2015年2月28日土曜日

2月29日

この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています[コロサイ1:14]

クリスチャンが罪を犯し、神に許しを乞ったと考えてみましょう。神が、何時、この人を許されるか、分かりますか?心に平安が得られるまで祈り続けなさい、それが許された証拠だから、と言う人もいるでしょう。たくさんの罪を犯しながらも、心は平安で静まっている人がどれだけいるでしょうか?また、罪はすでに許されているのに、まだ心に平安が無い人はたくさんいるでしょうか?人間の感覚は、どこまでも頼りないものではありませんか?キリスト者が罪を犯したとき、どのくらい祈り続ければ、許しを得られると話しますか?1900年以上前、キリストがあなたの罪をすでに運び去ってしまったことを知らせましょう。また、あなたがすでにキリストの死を死んでいること、またそのため、すでに許しを得ていることも理解してもらいましょう。

2月28日

私たちのいのちであるキリスト[コロサイ3:4]

キリストは勝利です!キリストは忍耐です!私たちに必要なものは忍耐でも優しさ、愛でもありません。キリストだけです。主は全てにおいて勝っているはずです。キリストは私たちを通して忍耐、優しさ、愛を実現されるのです。私たちは死のほかには、何も与えられる価値がありません。死以外には、何も身の丈にあった物はありません。神がアダムを造られた時は、生き続けるよう命令されました。しかし、神は私たちを同じやり方では創造されません。神はその代わり、死のある場所へと私たちを追いやり、ご自身は私たちの中で御心を実現されます。私たちは、身代わりとなって十字架の上で死なれた救い主がいることだけでなく、もっと広く物事を見て、この同じお方が、今も、私たちの中に、私たちのために生きておられることに気付くべきです。

2015年2月27日金曜日

2月27日

こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ[2サムエル6:6-7]

ダビデが王とされるまで、神の箱はペリシテ人の手の内に捕らわれていました。そのときは、箱を警護するウザはいなかったのです。それなのに、箱は護られていました。思い出してみてください。ある場所から他の場所へ運ばれるときも、その力が弱められることは決してありませんでした。ウザにも、他のイスラエル人にも護られていなかったのに、ペリシテ人は手を出すことができませんでした。

しかし、今、神自身の民の中に、この箱が戻ってきました。そうなると、誰か支える人が必要となるのでしょうか?ここにウザの罪が見られます。箱は敵の中にあっても自分自身を守ることができたのです。主御自身の民に属する人に、護ってもらう必要がどこにあるでしょうか?思い出してください。神は箱をレビ人にかついで欲しかったのです。しかし、イスラエルの人々はそれをそれを牛車に乗せました。仮に墜ちたとしても、それは箱自体の問題なのではないでしょうか。人間が手を伸ばせば、どのような理由であろうと、神の証しを滅ぼすことになります。ですから、神はウザに罰を下さずに許すことはできなかったのです。

2015年2月26日木曜日

2月26日

いのちのことばをしっかり握って…、キリストの日に誇ることができます[ピリピ2:16]

いのちのことばをしっかり握りしめなければなりません。私たちはいのちの言葉を持ち出し、他の人に見えるように高く持ち上げなければいけません。聖書は決して、私たちが自分のいのちだけで証しでき、唇はいらないとは述べていません。口を開き、親族や友達、そして、顔を合わせる人、誰にでも証しをしなければなりません。イエス様がマタイの福音書(5:14)で語られたことは真実です。『あなたがたは、世界の光です』。しかし、同じ福音書の中でこうも宣言されています(10:32)、『ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます』。あなたがこれを信じ、このまま実行できたら、あなたの命も輝きを得、周りの人々の中で、自分の口で証しできると信じてください。パウロは、そうすれば、あなたは完璧だと言っています。

2015年2月25日水曜日

2月25日

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです[ローマ7:18]

ローマ書の6章は、私たちがキリストともに死んだと語っています。ローマ書の7章は新しいいのちと古いいのちの戦いを語っています。そして、ローマ書の第8章では聖霊の勝利が語られています。ローマ書6章の6節と11節は、『自身』の死が事実であることを示しています。では何故、この真実を信じながら、かくも多くの人がローマ書8章の勝利を体験できないでいるのでしょう?それは、まだどん底まで落ちていないからです。

神は信者が、自分からこう認めるまで何度でも、突き放します、『私は罪の元に売られた!私の中にはよいものは何もない!』そいなるまで、外から来る力なしには、望みも強さもないことを、その人は気が付かないのです。その時、人はこう泣き叫ぶでしょう、『私はなんと惨めな人間だろう!誰が私を救い出してくれるでしょう!』自分がどれだけ堕落しているかに気づいたとき、初めて、その人はキリストの助けがなければ、罪に打ち勝つことはできないと知り、認めるのです。

2015年2月24日火曜日

2月24日

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい[1コリント9:24]

人が救われたとき、その目の前には神が定めた道筋が用意されていて、そこへ向かって進みます。キリスト者の人生全体は、競争に例えられます。しかし、これは永遠の命を得るために走っているのではありません。むしろ、永遠の命を持っているものだけが走ることを認められるのです。競争の結果は、参加者のあるものは冠を受け、他のものには与えられません。

冠は何を意味しているのでしょう?冠は王国を表します。それは支配すること、統治と栄光を持つことを象徴しています。したがって、冠を受けることは、王国を得ること、すなわち、主イエスとともに支配することを意味しています。キリスト者にとって、永遠の命を受けることは既に定まっていますが、王国を受けるかどうかは、キリスト者がどう走るかにかかっています。

2015年2月23日月曜日

2月23日

しかし、モーセの手が重くなった。…アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった[出エジプト記17:12]

私たち一人ひとりはキリストの体の一部分に過ぎません。そのため、私たちは他の兄弟姉妹の加護がなければ生きていくことができません。モーセの手でさえ、アロンとフルに支えてもらう必要がありました。モーセでさえ、他の部分の支えが必要であるなら、私たちはどうでしょう?

ハデスの門は教会に打ち勝つことはできません。このことはまさに主イエス様御自身が約束し、宣言されました(マタイ16:18を参照)。しかし、私たちの主は、神の子供たちが、教会から離れて一人で生きていけるとは約束していません。霊的な戦争は、個人的な戦いとは違います。集団の戦いです。そのため、必要な保護を得るために、兄弟たちのところに行かなければなりません。自分たちが、単独で戦える力があって、『一人で行ける』とは決して考えないようにしましょう。

2月22日

彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった[マタイ2:9]

『東方で見た星』、これは彼らが最初に見たのと同じ星です。神の導きを間違いなく受けたいと望むなら、はじめに星が天に現れた後、2回目にまた見ることがあるはずです。これは霊的な原理です。星が二回、現れることで、はじめに現れたことが、間違いではなかったと確認できます。

神はアブラムにこういわれました(創世記12:1)、『わたしが示す地へ行きなさい』。はじめの一歩を踏み出した後、神から2回目の言葉があって、それが正しい道であると示してもらえない場合は、その一歩は間違いだったのかもしれません。啓示の後で、続けて啓示があれば、初めの一歩の正しさが証明されます。ある啓示を、新たな啓示でもって、追認することは、常に覚えておくべき、神の原理です。

2015年2月21日土曜日

2月21日

そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった[マルコ6:48]

48節に、非常に大切なことが語られています。主が水の上を歩いているとき、『彼らの横を通り過ぎようとした』とあるのです!これを読んで多くの人が驚くのではないでしょうか。主は、弟子のところに行こうとしていないかのようです。しかし、実際のところ、ここには何の問題もありません。主は、弟子たちに湖の反対側、ベツサイダに行くようにお命じになった後、ご自分も山から降りてベツサイダへと向かわれるのです。主は、他のどこかで弟子たちを待つわけではありません。主は、御自分が弟子たちに向かうように命じた、まさにその場所で彼らに会おうとされます。もし、彼らが行き先を変えてしまったとしたら、主は彼らに会うことはできなかったし、御自分の進む方向を変えて弟子たちを待つこともされなかったでしょう。とても、厳しいことです。

時々、主は私に上海に行くように命じたつもりだったのに、代わりに南京に行くことを選んでしまったのか、主が来られる時には私は引き上げてもらえるのか、考えてこんでしまいます。携挙は主の決めたときところにおいて起こるからです。そして、もしその場所にいなかったら、携挙を見逃すことにならないでしょうか?私たち、一人ひとりが自分がどこにいるか、責任を負っています。

2015年2月20日金曜日

2月20日

いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません[使徒20:22]

人間の体に感覚があるように、人間の霊にも感覚があります。霊の感覚は、『直感』と呼ばれています。それは、霊から直接来るものだからです。たとえば、あることをしようかどうか、考え込んでいるとします。それはとても合理的なことのように思え、気に入っており、実行に移すことに決めます。それでも、私たちの中にどこか、重く、息詰るような言葉にできない感覚があり、それが心で考えた何か、私たちの気持ちが捕らえた何か、私たちの意志が決定した何かを押しとどめようとします。決してそれを行ってはならないと語っているように思えます。これが本能による制限です。

反対の例を取り上げて見ましょう。時には、まったく理屈に合わず、私たちの喜ぶものと反対で、私たちの意志とまったく逆行するものもあります。しかし、理解できない理由で、私たちの中にそれを実行させようとする強い気持ち、欲求、それを推し進める何かが生まれます。それを実行したとき、内側で幸せな気持ちになります。これが直感による強要です。

2015年2月19日木曜日

2月19日

このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです[2ペテロ]

ヨーロッパでの大戦が終わるとすぐに、ロンドンで大きな戦勝記念の会が開かれました。終戦の直後であり、兵士たちが凱旋の行進のために故郷に戻ってきたのでした。兵士たちが行進していくところ、喝采と賞賛の叫びが絶えることなく流れ出しました。続々と兵が通り過ぎていきましたが、突如、喝采と賞賛の声がひときわ大きく高まり、空気が震えるほどの大きな音が響きました。それを見た人々は、感激の涙をこぼしました。ある瞬間、貴族たちが敬礼し、王は冠を取りました。なぜでしょう?兵隊の行進のすぐ後ろに、手足を失ったり、体にひどい傷を負った兵隊を運ぶ車が続いてやってきたからです。

この地上で苦難を経て、キリストのために自分を投げ出した者は、その日が来れば多くのものを受けるでしょう。傷ついた兵士たちが凱旋の行進の中で受けたのと同じように、より大きな喝采、より大きな賞賛のことば、そしてよりすばらしい栄光を受けることでしょう。

2015年2月18日水曜日

2月18日

そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた[マルコ14:19]

もしも、パンの塊が主の手の中になければ、主には祝福することができません。祝福された後で、砕かれる(裂かれる)必要があります。人々は祝福をかくも受けたがるのに、砕かれることは忌み嫌います。もし、パンを裂かなければ5千人の飢えを満たすこともできなかったのではないでしょうか。また、もしパンが主の手に渡らなかったら、どうして主はパンを裂くことができたでしょう?主は、いつでも私たちが身を捧げたことを真摯に受け止め、私たちを砕き始めます。身を捧げると、時には、何か普通ではないことが起こります。愛する誰かを失うとか、財産を亡くするとかいったことです。これはあなたが砕かれることの表れです。自分のすべてを捧げるまで、砕かれることはないからです。

2月17日

キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです[1コリント15:25]

今日も私たちの主イエス様は死とハデスの鍵を握っています。主は反逆するあらゆるものの痕跡を消し去るまでお待ちになります。主はご自身の血を最も清いものとして、天国を純粋なものとされ、それ以来、神の祭司として働かれています。主が戻られる時には、すべてのものが初めに神が計画された姿に戻るのです。その時、主は神の王となられます。主はご自身の勝利の聖人たちと共にこの世を天国から支配されます。主は、地上の住人に、神の御心と礼拝する方法について教えてくださることでしょう。そして千年王国のようすは、罪が入る前の世界と似ているはずです。あらゆるものを初めの御計画通りの姿に戻されたときに、キリストは神の永遠の目的を満たすことになるのです。

2015年2月16日月曜日

2月16日

四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました[使徒7:23]

聖書の中に、とりわけ貴重な事実が隠されています。それは、神は御自身に寄り添う心を宝とされるということです。モーセの美しい物語を読むと、彼が、神により頼んでイスラエルの子供たちを救いたいと言う心からの願いを持っていたことが分かります。彼は80歳になるまで、主に用いられることはありませんでしたが、モーセの心の願いは、80歳の年寄りになってからではなく、40歳の時から始まりました。40年と言う長い月日が流れても、神のこの男の心にあった願いを忘れていなかったのです。

これはサムエルも同じです。彼の母、ハンナは神にこう祈りました、『もし、あなたが、…このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします(1サムエル1:11)』。サムエルの母が、この心からの願いを神に捧げたからこそ、サムエルは後に神に呼ばれ、用いられ、神の御計画を実現して、世を治めました。主は、御自分に向けられた心からの願いを見いだすとき、それを宝とされます。

2015年2月15日日曜日

2月15日

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選ばれたのです[1コリント1:27]

人間は知恵や力を欲しがりますが、神は愚かで弱いものを捜し求めます。第1コリントはキリストの知恵と力について語っています。また、神は愚かで弱いものを選ぶことを明確に示しています。ギリシャ人は知恵を求めるのに対し、ユダヤ人は奇跡を求めます。これは力を示すものです。しかし、神は人間の力と知恵には目もくれません。人間の知恵があるところには、肉の力があります。人間の知恵と力は、人間社会の出来事に対してのみ効果を持ちます。神への奉仕に使われた場合は、それを破壊してしまいます。

神は聖霊の強さと力を、御自身の働きを成し遂げるためにのみ使われます。そして、この強さと力は、この世の愚かな者と弱い者を通して現されるのです。

2015年2月14日土曜日

2月14日

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた[黙示録12:10]

権威(ギリシャ語でexousia)とは絶対的で、制限のない行動の自由、または行動する権利です。それは、理屈ではなく、あらゆるものが従わなくてはならない力をさします。現代に生きる人々は、力を重視しますが、権威は無視します。人間が罪を犯したのは、神の権威をひっくり返そうとしたからです。ルシファーがサタンに変わったのは、神の権威を捨てたいと願ったからです。彼は、自身が神の権威に服従しないだけでなく、人間にも神に対して立ち上がって逆らうように駆り立てています。キリストが来られる時には、しかし、必ず御自身の権威でサタンを押しつぶすでしょう。主の口から出る剣は、その権威の力です。現代のキリスト者も、神の権威の元にひれ伏すことを学ばなければならないのです。

2015年2月13日金曜日

2月13日

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです[1ヨハネ3:14]

死からいのちに移った者は誰でも、お互いを愛します。ひとつの霊的な体の一部となったものは誰もが、お互いを愛します。このような愛は命から来るもので、自然に流れ出て来ます。もし、こんな人がいたら神の子供と考えてもらえるでしょうか?その人は、自分が間違いなくキリスト者であると答えます。誰かに、キリスト者であるからには他のキリスト者を愛さなければならないと教えられると、こう言うのです、『そう仰るなら明日から他のキリスト者を愛することにしますよ』。ああ、考えて見ましょう。真に天から生まれ、神のいのちを持つ者であれば誰でも、おのずから同じキリストのみからだを成している全ての者を愛するのです。教えられたからではなく、自分から兄弟を愛することを知っています。

2015年2月12日木曜日

2月12日

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです[マタイ5:6]

あるとき、クリスチャンの医師が牧師に尋ねました。『霊的な始まりと霊的な成長は、飢え渇きから来るそうですね。ほとんどの人は飢えも乾きも感じていません。どうしたら、それを感じてもらえるでしょう?』牧師は、こう答えました、『あなたは医者でしょう。人間には命があることは知っているでしょう。死んでいるのでなければ、多少なりとも食べ物が欲しいと思うはずです。では、食べ物への欲求を強めるにはどうしますか?感覚を刺激する薬を、食欲が正常になるまであげるでしょう。それと同じで、なんらかの内なる要求があるなら、その信号に従うことを学ぶ必要があります。この小さな感覚に従えば、飢え乾きは少しは大きくなります。従うほど、結果として、飢え渇きは強くなります。あなたの内なる欲求が強くなるにつれ、いっそう、従うようになります。そして、更に強く従うようになれば、内なる欲求は更にもまして大きくなってゆくのです。従えば従うほど、内なる欲求も大きくなります。こうして、あなたは直ちに、自分が心の内側で生きていることを認めるのです。』

2015年2月11日水曜日

2月11日

さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た[ヨハネ20:1]

主の働きの大切さについては良く知っているのに、主ご自身の大切さを知らない人が大勢います。マグダラのマリアが他の人と違うのは、救い主ご自身を宝としたことです。自分が受けた救いにだけ感謝したのでありません。悪霊を追い出してもらった人がたくさんいた中で、主の後を追い求めたのは一人だけでした。それがマグダラのマリアです。他の女たちも主を探しに来ましたが、墓に最初に現れたのはマグダラのマリアでした。彼女は主の初めの日の早朝、またあたりが、暗いうちにやってきました。主の姿を探することしか頭になかったのです。ある兄弟がいみじくもこう言いました、主イエス様が死んだ後、マリアの目には全世界が真空になってしまった!全世界をもってしても彼女の心を欺くことはできませんでした。それはある方がその心を捉えていたからです。彼女の心は完全に主のものとなっていたのです。

2015年2月10日火曜日

2月10日

「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた[マタイ18:1-2]

主は、たとえで話されるだけでなく、大切なことを具体的に説明されることがあります。小さな子供を弟子たちの真ん中に立たせることで、二種類の人々の違いを明白に示すことができるのです。小さな子供を見れば、誰でもすぐに背の高さ、体重、年恰好、経験などが分かります。訊いてみる必要もありません。一目で十分です。

生まれかわった人なら、小さな子供のように、いつもへりくだっていられます。このような人が天の御国では最も偉いのです。残念なことに、多くの人はこの条件を省みません。自分は子供に過ぎないくせに、大人のように振舞うのです。『子どもたちのようになる』(3節)ことが天の御国に入る条件のひとつであり、この条件を守ることが、結果的に偉くなるための根本条件となります。

2015年2月9日月曜日

2月9日

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい[エペソ6:18]

私たちの祈りが真に力を表すためには、祈りを網のように広げなければいけません。どういう意味でしょう?祈りをする時はいつも、祈るべき対象がひとつとして漏れてはいけないと言うことです。何かを忘れることは許されません。この『祈りの網』がなければ、良い結果を得ることはできません。祈り方を知っている人は、心の欲求をすべて神の前にさらけ出すことを知っています。その人はあらゆる種類の祈りを使って、網のようにすべてを取り囲むので、敵対者は何もできません。昨今の私たちの祈りはあまりに目が粗く、強さも十分ではありません。たくさんの言葉は使いますが、祈りは遠くへ届かず、敵が攻撃する隙間を作ってしまいます。しかし、私たちの祈りが広げられた網のようであれば、敵が入り込む穴はありません。かくして、私たちの神への頼みごとは成就されます。

2015年2月8日日曜日

2月8日

主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです[2ペテロ1:3]

聖書には、『事実』という言葉はでてきませんが、神の言葉の中に数々の成された事実を見つけることができます。神の約束について言えば、それが実現されない可能性もあります。私たちがお願いしなかったり、そのための条件を満たさない場合です。しかし、神の事実は、私たちがお願いしないからという理由で、実現されないことは決してありません。これはすでに事実ですから、お願いする必要はないのです。神は、ご自身の事実を受けるために、特別なことを要求されることは決してありません。ただそれを信じればよいだけです。信じれば受けることができます。神の約束は遅くなることはあるかもしれませんが、神の事実は決して、足止めされることはありません。神の事実を受け入れたのに、それが与えられるまで何年も待つことは有り得ません。何であれ、神がすでに成し遂げられ、キリストにおいて私たちに与えられながら、それを未来まで引き伸ばすことは絶対にありません。神がそれを与えることをためらうなら、それは事実に相反することになるからです。

2015年2月7日土曜日

2月7日

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです[マタイ25:14]

これはしもべたちに対するテストです。しもべたちは主のおられる前では正直かもしれませんが、真の信仰とは主がいないときにこそ見られるものだからです。主は自分の持っているものを彼らに預け、財産を管理させます。今日の私たちも同じです。主は財産を私たちのところに持ってきました。そして、私たちは今、目には見えない主に仕えています。

このマタイの説明を見ると、主はしもべたちに、自分の財産をどうするか、明確には指示していないようです。主は、私たちに自分の考えを探り、それのとおりに実行して欲しいのです。主の御心を知り、それを行うものは、報酬を受けるに値します。しもべたちに、何をすべきか指示しないことが本当のテストなのです。

2015年2月6日金曜日

2月6日

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました[エペソ1:4]

ああ、これはなんという恵み深い呼びかけでしょうか!これまで、失敗したことも、弱かったこともない人には、この呼びかけが唯一無二のものであることが理解できないのではないでしょうか。しかし、自分がどこまでも弱く、役に立たないものであるか、多少なりとも気づいたき、それどう心で受け止めるでしょう?あなたはきっと、こう言うでしょう、『神様、ありがとうございます。私に対し、あなたと同じように、聖なる者となるように、罪なき者となるように、完全なものとなるように呼びかけてくれたこと、ありがとうございます』。神を褒め称えましょう。そうすれば、いつの日か、主が私たちを選んだ目的が分かるでしょう。私たちが今どれだけ、弱く、無力で、非難を受けるべきものであろうと、ある日、神が私たちをある場所に連れ出してくれます。そこで、私たちは神の前に、主ご自身と同じくらい神聖で傷のないものとして立つことができます。これが、神が私たちを選び、呼びかけてきた目的です。主が、これほど望んでおられるのですから、間違いなく、それは行われます。

2015年2月5日木曜日

2月5日

また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです[ヘブル9:22]

罪の許しの問題に関して言えば、ある人は許しを得るためには、できる限り善い行いをしなければいけないと思っています。しかし、何年に渡って善行を積まなければいけないか、知りようがありません。別の人は、平安を得たと思える日まで祈り続けなければならないと想像しています。しかし、そのような努力は自分の中だけで、自分だけで成された物であると言わなければなりません。

私たちは罪を善行で償うことはできないと知っています。善いことをするのはどの道、義務に過ぎないからです。また、神に罪の許しを嘆願することもできません。自分の罪を忘れるまで祈り続けて、心の平和を取り戻すこともまた不可能です。罪を許され、清められるには、唯一、あの方の血を通して行うしかないのです。『血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです』。主イエス様の血こそが、私たちの罪の問題を解決することができます。主の血こそが、私たちの全ての邪な行いから私たちを清めてくれます(1ヨハネ1:7)。あなたは信じますか?

2015年2月4日水曜日

2月4日

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます[マタイ13:45-46]

真珠は教会の美しさを表すものです。教会の美しさは主に輝きを添える飾りです。人々はこの美しさを見て主を褒め称えます。

真珠を作る過程は非常に興味深いものです。真珠は海に住むある軟体動物によって作られます。かなり醜い生き物です。これはある意味、教会が最もへりくだったキリストから出たことに似ています。なめらかで、光沢があって色彩豊かな分泌物が、この軟体動物の生命そのものであり、これが流れ出して、貝の中に入ってきた砂粒などの異物を取り囲みます。いわば、この軟体動物は、真珠が形成されるときには、傷を負っているのです。真珠が丸いのは、この軟体動物の柔軟さのたまものです。軟体動物がやわらかく、また繊細であるほど、真珠は完全な球体となります。私たちのキリストはどれほど繊細で優しいお方でしょうか。

2015年2月3日火曜日

2月3日

ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた[ルカ18:2-3]

主イエス様を信じる私たちは主の側に立っています。したがって、主の敵はそのまま私たちの敵であると見なさなければいけません。同じように、主の敵であるサタンは、私たちを何もせずに見逃すことはしないし、私たちに正面から敵対もしません。サタンは主イエス様を自分の敵と考えているので、主の弟子たちも自分の敵であると考えるほかはないのです。

この敵意は日増しに強まっています。敵はあまりに強いし、私たちのほうは弱く、やもめのように見離された存在なので、悪魔は持てる全ての力で、私たちを押しつぶそうとします。これにより私たちは大きな損害をこうむります。私たちはその手の内であまりに大きな苦しみを受けています。今日のキリスト者がどれほど悪魔にひどい目にあわされているか、語りきれません。そして、このような邪悪な行為に、立ち向かわなければ、いつまでも損失をこうむり続けます。神の子供の多くが今なお、サタンの抑圧に気づかずにいるとはなんと悲しむべきことでしょうか。

2015年2月2日月曜日

2月2日

あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです[2コリント6:12]

電気の持つ力と言うのは大変なものですが、小さなスイッチひとつが切られれば、電流は止まってしまいます。霊的な命の力は本当に大きく、皆に備わっているものなのですが、条件がそろわなければ、成長することなく、抑えつけられてしまいます。

では、どうすればこの命を広げることができるでしょう?忘れないでください。命を受け入れるときは、心がきっかけとなるのですから、同じように、命の成長も、心から始まらなければなりません。霊的な命が広がるかどうかは、私たちの心がどれだけ神に対して開かれているかにかかってます。心が神に対して開かれていたら、私たちの命は広がるでしょう。しかし、もし心が閉じていたら、広がる可能性はまったくありません。ですから、ここで心の問題に戻ります。これを見逃してはいけません。

2015年2月1日日曜日

2月1日

では、律法とは何でしょうか。それは…違反を示すためにつけ加えられたもので…[ガラテヤ3:19]

神が律法をお与えになったのは、人間にそれを守らせるためでなく、むしろ、人間にはそれをとても守れないことを悟らせるためであったことを知るべきです。神は既に人間が罪を犯したことを知っています。しかし、人間の方は自分が罪を犯したことを知りません。だからこそ、神は律法を与え、これによって人間が自分のことを知り、自分には律法は守れないことを理解させたのです。当然、私たちの主はこのことを全て知っています。考えても理解できないことですが、神の子がこの世に来られたのは人々に律法を守ることを教えるためであり、その律法とは人間の力ではとても守ることはできないもので、それ自体はそむきの罪を教えるためにつけ加えられたものでした。律法には人間が罪を犯すことを止めることはできないなら、神の子はできないことをしなさいと、命じるために来られたのでしょうか?神は、その御子を人間を救うために送られたのですから、御子は、救われるために人間が律法を守らなければならないとは、お考えにならないのです。