです。

2015年7月23日木曜日

7月23日

だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です[マタイ18:4]

ここで言う、自分を低くするとは、心のあり方の問題です。へりくだった態度を取らなくてはなりません。小さな子供は自分自身を見ることも、人に対抗心を持つこともありません。パウロは自分のことを使徒の中でもっとも小さな者とみなしました(1コリント15:9)が、これは他の誰かと自分を比較してそう考えたのではありません。彼は同胞の救いのために必要とあらば、自分自身がキリストから引き離されることすら願ったのです(ローマ9:3)。ここに、彼がどれだけ自分を無にしたかが現れています。自分自身をまったく見なかったのです。ヘリくだりとは、一切のプライドを捨てることです。それは、教えを説いたり、リバイバル運動を率いる力を失うことではありません。小さな子供のようにへりくだる者だけが、プライドを捨て去ることができます。そして、へりくだる者が褒め称えられるのです。

2015年7月22日水曜日

7月22日

わたしは、…生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている[黙示録1:17,18]

主イエス様が永遠に生きる神であると知ったら、私たちは主のご臨在を、自分の霊の中に絶え間なく感じけることができます。主が実際におられると感じとることは、何よりも、強く生きる力を与えてくれます。ある方が、ドイツのもっとも偉大な宗教改革者にまつわるこんな話を聞かせてくれました。『あるとき、マルティン・ルターは自分の未来は危険に満ちていると感じ、心は悲しみと恐怖で満たされました。彼はこの時、自分が高きところからの力を手に入れない限り、困難を乗り切ることはできないと悟ったのです。ルターは一人で部屋に座り、ある言葉を指でテーブルになぞりました、「主はいつまでも生きている!」神は生きている!ルターはうれしくなり、信仰を取り戻したのです。』

『主はいつまでも生きている』ことは常に、私たちの力であり、希望です。人は皆、消え去りますが、主のみが永遠に存在します。

2015年7月21日火曜日

7月21日

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ[マルコ12:30]

信仰によって、いのちを受けることができ、愛を通して、いのちは解き放たれます。信仰だけがいのちを中に迎え入れ、愛だけがそれを外へ向けて放つことができます。

ですから、私たちは愛が心に届くようにしなければなりません。心を奮い立たせ、こう言いましょう、『わが神、私は魂を持ってあなたを愛し、知性によってあなたを愛し、力を持ってあなたを愛します』。真心からこう言ったら誰でも、すぐに自分の考え方が変わり、話す言葉も変わり、行動も変わることに気付くでしょう。内も外も全てが変わります。なぜでしょう?その人のうちには『愛の物語』があるからです。ああ、神が期待するのは、その手が私たちの心に触れること、私たちの魂、知性、力の全てに神が触れることです。『しかし、人(心)が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです』(2コリント)。

2015年7月20日月曜日

7月20日

用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。…だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです[マタイ25:10,13]

『用意のできている』とは、何もやりかけのまま残しておかず、いつでも、主に呼ばれる準備ができていることを意味します。『目を覚ましている』とは、主がいつ来られても備えができているような生き方を意味します。私たち信者は、日々、呼ばれる日のための準備をしておくべきです。主はいつ来ても不思議ではないのです。5人の愚かな娘は、当初は用意ができ、目を覚ましていましたが、しかし、なんと言うことでしょう、ずっとそのままではいなかったのです。

用意ができ、目を覚まして待っているためには、精霊に満たされていることが必要です。自分に頼っていてはうまく行きません。すぐに、弱められ、愚かになってしまうからです。しかし、精霊に満たされているなら、おのずと神の栄光へと実を結びます。真に目を覚ましている者であれば、いつも自分は未だ完全に用意ができてはいないと感じているはずです。そのような人は、自分自身により頼むことがないのです。これが本物のへりくだりです。

2015年7月19日日曜日

7月19日

イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。…だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」[マタイ11:4,6]

バプティスマのヨハネは、主がご自分の御心のままに物事を行わないでいることを残念に思っています。主から命じられたことに不満を感じないものは幸いです。神の御心に同意できないことはつまずきの大きな原因となるからです。ヨハネは主を疑ってはいるわけではなく、ただ神が自分のために整えられた道すじに満足できずにいます。これが彼のつまずきの原因です。主は答えの中で、ヨハネが自分の過ちに気づくように、ヒントを与えています。主の答えは、ヨハネがそれまでに自分で見聞きしたことに過ぎません。ただ、そこに主は大切な言葉をひとつ、加えられました、『だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです』

2015年7月18日土曜日

7月18日

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません[1コリント12:3]

神が私たちから聞きたいと望んでおられる言葉があります。それは、『あなたがそのお方です』という宣言です。そして、私たちは、主に言います、『あなたこそが主です!』と。この大切な言葉、『イエス·キリストは主である!』はもっとも、力のある宣言となります。時に、混乱し切って、サタンがあなたをもてあそぶように、今のお前は無力だと語りかけてきても、あなたがすべきことはひとつだけ、例え、祈ることすらできないほどであっても、ただ、はっきりと宣言すればよいでのです。はっきりと声に出してこう伝えましょう、『イエス様が主です!』。そうすればすぐに気付くでしょう。捕らわれていた問題は大したことではなく、サタンの挑発すら意味のないことです。厳しい試練の下にあるときこそ、立ち上がって、この言葉をはっきり口に出しましょう。自分の部屋にいても、祈り会に出ている時も、『イエス様が主です!』と言うなら、あなたは主に、『あなたがそのお方です』と述べているのです。主は、このような宣言を聞くことが大好きで、これにより、私たちの内面は強められるのです。

2015年7月17日金曜日

7月17日

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません[マタイ10:37]

かつてある兄弟が、聖書で洗礼の意味を知り、自分も浸礼を受けたいと望みました。しかし、彼の父はそれを認めませんでした。息子の心には、このため大きな葛藤が起こりました。彼のジレンマとは、自分が浸礼を受ければ、父の心を傷つけるだろうが、浸礼をしなければ、主の言葉に従わないことになるというものでした。彼が心の中の葛藤に苦しんでいた時、主から御言葉を与えられました、『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません』(マタイ10:37)。ここで、彼は、どちらか大切かと言う選択の問題に直面しました。自分の両親を喜ばせるか、それとも、主を喜ばせるか?神に感謝します。キリストの愛が彼を捕え、彼は結局、全身を水に浸けて洗礼を受けたのです。

2015年7月16日木曜日

7月16日

イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。…ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた[ヨハネ4:6-7]

ここで水を所望されたのは、親密さの表れです。普通の人は神は怖れても、水をくださいと頼んで来る人を怖がることはないでしょう。あなたは神を怖れるでしょうが、神が水をもらいに来たら、恐怖を感じることはないでしょう。あなたにとって神が怖ろしいのは、いと高く、あまりに遠く、また怖い方であると思うからです。しかし、この孤独で、弱り果て、汗で汚れたお方が(あなた自身と同じくらい孤独で、弱り果て、汗にまみれてさえいます)神であると知っていたなら、あなたは神を信じることでしょう。私たちの主イエス様は、これほど人間から近づきやすく、親しみやすい方なのです。

2015年7月15日水曜日

7月15日

祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです[マタイ6:5]

二つの違う種類の報いがあります。ひとつは人間から来るもので、もうひとつは神から来るものです。誰もその両方を受けることはできません。今、人からの褒美を受けようと思えば、後に神からの褒美を受け取ることはできなくなります。この世で大きな名声を受けることを求めながら、やがて来る御国で高い位置にいることはできないのです。今の情熱と施しが、名声と賞賛を受けるためにあるなら、後に神のみ前では何も受けることはできないでしょう。ですから、今日、与えられる褒賞は退けるべきです。

結局のところ、人間から賞賛を受けたとして、何の得があるでしょう?目がしっかり開かれていれば、神と聖霊の前にある栄光だけを求め、他の何者にも意味を見出さないことでしょう。

2015年7月14日火曜日

7月14日

わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ[箴言23:26]

自分を明け渡すことは、神に御心を行う約束することでも、できないことをする契約を神と結ぶことでもありません。自分を明け渡すとは自分のいのちから、手を放すことを意味します。

本を誰かにあげるとしましょう。あげても自分の手を本から放さなければ、友人はそれを受け取ることができますか?神のところに来たら、こう言わなければなりません、『私の良いところと悪いところ、好きなものと嫌いなもの、望むものと望まないもの、私のすべきこととすべきでないこと、すべてあなたにお渡しします』。本当にこうしたいと思っているでしょうか?そうでなければ、神は私たちに何もできません。自分の打ち砕かれた自我を手渡すのは私たちの責任です。神はいつでも準備ができており、私やあなたがただひとつのことをするまで待っておられます。自我を手離したいと望むことです。

2015年7月13日月曜日

7月13日

その方(慰め手)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます[ヨハネ16:8]

真に霊的に目覚めている人なら誰でも、自分の罪を意識せずにいられません。ルカ15章の放蕩息子は、自分自身の心に立ち返った瞬間、父親だけでなく、天に対しても罪を犯していたことに気付きました。聖霊によって光に導かれた人ならば、必ず自分自身の犯した罪を省みて、自分を否定するです(ヨハネ16.8)。この時初めて、人は、神の許しを必要とします。自分の罪を見ない人が、許しを求めることはありません。しかし、一度それに気付けば、神の前で罪悪感、罪に対する罰、地獄の絶え間ない苦しみ、そして、救いの希望について、思わずにいられないでしょう。その時、その場所でこそ、福音が私たちに語られ、主イエスが十字架の上で死んだこと、その血が罪の赦しのために注がれたことを教えてくれます。主の血によって、私たちの罪が洗い流されます。福音を聞いて、信じる時、私たちは罪の赦しを受け、良心が清められるはずです。

2015年7月12日日曜日

7月12日

備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされるのです[エペソ4:16]

私たちは、キリストの体の各部分を構成する要素ですから、その体がいのちと力を得る助けとなることを考えなければなりません。集っている間は、口を開かずに、祈ることができます。しゃべってはいけない時でさえ、神に目を向けることはできるのです。御体を見たことがあるものなら、自分が何の価値もない人間だなどとは言えないはずです。むしろ、こう言うでしょう、私は御体の一部ですから、果たすべき義務があります。私には、語るべき言葉があり、声に出さなければならない祈りがあります。集まりに参加するときは、神が私に求めることは何でもします。私が、傍観者でいることなどあり得ません。私たち皆が働くとき、この集まりの全体のいのちが、全ての死を呑み込んでしまうでしょう。

2015年7月11日土曜日

7月11日

また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい[エペソ6:17]

自分は多くのことを知っていると考える信者が大勢います。彼らは、自分は多くの真実を知っているのだから、勝利者以上になれるはずと考えます。しかし、実生活において、何度もくり返し敗北するのです。それでも、あらゆる努力をして、真理を理解しようとしますが、その都度、自身が無力であることに気付きます。戦いの中で、彼らが知っているつもりの真理は、わらでできた武器に過ぎないことに気づきます。彼らはすすり泣き、多くの涙を流しました。神の真理は間違っているのだろうか?それとも、他の何かがおかしいのか?ああ、神は彼らに気付いて欲しいのです、ただ聖霊のみが御霊の剣を振るうことができると(この剣は神の言葉と真理です)。肉が御霊の剣を使うのは、ダビデがゴリアテと戦うために、まったく身の丈に合わないにサウルの鎧を着用したようなものです。彼らは、頭ではよく真実を知っているかもしれませんが、未だ、聖霊に寄り頼んで、人生を変えようとしていないのです。

2015年7月10日金曜日

7月10日

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです[コロサイ3:3]

神とともにある生活に入った聖徒たちは、天の御座からのからの洞察を持つこととなります。彼らは何があっても動じません。真にキリストとともに十字架につけられたすべての人は、キリストと共に真によみがえります。真にキリストと共によみがえったすべての人は、真にキリストと一緒に天にあります。

高い位置にいることで、聖徒は主とより親密な交わりを楽しむことができます。その結果、この世界が暗い夜のようなひどい状態にあることがより明瞭となり、闇の力がずっと近くに見えるのではないでしょうか?私たちはさらなる洞察を持ち、キリストがより大きくなるのではないでしょうか?これは、なんとすばらしい居場所でしょう!

2015年7月9日木曜日

7月9日

主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる[詩篇25:14]

神の命令を受けることができるのは、どのような人でしょうか?それは、神を恐れる人たちです。なぜなら、『神の秘密は、神を恐れる者とともにあり、これによって、御自身の契約を彼らに知らせることがかなうから(原著ではダービー訳聖書から同じ節を引用)』です。『神を恐れる』とはどういう意味でしょう?神を恐れるとは、神の名を聖別すること、つまり、神を褒め称えることです。まごころから神の意志を求める者、絶対的に神に服従する人たちが、神を恐れるものです。このような者たちに対して、神は御自分の奥義を明らかにされ、神の契約を示されます。

2015年7月8日水曜日

7月8日

さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい[使徒22:16]

聖書は、単なる儀式としての洗礼を否定するだけでなく、洗礼とは証しであると、名言しています。なぜ人々は水の中に入るのでしょう?それは、神と人と天使と悪魔の前に、イエスを信じたこと、そして、キリストが成し遂げたことは真実であり、完璧であり、また信頼できると、証しするためです。

アナニヤはサウロに立ち上がって洗礼を受けるように呼びかけました。なぜでしょうか?それは、彼の罪を洗い流すためです。しかし、アナニヤは、洗礼によって罪が取り除かれるとは教えませんでした。罪を洗い流すのは水のバプテスマそのものではないからです。洗礼が言葉に現し、証しする事実こそが罪を洗い流すことができるのです。地球上のすべての水を使っても、ただひとつの罪を洗い流すこともできません。しかし、洗礼の水が体現し、証しするもの、それが主イエスの血であっても、それはすべての罪を洗い流すことが可能です。それを信じていますか?信じたなら、立ち上がって、自分の罪を洗い流すためにバプテスマを受けなさい。

2015年7月7日火曜日

7月7日

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです[2コリント4:12]

働く死とは『働きのある死』でなければなりません。それは、死のいのちであり、十字架のいのちです。主イエスのために、パウロはいつでも、死にわたされる覚悟でいます。侮辱の言葉、高圧的な態度、残酷な迫害、そして、不当な誤解をものともせず、すべては主のためと、彼は喜んで耐えしのびます。パウロは、死に渡される時も、決して口を開きません。主はその御父に願って、自分の命を助けるために12人の天使からなる軍団を送ってもらうこともできました。パウロにとっても、人間的な方法でこのひどい仕打ちを回避することは簡単です。しかし、彼はむしろ、イエスの『生きた死』、すなわち、十字架のいのちと霊が、自分の中に働くことを求めています。こうすることによって、彼が生きていくすべての面で、十字架の精神を現すためです。彼は、十字架こそもっとも力あるものと信じています。それがあるからこそ、主イエスのために進んで死に渡され、また、喜んでこの世の迫害と困難を受けることができるからです。

2015年7月6日月曜日

7月6日

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました[ヘブル12:2]

主イエスは、自分の前に置かれた喜びを見て、まっすぐに、そこへと向かわれました。その喜びとはなんでしょう?主ご自身がこう言われたのはないですか、『よくやった。良い忠実なしもべだ…主人の喜びをともに喜んでくれ』(マタイ25:21)?これは、キリストの千年王国にある喜びをさしています。たしかに、私たちの主は、自分が受け継いだもののゆえに、父なる神に従いました。しかし、聖書には別の事実が記されています。すなわち、神による報酬と約束、中でもその王国に関わる約束が、イエスの生涯に影響を与えたことは間違いありません。ご自分の前に置かれた喜びのために、私たちの主イエスは、この世の競争において、辱めと十字架のふたつを担って、力強く前に進んだのです。

2015年7月5日日曜日

7月5日

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない[イザヤ40:31]

かつて、ある宣教師が言いました。神のために働かずにいられない気持ちでいるときは、神は罪人を救うために私たちを用いることはありません。神の目的のためにどうしても何かの働きをしたいと言う気持ちが消えたとき、人々を救うため、神に用いられるのです。魂を救う道具として、人間の手による福音伝道が、神の役に立たないという意味ではありません。しかし、はたらきが神の御心でない場合は、それを進んで行わないように、心がけなければなりません。無遠慮に行動してはいけません。神の命令がない時は、前に進むより、むしろ静かしていたほうが良いのです。神はこのような人を、魂を救うために送り出します。

送り出されてもいないし、命令を受けてもいないのに、何かをするのは、砂の上に、金メッキの家を建てるようなものです。一時的には、家は立ち、しばらくの間は、輝きを放つかもしれませんが、キリストのさばきの座では打ち捨てられるでしょう。神の命令にしっかりと従うはたらきのみが、用いられます。

2015年7月4日土曜日

7月4日

ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか[1コリント5:8]

パン種が象徴するものはなんでしょう?それは悪意と邪悪さです。一方、パン種のないパンは、誠実と真実を意味します。

こういう話が伝わっています。過ぎ越しの時、ユダにいたある大工が、家中のあらゆる場所、すべてのものを徹底的に調べ上げ、家の中をできる限りきれいにして、晩餐の日々に備えました。しかし、饗宴の最初の日の夕方、彼は突然、袋の中に、カビの生えたパンを見つけました。自分の手で触れることのないよう、彼は2本の木の棒でカビの生えたパンを拾い上げ、火の中で燃やしました。彼はこれほどまで敬虔にこの祭りを守ったのです!キリスト者として私たちは、どれだけの時を費やして、罪に対処してきたかを自分に問うてみるべきです。

2015年7月3日金曜日

7月3日

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです[1ヨハネ5:11]

このヨハネのあかしは、まことの聖所、最も聖なる者に限定されています。これは、霊的な現実に満ちています。彼は外から見えるものには言及せず、内にあるもののみを語ります。心の奥底についてです。そのため、『いのち』という言葉が、ヨハネによる福音書、手紙、黙示録の中で何度も現れています。彼のはたらきは、信仰から離れたり、霊的に変化があった後の回復に大きな重点を置いています。これは、彼が手紙、福音書や黙示録を書いた頃には、背教者がかなり優勢になっていたためです。

このような状況を目の当たりにして、ヨハネは前に進みいで、内面の真実を語りました。すなわち、いのちのことです。ヨハネの証しは、したがって、終わりの日のことを語っています。彼は、心の奥の奥まで人々を導くことによって、そこに本当にいる神を見つけさせます。

2015年7月2日木曜日

7月2日

私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです[2テモテ1:11]

神はいつも自分で選ばれた者を御業のために用います。神は、はたらきをしたいと自発的に申し出る者を必要としません。神に選ばれる者にはもはや自由はありません。選ばれた者が、自分の行きたい道を歩く自由を望むなら、失敗と痛みの他に味わうものはないでしょう。神に選ばれてしまえば、与えられた道から逃げることなど決してできません。タルシシュへ逃れようとしても(預言者ヨナがしたように)、海に放り出され、大きな魚に連れ帰されてしまいます。そうなれば、もはや逃げ場はないのです。神のしもべとなったら、自分の意志や考えで何ごとも行うことはできません。なぜなら、主が選択する者は、ただ神が割り当てたはたらきのみを行い、神が定めた道を走る者だからです。

2015年7月1日水曜日

7月1日

人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです[1ペテロ]

キリスト者の心の安らぎは、誰に対しても何も負うものがないことだけでなく、自分に負わされた何事をも耐えることにもあります。救われる前、多くの若いキリスト者が人から何かを騙し取ってきました。しかし、救われた後は、人々に対し、公正であろうと試みます。キリスト者であっても、何か不公平な扱いを受けたときは、怒りを感じます。そのような人は気付いていないのです。信者は、他者に公平でなければならないだけでなく、人からどれだけ不公平に扱われても耐えなければなりません。主が人から受けた扱いは、決して公平なものではありませんでした。率直かつ公平に言うなら、主は、私たちを救うために、この世に来て人間になる必要などなかったのです。しかし、ただ私たちを助けるために、主はあらゆる不当な扱いに喜んで耐えたのです。