2015年12月31日木曜日

12月31日

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、…[黙示録1:17]

神はこの世界の始まりを作られましたが、では終わりはどうなるでしょう?この質問に対して、神ご自身が答えを出されています。黙示録の第1章で、主による宣言がなされています、『わたしは、最初であり、最後である』と。これは、イエス・キリストの黙示です。そして、同じ書の最終章(22:13)で主は、『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。』と、再び宣言しています。これもまたイエス・キリストの黙示です。

言葉を換えて言えば、神が始めたことは、真実をもって終えられるということです。かつて、エデンの園で解決できなかった問題も、後に解決されます。主のあがないは完全で完璧なものです。そして主の永遠の計画は完遂されなければなりません。今日解決できなかった問題はすべて、主がやがて来る日に解決してくれます。神に感謝しましょう。来るべき日にはキリストがすべてのものを完成してくれます。主は、最後であると同時に最初でもあるからです。これはイエス・キリストの黙示です。神は私たちに示されます。最初であり最後であるこの方ご自身が、まことにすべての問いへの答えであることを。

2015年12月30日水曜日

12月30日

すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです[1コリント15:22]

アダムにある以上、私たちは皆、罪人であることを忘れてはなりません。アダムから生まれたものはみな、アダムの性質を受け継ぎます。私たちの中の罪人は、すぐにかんしゃくを起こし、ためらいなく嘘をつきます。アダムの命、性質や行いが私たちの中に入り込んでいるからです。救いの道は、神が私たちを良くしてくれる事ではなく、アダムから私たちを救い出して、キリストの中に入れてくださることにあるのです。これによって、キリストにあるすべてのものが私たちの中に流れ込んできます。アダムの中にある私たちはすぐに罪を犯し、キリストの中にあるときにはじめて、義を実践できることを聖書は示しています。次のことに注意してください。私たちの心の中に秘密の場所があり、そこに間違いが潜んでいます。それは、神が私たちを変えてくれることを待ち望む考えです。しかし、神が私たちの内に何かをするということは決してありません。そうではなく、私たちの中にキリストを入れてくださるのです。

2015年12月29日火曜日

12月29日

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』[マタイ25:21]

霊的な事柄においては、『時』は『永遠』のためにあることを認めなくてはなりません。すなわち、今のこの時に行う働きは、私たちが永遠に用いられための準備に過ぎないと言うことです。神が、私たちを今、この場所におかれたのは、永遠の中で用いられるように訓練するためです。時間とは、霊的な訓練と教育を受ける学校のようなものです。今、この時に受けている霊的な訓練と教育のおかげで、永遠の中で、私たちは真に神の役に立つようになれるのです。黙示録22章から分かるように、私たちは永遠の中でさえ神に仕えるのです。今日、主が私たちを神の子供たちの間におかれるのは、私たちが彼らと共に学んで、主に用いられ、永遠に仕える準備をするためにです。

2015年12月28日月曜日

12月28日

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです[ピリピ2:13]

ある女性が亡くなったとき、その墓石にはその人自身の言葉が刻まれました、『彼女は自分にはできなかったことをなした!』

私たちはとても厳しい毎日を送っています。私たちが完璧な救いを得て、清い生活を送ろうと思えば、それは神のみ業でなければなりません。多くの人がキリストの真似をしようとしますが、絶対にうまく行きません。しかし、神がなされるから、私にできるのです。神が私の中で働かれるのだと言う事実を早く認めてください。働くのは私ではありません。神が初めに働かれるから、私が働くのです。聖書にある崇高な要求を、自分の力で為そうと試みても、失敗するに決まっています。私がしなければいけないのはただ、望むこと、私の中で働いてくださいと神に頼むだけです。

2015年12月27日日曜日

12月27日

するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」[ルカ5:5]

すべてのものは神の所有物であり、神にできないことはありません。だから、神こそがすべてであるはずです。すべては御霊の力のうちに成されなければなりません。もし人間がほとんど無になってしまったら、神のみ言葉も大きな痛手をこうむり、あらゆるものが前に進むことを止め、すべてがいっせいに消え去ることはないにしても、その実は衰えてしまうだろう、と考える人がいます。しかし、私たちにとって大切なのは、本物の霊的な働きであり、神の前になる御霊の実です。

御霊の働きは、たった5分でも霊的な役に立ちます。一晩中、ずっと仕事をしても何もなしとげられない私たちと違います。主の命令が下るまで待って、ただの一投げで網いっぱいの魚を捕まえるほうがはるかによいのではないでしょうか?

2015年12月26日土曜日

12月26日

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った[使徒16:6]

私たちが神の僕であることを理解しましょう。主は、ご自分の働きを私たちに任せてくれますが、その僕に指示する権威は、いつも維持しておられます。思い出してみてください。アンテオケにおいて、聖霊が主の僕たちに働きをさせるために呼び出しましたが、パウロとシラスは自分たちが選択したアジアには行けませんでした。主の僕がどこへ行くか、それを決める権威は、永久に聖霊の手の内にあります。この時、アジアの誰かに必要があったからではなく、アジアにおいて、神が彼らを必要としていたのでした。主のために働く力を与えてくれる御霊が、働くところと時を定めてくれることを、使途行伝が教えてくれます。これは素晴らしいことです。働きをするにあたって私たちの責任は、神のその時々の必要を支えることにあります。

2015年12月25日金曜日

12月25日

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」[マタイ2:1-2]

人が飢えていなければ、神は啓示を与えないでしょう。東方の博士たちはおそらく、神に仕え、神を求めてきた人たちなのでしょう。死んだ知識しかなければ、パリサイ人のようになってしまいます。聖書の言葉は知っていても、天国の光を見ることはできません。彼らは、聖書を読んで、救い主のことを、非常に詳しく知っていました。しかし、天国の星が現れたのを見て、彼らは救い主の降臨をみとめたのです!天に現れた星とミカ書(5:2)の予言があったからこそです。神の啓示を受け止める条件とは、待つこと、そして求めることです。

2015年12月24日木曜日

12月24日

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい[マタイ26:41]

クリスチャンがもっとも攻撃を受けやすいのは祈っている時であることは、みな知っています。他のことをしている時は、夜11時、12時までも人と話していられるし、深夜遅くまで働くこともできます。しかし、夜9時に祈ろうとすれば、何かが足を引っ張り、もう眠りたいと思うでしょう。なぜ、初めは調子よかったのに、祈り始めた途端に疲れた気分になるのか、理解できないと思います。

あなたを祈らせないように妨げる敵がいるのだと考えれば、これは説明がつきます。敵は、あなたが天国に語りかける回線を切断したいのです。祈りの力を知っているからです。祈りによって、その活動が制限され、天国からの力を呼び入れることをよく知っているのです。

2015年12月23日水曜日

12月23日

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか[マタイ6:26]

『神にできるだろうか?』、とか、『神はしてくれるだろうか?』とたずねる者は、自分の不信仰をあらわにしています。神への信仰なしに生きることは、人間にとってなんと言う苦しみでしょうか。私たちの悩み事はただ神を信じることによってのみ、和らげてもらえます。神がこの世界を5日間で造り上げた後、6日目に人間を造られました。神は人間を作る前に、必要なもののすべてを用意されました。私たちはよく、自分たちが初めの日に造られたと想ってしまいます!

心配しても何の助けにもならないと分かっているのに、なぜ心配してしまうのですか?助けがあるなら、心配する必要はありません。誰も助けてくれないなら、心配しても、やはり意味はありません。

2015年12月22日火曜日

12月22日

神の霊は水の上を動いていた[創世記1:2]

『動いていた』は元の意味では、『浮かんでいた』とか、上を『漂っていた』と言うことになります。この意味からは、愛情と思いやりを示す絵が浮かんできます。ここにあるのは、母鷲と子鷲を描いた申命記32章11節と同じ言葉です。神もまったく同じではないでしょうか、『わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。』。私たちが神の愛に応えられますように!神のみ心は、どれだけ私たちを求めていることでしょう!そして、私たちは何者なのでしょう?罪びと以外の何者でもありません。堕ちた人間に過ぎません。それでも、主は私たちに怒っておられませんし、私たちを蔑むことも、見放すことも決してありません。神は、私たちの上に精霊が漂う価値がないとは決して考えません。

2015年12月21日月曜日

12月21日

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです[1コリント1:29]

生活と仕事において、信者の進歩を最も妨げる要因はその肉にあります。人は自分の肉を、すべて否定するようにという神の呼びかけに気付いていないのです。罪から離れるだけ十分だろうと想像しています。神の働きを助けるための能力、情熱、知恵、また、霊的な生活における自分の善良さと力、どちらに対しても、神は等しく不満足であることを人は知りません。肉に従って私たちがよいと考えるもの、肉の手段によって計画し、用意するものはすべて、自分で拒否し、死へと明け渡し、神に基づいて審判を受けなければなりません。主には肉の助けは何の役にも立ちません。これは、霊的な生活、霊的な働き、どちらにおいても同じです。

2015年12月20日日曜日

12月20日

彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとした[マルコ15:23]

これは十字架の上で、味合わされる痛みを和らげるためだったと言われています。しかし、私たちの主はそれをお受けになりませんでした。主は苦しみから逃げることを拒まれました。この世に来られる前、主は『まずすわって、その費用を計算』しました(ルカ14:28)。主は世のすべての罪人を心から愛されたので、彼らのすべての苦痛を喜んでその身にお受けになったのです。主はむしろ、罪人の死を、ただこの一度で完全に味わい、それによって、彼らが永遠の命を受けられることを望まれました。主は、罪人が持つあらゆる苦しみを敢えてご自分の身に受けられましたが、それは、彼らが主の正しさを喜ぶことを望まれたためでした。

12月19日

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです[創世記3:5]

神にとって、ご自身の外側からなされた行動はすべて罪です。『神のようになりたい』、たとえば、これは立派な願いです。しかし、神の命令をきいて、神の時を待つことなしに、これを試みようとすれば、それは神の目には罪と映ります。私たちはいつも、悪い事柄を罪とみなし、良いことを正しいと考えてしまいます。神の考えは、しかし、これとは異なります。良いものと悪いものを見かけで区別するのではなく、神は物事がどのように成されるかを見極めます。その言動が世の中に対してどれほど立派に見えようとも、神の御心を求め、神の時を待ち、また、神の力により頼むことなしに、信者が行ったことはなんであれ、神の目には罪を犯したことになるのです。

2015年12月18日金曜日

12月18日

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです[コロサイ3:11]

イエス・キリストは信仰の創始者であり、完成者であると言われています。私たちの信仰は、主の中に始まり、主の中に終わります。私たちが信じるものは、主の中だけにあります。私たちはただ、主を追い求めなければなりません。神聖さ、勝利、完璧な愛、御霊による洗礼、魂を獲得したいと言う渇望、どのような霊的な闘いも、私たちの主への思いを奪い去ることはありません。初めから終わりまで、それは主イエス様ご自身です。私たちの信仰は、主を終わりであると共に、始まりであると捉えます。主以外に何も見るものはありません。当然のことながら、主イエス様を見つめ続ければ、清さ、勝利、そしてこれらのもののすべてがいのちの中に現されます。許し、正しさと新生がキリストの中にあります。御霊の清さ、勝利、完全さも同じようにキリストの中にあります。キリストこそすべてです。主は、すべての始まりの始まりであり、すべての終わりの終わりです。簡単に言えば、私たちのすべては主のうちにあるのです。

2015年12月17日木曜日

12月17日

それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない[レビ記6:5]

罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえにはその性質において、基本的な違いがあります(第2節を参照)。罪のためのいけにえは『なだめ』のために行われ、罪過のためのいけにえは『償う』ために捧げられるからです。

私たちの罪は、神の前で、神の子羊の流された血を通して、和らげてもらわなければなりません。私たちが人間に対して犯した罪は、どのような物であろうと、償わなければならず、和らげることはできません。預りものをごまかしたり、不正なやり方で利益を得た場合は、相手に対して償う必要があります。償いをしないのなら、罪過のためのいけにえを捧げることはできません。主イエス様の血を通して神の許しを得ることは真実です。しかし、人に対して罪を犯しながら、それを償うことを拒否すれば、神との対話は失われます。過去に行ったことを考えるといつも、良心が咎められるでしょう。そのような状態で、神と自由に交わることはできません。

2015年12月16日水曜日

12月16日

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです[マタイ5:8]

『心がきよい』とは、ただ神の栄光と御心がなることだけを目的としていることを意味します。このような人は神が得るもの意外は何一つ求めません。神は、探求する対象であり、同時に最終的な答えでもあります。ただひとつのもの探す人は、ただひとつのものを見ます。神を求めるからこそ、その人は神を見るのです。『彼らは神とキリストとの祭司となる』(黙示録20:6)。司祭とは神を見る人のことです。誰も、神を見るという恵みを失うことがありませんように。

2015年12月15日火曜日

12月15日

このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました[1ペテロ4:1]

ここで言われているのは、どのような武器でしょう?それは最良の武器です。キリストが苦しみを受けたときと同じ心で武装しているからです。神に従順である時はいつでも、あなたの人生はとても苦しいものとなり、誰からも厳しい扱いを受けると、告げられるでしょう。これに対して、あなたはキリストのこと、主がどれほどの苦しみを肉において受けたかを想い、このため、あなた自身も苦しまなければならないことを思います。

これが私たちの武装です。私たちは苦しみを受けるのです。苦しむことは私たちの義務だけでなく、私たちの職務でもあります。苦しみを受けるのは私たちの仕事のようなもので、私たちはこれを心から喜んで受け入れます。このような武具で武装すれば、あなたと私は何者をも打ち負かすことができます。苦しみを受けることを恐れず、むしろ、喜んでそれを受け入れるのです。苦しみを目の当たりにして怖気ずくことなく、逆に自分から向かって行きましょう。

2015年12月14日月曜日

12月14日

イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」[マタイ24:2]

人の目に見えるものは外面であり、一時的なものに過ぎませんが、主はその霊的な力によって、視覚を超えて見通すことができます。現在の人間の目に、美しく映るものはこの世であり、文明化されているのは物質に過ぎません。しかし、主の持つ霊的な視覚を通せば、人間にも、地上にあるあらゆるものはいつの日か、焼け落ちるという事実を覚えることができます。私たち信者は、なぜ、それでもなお、この世のものを心を奪われるのでしょう?弟子たちには分かりませんでしたが、世界がどれほどよいものであろうと、すべてが火の中で燃え尽きる日がくるのです。

2015年12月13日日曜日

12月13日

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です[1コリント12:12]

マタイによる福音書を読むとキリストのある面を知ります。マルコによる福音書を読むと、キリストの別の顔に気付きます。ルカによる福音書を読むと、キリストの清さのさらに違った側面が見えてきます。そして、ヨハネによる福音書を読めばキリストの栄光について、また別の面を見ることができます。これに加え、ペテロの手紙を読むと、キリストの荘厳な輝きを拝し、パウロの手紙を読めば、そこにはキリストのことがまた別の形で表されています。また、ヨハネの手紙をたどれば、キリストの栄光ある美しさの記録は、これまでに書かれたあらゆるものに勝ると告白せざるを得ないでしょう。これらすべてのことから、私たちの主は誰よりも偉大なお方であり、信じる者は年齢や国籍にかかわらず、主のことを語らずにいられないのです。キリストのみ体は、主の命、そのさまざまな美しさと栄光が、個々の器官を通して、現れているところです。

2015年12月12日土曜日

12月12日

信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました[ヘブル11:21]

神はヤコブの杖のことを自らの言葉で語っておられます。家から出て行ったときも、家に帰ってきたときも、エジプトに向かった時も、その人生を通して、ヤコブはいつも杖を持っていました。これは、ヤコブが人生全体を巡礼者として生きたことを示しています。だからこそ、神は喜んだのです。

これからは、私たちも巡礼者としての人生を送ることになります。世の暮らしに戻ることはないのです。あなたの手には杖がありますか?エジプトに残るか、それとも、荒れ野を旅して約束の地、カナンに達するか、あなたはどちらだと思いますか?あなたが住む世界は、単なる通路に過ぎず、死んだ後は墓石しか残らないのです。通路と墓石、この二つの他には、あなたはこの世と何のかかわりもないのです。

2015年12月11日金曜日

12月11日

主であるわたしは変わることがない[マラキ3:6]

神は決して変わりません。主イエス様の働きも変わるということはなく、御霊もまた、変わりません。何も知らない子供は、雨の日には太陽が消えてしまったと考えます。そして、父親に太陽はどこに行ってしまったのかと尋ねます。階段を上がって、少しでも太陽に近いところから見ようと試みますが、決して見えせん。それでもあきらめず、近くの火の見やぐらに登ってみても、やはり太陽を見つけることはできません。しかし、実際は、太陽は変わったわけではなく、ただ黒い雲の後ろに隠れていることを、私たち大人は知っています。これと同じで、信者にとっての太陽も変わることはありません。ただ、信者の感情かたが変わるのです。自分の心の空に黒雲が立ち込め、太陽の光が視界から遮られてしまいます。信者が自分の感情の中だけに生きれば、その人の空は簡単に変わってしまい、いつも厚い雲の後ろに隠されてしまいます。しかし、感情に頼って生きることをやめれば、空が変わることはなくなります。私たちは、感情と言う黒い雲よりも上に生きなければなりません。

2015年12月10日木曜日

12月10日

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです[ローマ8:2]

ここで言ういのちの原理の性質とはどのようなものでしょう?その性質は、ある流れに沿って無意識のうちに働きます。たとえば、耳は無意識のうちに聞くし、目は本能的に見ます。意識して、そうしむける必要はありません。舌が食べ物を味わうのも同じで、良いものは自然に飲み込み、悪いものは吐き出します。どちらも、意識的な努力は必要ありません。神が私たちの中に入れるものは、いのちであり、このいのちはそれ自体が原理なのです。

以下のように考えてみましょう。枯れた桃の木にこう話しかけるところを想像してみてください、『あなたには緑の葉と赤い花があるはずだし、時機が来れば桃の実を結ぶのではないですか』。一年の初めから終わりまでこう言い続けようとも、何も得られません。その木は枯れているのですから。しかし、まだ生きている桃の木であれば、あなたが頼まなくても、自然に芽、葉、花を付け、実を結びます。これが自然に働く、いのちの原理と呼ばれるものです。

2015年12月9日水曜日

12月9日

立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです[使徒9:6]

あなたに何をさせたいか、ここでは言わないが、他の誰かが教えてくれる。上の聖句の中で主が言われたのはこういうことです。主は、他の誰かを使って、パウロに語りかけました。これはキリストの体を啓示するものです。パウロが救われた初めの日、主は彼に律法、すなわち、み体の原理を現されました。パウロはいずれは主に大いに用いられる器となる者でしたが、それにもかかわらず、主は他のものに彼を助けさせたのです。ですから、神だけから直接すべての物を受けるのであって、他の人に頼る必要はないなどと、決して考えないでください。もちろん、これは他人に盲目的に追従することを教えているのではなく、こう勧告しているのです。私たち自身が主の言葉を受けたら、どのような問題も解決でき、人の手を借りる必要はないなどと考えて、高慢な態度をとることがあってはならないと。

2015年12月8日火曜日

12月8日

だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう[マタイ13:30]

麦は乾かさないといけません(水が必要なブドウと違います)。ですから、日射が必要です。刈り入れの時期を決めるのは、中に残っている水分の量です。刈り入れの前に、煙突と屋根を、完全に乾かしておく必要があります。ここで、われわれはみな、麦であり、乾ききらなければなりません。すなわち、この世の楽しみを求めることをやめるのです。『麦は地に向かって乾いてゆき、天に向かっては熟していく』、鋭くもこう言った人がいます。日光は、過酷でありながらも、麦が生長し熟すのを助けるものであり、霊的に言えば、世を愛する私たちが乾き切るために必要な試練を現しています。麦によって聖人、王国の御子を現された神の知恵は実に深いものです。神は、私たちが熟すのを待ってから、ご自身が刈り入れます。信者の携挙の時は、ある意味、その成熟の度合いによって決まるのです。

2015年12月7日月曜日

12月7日

そして彼らに言われた。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある[マタイ21:13]

教会の祈りについて語るとき、私たちは、私的な祈りと同じくらい真摯に考えているし、個人的な祈りと変わらず重視しています。それでもなお、天の御国においては、ある人物にできないことがあれば、お互いが協力し、助け合って成し遂げる決まりであることを覚えてください。とくに祈りの問題においては、相互の協力が必要となります。主のすぐ後を付いていく者はしばしば、他の信者と共に祈る必要性を感じます。時には、彼らは自分の祈りが不適切であると感じます。とくに何か極めて大きな問題、たとえば天の御国のことを祈るような時は、教会全体の力を必要とします。マタイ21:13で主はこう言われています、『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』ここに、ヘブル書3:6の『私たちが神の家なのです』を加えてもよいでしょう。

2015年12月6日日曜日

12月6日

わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい[ヨハネ20:17]

この箇所は私たちには、神と父があることを教えてくれます。では、父としての神、神としての神、この二つの違いは何でしょうか?聖書の示すところによれば、父としての神は、神と個人とのかかわりをあらわし、神としての神は、神と宇宙全体とのかかわりを意味します。

神を父として知ると、その胸のうちに飛び込みたくなりますが、それに対して、主を神として知るとき、私たちは自ずと地面にひれ伏して礼拝せずにいられなくなります。私たちは神の子供であって、神の愛の中に生き、賜物を喜んで受け取れる者です。私たちは神の民であって、神を褒め称え、礼拝するものとして、自分の土地に立っています。主を神として知ることで、『聖なる飾り物を着けて主にひれ伏す(詩篇29:2)』のです!詩篇の作者が、『あなたを恐れつつ、ひれ伏します(5:7)』と歌うように。人が、神を神として知るなら、どうして主を恐れずにいられるでしょう?

2015年12月5日土曜日

12月5日

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます[ローマ16:20]

私たち信者は、主から選ばれたものであり、悪魔の試みと力を滅ぼす目的で呼び入れられたということを忘れてはなりません。何かするにあたり、それがよいか悪いかではなく、むしろ、それが神の利益となり、サタンの不利益となるかどうかを尋ねてください。闇の王国を揺るがし、悪魔に害を与える力がなければ、何も行うことはありません。

すべての働きにおいて、目に見える結果によらず、それが霊的な世界に与える影響、誰が利益を得、誰が損害を受けるか、それに基づいて判断しなくてはいけません。これは霊的な戦争であって、血肉の働きに対して、対価が支払われるものとは違います。また、これは審判の日に裁きの尺度ともなるものです。ある働きが火に投げ入れられるか、生かされるのか、その違いは神の御心を達成するためにどれだけ有効であったかと言う観点から決まります。

2015年12月4日金曜日

12月4日

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです[ヘブル11:1]

これが聖書による信仰の定義です。『確信』とはなんでしょうか?ギリシャ語(hupostasis)では、この言葉は、『下に立つ』、『支える』ことを意味します。上にあるものを支える何かということになります。たとえば、本は本棚に置かれていますから、本棚は本を支えるものです。『保証』とはどういう意味でしょう?この言葉は、『証明』とは何であるかを教えてくれます。すなわち、信仰とは、希望していた何かを支えてくれるものであり、それによって、私たちの心が平安と安らぎを見つけることができるのです。信仰は、また私たちの中でまだ見たことのないものを証明し、これにより、神が言ったことに、心からアーメンと言えるようになります。

神は真実なお方です。神の誠実さは、その約束と契約をも保証してくれます。もし、信じなければ、その言葉にも嘘があるかのように、神の誠実さを侮辱することになります。ですから、私たちが信じられない時はいつでも、自分自身の不信仰を罪として咎め、主に対し、信じることのできない自分の歪んだ心を取り除いてくださるようお願いしなくてはなりません。

2015年12月3日木曜日

12月3日

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます[マタイ7:24]

賢い人とは、神のみ言葉を行う人であり、愚かな人とは、それに従わない者のことです。岩は主の言葉をあらわしており、砂とは人間の考えのことです。岩の上に立てるとは、あらゆることを神のみ言葉に基づいて行うことです。主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである(箴言9:10)。神の前で、ただ素朴な心でいることは賢く、主に逆らう者はおろかです。『おそらく』とか、『私個人の意見では』など言うのは本当に愚かなことです。なんでも神に従うと、人間にはどうしようもなく愚かに見えるかもしれませんが、神にとっては真実の知恵と写ります。

2015年12月2日水曜日

12月2日

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」[マタイ16:15-16]

教会とは何かといえば、キリストが地上に残する声です。神は地上に教会を置き、これによってキリストを宣言し、告白しました。『主には力があり支配されることを私は信じる。主に栄光があることを信じる』、ペテロにとって、心の中でこう言っただけで終わるのは絶対に認められないことだったでしょう。ペテロには、『主よ、心の中であなたを信じています』という言葉は十分ではなかったでしょう。主が尋ねられた質問は、『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか』でした。ここで言う、『あなたがた』とは使途たちのことです。彼らに求められたことはただひとつ、声に出して叫ぶことでした。私たちは心の中で信じるだけで十分、一人で祈るほうがよい、と考えてしまうことがあります。しかし、ハデスの門も決して教会には打ち勝てないことを知れば、ナザレのイエスが誰なのかを宣言することが、どれだけ命と力と権威に満ちているか、理解することができるはずです。

2015年12月1日火曜日

12月1日

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである[ヨハネ3:16]

このかけがえのないみ言葉は三つのことを明らかにしてくれます。偉大な事実、偉大な条件、そして偉大なる結果です。偉大なる事実とは、神が人間の罪を償うための世界の救い主としてイエス様を遣わしたことです。偉大なる条件、すべての人間がしなければいけないことは、ただ信じることです。偉大なる結果とは、事実すばらしいことであり、人間には考えもつかないことです。信じるものは誰一人として滅びることなく、永遠の命を受けるのです。今述べたこのこと以上にすばらしい真実はこの世にありません。偉大なる条件、要求が、私たち一人ひとりの前に置かれ、それを満たすようにと示されました。すなわち、神が成し遂げたこと、その事実を信じることです。これだけが、ただひとつの条件です。偉大な事実が神によって成され、偉大な条件を人間たちが満たしました。そして、滅びることなく永遠の命を持つという、この偉大なる結果のおかげで、人は救いを持つことができるのです。

2015年11月30日月曜日

11月30日

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである[黙示録1:1]

すべての未来の出来事を、黙示録に記録するに当たって、ヨハネの目的は、それがいつ、どのように起こるのかを知らせることではなく、ただ私たちに、イエス・キリストが王国を支配することを認めさせようとしたのです。その御国ではイエス・キリストが王であること、黙示録が私たちに教えているのはそれです。私たちは主を、救い主として知っていますが、それだけで不十分です。主が王であられることも知らなければなりません。主の厳しさだけでなく、その愛も知らなければいけません。はっきり理解しましょう。黙示録の目的は、私たちが、イエス・キリストのことをよりよく知って、主に間近にお会いする日に備えておけるようにすることです。

2015年11月29日日曜日

11月29日

また彼は、純金で燭台を作った[出エジプト記37:17]

神聖な場所にあるものはすべて、金でできていました。あまりに、輝いていたので、司祭が指先で触れただけで、すぐに指紋の跡が現れました。聖なる場所に来て仕えたいという気持ちを持っているのでなければ、何も気にはならないでしょう。しかし、仕えるために聖なる場所に入れば、本当の姿が直ちに現れます。誰も、自分の罪と穢れた姿を見ずにはいられませんでした。自分が何者であるか告白しなければなりませんでした。そこにあったものはすべて、神聖であったからです。

神に仕えるときはいつでも、本当の姿が曝け出されてしまいます。自分の姿を真に知りたければ、神への奉仕を通して知るしかありません。神への奉仕を行う中で、自分の人生についてよく知るほど、自分たちが神に仕えていること、自分たちのしていることが真に神への奉仕であることに、より強い確信が持てるようになります。はっきりこう自覚できる者こそが、真に神に仕えるものです。

2015年11月28日土曜日

11月28日

その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ[ヨシュア記6:16]

第一に、キリストにあるときに与えられる豊かさを見なければいけません。これが、信仰の門から入ることです。ただし、入るにあたっては、新しい場所に立ち、どのような誘惑、プライド、嫉妬などがあなたのいく手を塞ごうと、それに立ち向かわなければなりません。信仰を持って立ち、すべての誘惑を断ち切ると高らかに宣言してください。そうすれば、必ず断ち切ることができます。ハレルヤ!イスラエルの子供たちは、エリコの街を取り囲み、エリコの城壁が崩れ落ちるまで、信仰の言葉を叫び続けました。人間的な見方をすれば、こんな行動はばかげています。しかし彼らが実際に叫んだとき、エリコの街は陥落したのです。

2015年11月27日金曜日

11月27日

もし死ねば、豊かな実を結びます[ヨハネ12:24]

この一粒の麦が結ぶ実はさまざまなものです。イエス様は、『豊かな実』と言われました。いわば、多くの粒ということです。私たちが自分の人生に縛り付けられている間は、持てる力のすべてを出し切れば、一人か二人は獲得できるかも知れません(ですので、ここで誰一人として救うことはできないとは言うつもりはありません)。しかし、もし、私たちが一粒の麦が死ぬように死ねば、『豊かな実』を結ぶことでしょう。どこへ行こうと、そして、時には一つ二つの言葉をかけるだけで、人々は救われ、啓発されます。ですから、豊かに実を結びたいと、期待しようではありませんか。

2015年11月26日木曜日

11月26日

今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです[1サムエル13:12]

サウロは、あまりに熱意が強く、生贄を捧げることを切望するあまり、性急に祈りすぎて、神に拒絶されてしまいました。彼の行動の目的は実に幅広いものでした。それにもかかわらず、神は、しばらくのうちに、み心にかなう者を求めて探し出し、ご自身の民を支配する王子として、この男を任命しました。主が願う者とは、性急に過ぎて待てない者ではありません。私たちに選択が任されているなら、疑うことなくサウロのような者に心を傾けるでしょう。彼は並外れた男です。彼は事実、他の人々より、際立っていました。しかし、神は並外れた人間を求めてはおられません。ただ、ご自身のみ心にかなう者を求めておられます。主に使える目的が、偉大なことを成し遂げて自分や他の者を喜ばせることにはなく、み心に触れて神を喜ばせることとなりますように。このような人を、神は用いられます。神はそのようなものを探しておられます。

2015年11月25日水曜日

11月25日

あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい[マタイ11:29]

『あなたのくびきを負います』、神にこのように言う時、あなたに平安が訪れます。日々の生活の小さな出来事において、また、人生の大きな問題においても、私たちが神のくびきを負いたいと願えるようにと、神は今日、私たちを導いています。職場の仲間と働くことを苦痛と感じている労働者、義理の親と一緒の生活に耐え難い姉妹、同僚と一緒に働くのが嫌でたまらない雇われ人、先生や他の学生のと関係にくじけそうになっている学生。これらは背負わなければならないくびきです。もちろん、あなた方はそれが嫌でならない。それを捨ててしまえたら、または、それがあなたから離れてくれたらどんなに良いかと願っています。しかし、どうか分かってください。これは神があなたに下さったくびきなのです。神があなたに分け与えた取り分なのです。神はあなたにこの環境に従って欲しいのです。それが、あなたにとって最良のことだからです。

2015年11月24日火曜日

11月24日

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように[詩篇19:14]

心こそが主要な問題です。口から外に出る言葉が正しいか否かは、大きな問題ではありません。外に向けた態度の正しさも同じです。本当の問題は心の中の目的にあります。心の中の考えや意図は無視してはならない問題です。このために、ダビデは、口から出る言葉だけでなく、彼の心の思いが神に受け入れられるようにと祈っているのです。彼の祈りは、自分の内なる願望を神が受けて入れてくれるように、と言うものでした。だからこそ、パウロはダビデが神の御心にかなう者であったと証ししたのです(使途13章)。

神御自身の御心にかなうものとはどのような人間でしょうか?それは神が自分の心に触れることを許す人です。神に心に触れることを許さなければ、その人は、神の御心にかなうものとなることは決してありません。

2015年11月23日月曜日

11月23日

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました[2テモテ4:7]

私たちが、最後まで競争を走りぬく走者でありますように。走っている途中、人間の手から来る敵対、誤解や拒絶を受けて、傷を受けるかもしれませんが、それでも、私たちは心を奮い立たせて、主イエス様のために走り続けなければなりません。競争が終わって、人から最大の賛辞を受けるのは誰でしょう?怪我をしても、一等賞を取るまで走り続けた人ではないでしょうか?ですから、私たちが怪我をしても、苦しみを受けても、負けたように見えたとしても、それは問題にしてはいけません。それでも、立ち上がって走ることが私たちにとって最善なのです。道にいる間は何をしても、価値を認められないことを覚えておきましょう。コースの終点でのみ、判定がくだされるのです。ですから、どんな理由であっても、競争を放棄しないようにしましょう。力を失って投げ出してしまったり、やる気を失なってはいけません。反対に、私たちはイエス様のほうに向かい、最後の地点まで走り抜けなければなりません。

2015年11月22日日曜日

11月22日

これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし…[ヘブル2:14]

主イエス様は、ご自身もヨルダン川で洗礼を受けられました。主が洗礼を受ける水の中に下りて行ったのは、死を象徴するものです。主が水の中から出てこられたのは復活を現しています。主は復活の力を通じて死に打ち勝つのです。私たちが知るサタンの最大の力は死そのものです(第1コリント15:26を見てください)。私に向かってできることは何でもしてみるがよい、主は敵にこう挑んでいるかのようです。実際に、サタンはあらゆる力を使ってきます。しかし、神には復活の力があります。サタンは主を完全に死なせようと必死になっていますが、主は死にもってしても、触れることも捉えることもできない命を持っています。主は、言うなれば、乾いた土地の上を進んでいかれます!主の復活を離れては、死に打ち勝つ力はどこにもありません。新たな創生のときに私たちが受け取る命は、この復活の命そのものです。そして、復活の命の力は、すべての死を追い払ってしまいます。

2015年11月21日土曜日

11月21日

この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません[ルカ7:47]

私たちはどうすれば主を愛せるでしょう?私たちの罪がどのように許されたのかを思い出せば、主を愛さずにはいられないでしょう。十字架が私たちの心を動かさなかった日があったとしたら、その日こそ私たちは地に堕ちたのです。エバン・ロバーツは、自分の心が十字架に動かされなかったことに気付いたとき、大いに泣きました。それが数ヶ月に渡って続いた後、神は彼を再び動かしました。その後でウェールズにおいて大きなリバイバルが続きました。これは、世界で誰も見たこともなかったような、もっともすばらしい精神の再生でした。

この女は、主の足を自分の涙で洗い、髪で拭い、唇で接吻しましたが、なぜ、このようなことをしたのでしょう?それは彼女が、すべての自分の罪が、どうして許されたかを思い出したからです。私たちも、常に十字架の元に立ち続けましょう。そして、いつの日か、私たちの心が今より何百倍も強くなったとしても、常に主によって私たちの罪が許された事実を覚えるようにしましょう。

2015年11月20日金曜日

11月20日

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です[ヨハネ15:5]

ある兄弟は勝利を求めて、大変な努力をしました。彼は、ずっと求め続けたのに、神は勝利を与えてくれなかったことを認めました。ある日、彼はヨハネ15章5節のキリストの言葉を読みました、『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です』。彼はすぐに光を見ました。彼はひざまずき、こう祈りました、『私は世界中でもっとも愚かな者です。私が捜し求めていた勝利の生活は、もう持っていました。あなたがたは枝です、とイエス様は言われました。あなた方は枝になるとはいいませんでした』。何年にも渡って彼は自分が枝のように樹の一部に加えられるよう頼み続けてきましたが、自分はもう樹につながった枝であったことを知りませんでした。このときまで、彼は神の黙示を受けておらず、本物の信仰もありませんでした。後にこの人はこう言いました、『私は打ち負かされ、勝利を探したが、勝利を得ることはなかった。しかし、信じたその日に、勝利は来た。』

2015年11月19日木曜日

11月19日

しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた[マタイ2:22]

神の導きに関して言えば、このマタイの第2章は、以下の各要素のことを語っています。すなわち、聖書の知識、天からの黙示、人間の常識、そして、信仰、待つこと、および従順です。

私たちは神の導きのただ中にあっても、常識をもって考える必要があります。神はヨセフに対し、ただイスラエルの地に戻ると言う命令のみを課し、その中のどこに住むべきかは言いませんでした。ヨセフがエルサレムを通っていたなら、大変なことになっていたでしょう。彼は常識に沿って考えたので思いとどまり、このおかげで神は彼を導くことができたのです。

2015年11月18日水曜日

11月18日

しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい[マタイ17:27]

『つまずきを与える』。原則に基づいて言えば、ある人物に触れるあらゆるもの、神聖さ、神の働きは決して妥協を許しません。この面で大目に見ると言ったことはありえないのです。もっと小さな事では、他者と波風を立てないように、主に倣うべきです。ここに、主の大いなる知恵が示されます。主は優しくとも、弱くはなく、へりくだっていても、ためらうことはありません。多くの事柄で、主は人々を先へと推し進めてくれます。

『わたしとあなた』。この順番が大切です。なぜ、『わたしたち』と言わないのでしょう?主は私たちと同じ高さに立つことはないからです。主は初穂であり、神の一人子です。私たちは子供たちの一人です。自分の栄光を隠し、主は讃えてくれます。やさしさを持って、主はペテロを讃えます。主は、間違いなく私たちの必要なものすべてを与えてくれます。

2015年11月17日火曜日

11月17日

ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか[ルカ23:40]

初めは主イエス様を激しく罵っていたこの強盗が、急に変わり、キリストを信じるようになったのはなぜなのか、確かなことはわかりません。しかし、それはルカ伝23:34に記録されたキリストの尊い祈りのためだったのではないでしょうか、『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』この言葉が罪人の心に触れたに違いありません。これほどの慈悲、これほどの愛、これほどの寛大、これほどに満ち満ちた優しさが、男のかたくなな魂を動かし、偏見を砕き、そして、捻じ曲がった心を和ませたのではないでしょうか。この祈りによって、彼は、十字架にかけられている方が真にかけがえのないただ一人のキリスト、神の子であることを知ったのです。ローマ人の十字架のために彼はキリストを激しく罵りましたが、キリストの十字架のおかげで悔い改め、救い主を信じることになりました。律法と刑罰は魂を救えません。恵みと愛が人に涙を流させ、かたくなだった罪人を悔い改めへと向かわせ、慈悲を求めて神へと近づけるのです。

2015年11月16日月曜日

11月16日

ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません[マタイ17:21]

ここで主は信仰を持った後で行う祈りを示されています。信仰を一度、持ってしまえばもう祈る必要はなく、賛美するだけでよいから、と言う人がいます。あまりに多くの祈りを捧げることで、信仰が揺るがされるからというのです。これは、神に何かをお願いすることに関して言えば、確かにそのとおりです。しかし、悪霊に対しては、そうではありません。信仰を持った後も、絶え間ない祈りが必要とされます。悪霊を追い出すための信仰を受けたものとして、さらに踏み込んで、それをどう使うかを尋ね求めるべきです。ルカ18章に出てくるやもめの女は、祈りに励みつつも、相手に対する裁きを要求しています。この相手とは、もちろんサタンです。私たちが人生を通じ、祈りを武器として攻撃しなければならない敵です。信仰を受けた者には、祈りと断食が必要とされます。この二つは心構えであると同時に、行動の規範でもあり、神への依存と自己否定がそこに現れます。

2015年11月15日日曜日

11月15日

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。[ピリピ4:6]

なんの思い煩いもないキリスト者というのは、私は滅多に会いません。ほとんどすべての方はたくさんの心配事で押し潰されそうになっています。7人の息子を持つ母親がいました。この母親はこう述べました、『私はこの息子たち全部が無事に成長して、救われるまで、皆のことが心配で心配で、死にそうなほどです。』ある兄弟がこの人に心配することは間違っている、実のところ心配は罪であると話したところ、この女性はこう言い返しました、『母親ならば、自分の子供のことを心配するのは当たり前です。心配しなければその方が罪です。』この兄弟は、彼女にピリピ書4章6~7節を見せました。それでも、彼女はここに書いてある思い煩いとは、自分が持っているような心配事とは違う類のものだろうと考えました。この人の考えでは、妻が夫のことを心配し、親が子供のことを心配し、商人が商売のことで思い煩うのは当然のことだったからです。しかし、私たちは聖書がきっぱりと、『何も思い煩わないで』と言っていることをはっきりと覚えましょう。他に何もいりません!

2015年11月14日土曜日

11月14日

わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける[ヘブル8:10]

ここに、新しい契約と古い契約の違いがあります。古い契約においては、律法は、石版に刻み付けられ、人間の体の外に置かれたものでした。新しい契約では、私たちの精神の中におかれ、心に刻まれています。体の外にあり、石版に刻まれているものは、文字に過ぎません(第2コリント3:6)。それでは、私たちの中にあり、心に刻まれた律法とは、なんでしょうか?この律法の性質はどのようなものでしょうか?神の言葉が、それを教えてくれます。私たちの精神の中に入り、心に刻み付けることのできる律法は、文字ではなく、いのちです。個々の律法はいのちではないかもしれませんが、いのちはどれも、それぞれの律法を持っています。神が私たちの間に置いた律法は、神がくれたいのちであり、『キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理(ローマ8:2)』でさえあるのです。

2015年11月13日金曜日

11月13日

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。[ヨハネ17:21]

簡単に言えば、一体とは神ご自身のことです。私たち全員が神の外にあるものをうち捨て、神の中に住み始めたら、私たちの中におられる神は一体となります。一体とは、神が私たちの中に絶対的な位置を占めているときのことを言います。一体とは、神のみがすべての中にあること、神がすべてを満たしている状態を言います。神の子供たちが、神で満たされている時、彼らの間には調和が保たれます。ひとつの体としての私たちを引き裂こうと、サタンが試みる時、意見を分裂させたり、対立させたりする必要はなく、ただ、私たちの中に不純物とか、神の立場を置き換えてしまう何かを混ぜるだけですむのです。例えて言うなら、人がコンクリートをこねているところを、見たことがあるでしょうか?砂に粘土が混じってしまうと、セメントは硬く凝固してくれません。サタンが私たちの体としての一体性を突き崩すためには、小さな泥の塊りを広げるだけでよいのです。私たちの中の神のいのちと相容れない何かです。これだけで、ひとつの体であった私たちは分裂してしまいます。

私たちに必要なものはただひとつ、心の内で神と向かい合い、十字架と精霊の力で私たちをきよめ、純粋なものとしていただくことです。

2015年11月12日木曜日

11月12日

すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく…』と書いてある。」[マタイ4:3-4]

"しかし、イエスは答えて"—主の答えはサタンの問いかけと完全に反対のものでした。サタンは言葉巧みに誘惑しますが、主も相対する考えを持って反論します。『…と書いてある』、これが主が使われる武器のひとつです。誘惑があったとき、それに抗うことによって、自分の身を守るだけでなく、悪魔を去らせることもできます。それでも、完全に孤立無援の状態になってしまうこともあります。そんなときは、神の言葉を言明することで、確実に相手を去らせることができるのです。神の言葉は精霊が使う剣です。その剣を振りかざせば闘いに勝つことができます。ただし、信仰をもって振りかざすことが絶対に必要です。神の言葉は、最高裁判所の判決のようなものです。

2015年11月11日水曜日

11月11日

夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれた。[マルコ6:48]

私たちが、今のままでいるか、それとも変わるか、主は見ておられます。主は私たちが前に進むか、後ろに戻るかを、見極めようと待っておられます。主の目は私とあなたに向いています。主は私たちが進む一歩一歩に目を留められます。主は、私たちに降りかかる誘惑がどれほど大きく、私たちの状況がどれだけ困難なものかを良くご存知です。それでも、主は夜中の3時を過ぎた後も、苦しみを長引かせようとはなさいません。暗闇が最も濃い時間になると、主が来られます。主は、私たちのために死ななかったから、私たちの苦難を知って、祈るために、天に昇らなかったからでしょうか?空が一番、暗くなった時に、主は戻ってこられます。

2015年11月10日火曜日

11月10日

彼らは、その知性において暗くなり、…神のいのちから遠く離れています。[エペソ4:18]

初めに、神はご自身の命、そして、敬虔さに関わる全てのものを、私たちに与えるようと計画されました。私たちは、罪と、罪から来る死のゆえに、神から遠く引き離され、神に属するあらゆる物を受けることはできなくなりました。神が与えてくれたもの、またこれから与えようと考えていたものすら、失われてしまいました。しかし今では、主イエス様が流された血によって、私たちの罪はきよめられ、神との関係は修復されました(エペソ2:13)。こうして、神がくださった物、これからくださる物は何であれ、遮られることなく私たちに与えられることになりました。主イエス様の血は私たちを神と和解させてくださり、また、神ご自身を与えてくれたのです。

2015年11月9日月曜日

11月9日

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。[ローマ6:6]

罪の力から引き離されたい、罪の奴隷であることをやめたいと望むなら、自分のからだに打ち勝たなければなりません。ローマ書6:6の中で、この使徒は主が、からだの強固な支配から、私たちを引き離してくださったことを明らかにしています。主イエス様は私たちの内なる古い人を自分とともに十字架につけることによって、私たちの罪のからだを滅ぼしました。『滅びた』(または、『破壊した』)にあたるギリシャ語の原語は、『休止させる、機能しなくなる、動作しなくなる、動きを止めさせる』などを意味する言葉です。主が十字架で成し遂げたみ業によって、主イエス様は、私たちの罪の体の働きを止め、罪の奴隷という立場から開放してくれました。それでも、体は存在しており、完全に滅ぼし去られわけではありません。ただ、生理的な構造に起因する欲望が、主の力で、その働きを弱められていることが分かります。私たちは皆、十字架を通して勝利するのです。

2015年11月8日日曜日

11月8日

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です[マタイ10:31]

どれほど小さなことであっても神は自分の子らに対して無関心ではありません。ある夫婦が海を渡っているときに嵐に遭いました。妻は恐れおののきましたが、夫の方は荒れ狂う海をまったく落ち着いた様子で眺めていました。夫の様子にいらだった妻は、彼を叱り付けました。すると、夫はナイフを取り出し妻を殺すようなふりをしました。しかし、妻はまったく恐れている様子を見せませんでした。夫が、なぜ怖くないのかと尋ねました。妻の答えは、ナイフが夫の手にあったからというものでした。それで、今度は夫のほうが、なぜ嵐を恐れないか説明できたのです。それは、父なる神の御手の中にあったからです。

2015年11月7日土曜日

11月7日

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。[1ヨハネ5:14]

信者が何かを欲しいと思った時はいつも、先ずはこう自問してみましょう、これが欠けていると神に影響するだろうか?私が欲していることを、神は望んでいるだろうか?私の欲求をかなえることは神の御心だろうか?あなたの欲求をかなえることが神の御心であると信じたら初めて、必要なものを備えて御心をかなえてください、と求めてもよいのです。神の御心を知るようになったからには、あなたが知り得たその御心に合わせて祈らなければなりません。御心がなるようにと祈ってください。もはや、問題はあなたの願いがかなえられたかではなく、御心が成ったかどうかになります。今日のあなたのお祈りは過去の祈りとそう大きく違わないかもしれません。それでも、今ではあなたが求めるものは、特定の問題において、御心が成されるようにという点に移っており、自分自身の欲求が満たされることではなくなっています。

2015年11月6日金曜日

11月6日

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです[ピリピ2:13]

ある姉妹がいました。この女性は、良心を徹底的に糾弾されていて、自分には神の御心も必要ないし、もう神に従うことも決してしないと決めていました。この女性は、ただ死刑判決を待っているような、深い苦悩の中にありました。そんな時、彼女は自分の中で祈りをしました。彼女は神にささやきました、『ああ、神様、私にはあなたの御心を求めることはできませんが、どうか、あなたに従いたいと思えるようにしてください。』不思議なことにこの日、ピリピ書2章13節の言葉が、彼女を支えました。神が心に働きかけてくれなければ、自分にはこんな祈りをできなかったと、理解し始めたのです。神ご自身がこの女性の内側にこのお祈りをするように働きかけたのですから、間違いなく神のおかげで、この女性は主の喜びを求め、そのために働くようになったのです。神はご自身の御心にこの女性が従えるようにしました。これが神の働きの目的だからです。この女性はそれを見て、立ち上がり、喜びに満ち溢れたのです。

2015年11月5日木曜日

11月5日

ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです[士師記6:15]

神の前にへりくだるのは比較的易しいことです。しかし、人の前にへりくだり、自分よりも優れている者として敬意を持つことは、非常に難しいものです。『自分は小さいものです』と言うのは、どちらかと言うと簡単ですが、父の家で自分が一番若いと告白するのは簡単ではありません。自分の父の家がもっとも貧しいと告げることは、それほど困難なことではありませんが、自分の父の家がマナセで最も貧しいことを認めるのは、きわめて屈辱的なことです。顔から、自分でも知らないのに輝きを放っている者、外から自信に満ちた輝きを認められれるものこそ勝利者です。自分の顔が輝いているかを確かめようとして、鏡を見るようなものは、誰一人として勝利者ではありません。ダビデは油注がれたものでありながら、自分自身を死んだ犬とみなしました(1サムエル24:14)。勝利者とは、真に勝利を得たもののことであって、勝利者と名乗っている者のことではないのです。

2015年11月4日水曜日

11月4日

ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。[マタイ25:20-21]

儲かった5タラントは成功を表すものではありません。むしろ、このしもべが良く忠実なものであることを表現しています。外見から言えばステファノ(使途6~7)は力が全く足りないように見えていたかもしれませんが、霊的な現実においては彼は、良く忠実な働きをしました。従って、もし一杯の冷たい水がキリストのために捧げられれば(これこそが忠実さです)、それは報われます。忠実であることは、それを主のために行うことを意味します。私たちは本当は誰のために働いているのでしょうか?よく、私たちは成功を求めますが、主のための成功でなければ、それは木、草、切り株に過ぎないことが分かっていません。主は忠実さを求めておられます。

2015年11月3日火曜日

11月3日

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。[マタイ16:18]

誰もが、こんなふうに何度でも証しすることができるしょう。大きな困難に遭遇した時、信仰も祈りも助けにならなかったが、、立ち上がってこう宣言したある時、すべてを乗り越えて勝利にいたる道筋が示された、『イエスよ、あなたは主です。あなたは王です。あなたはすべての悪魔を足元にひれ伏させました。そしてあなたは、敵のすべての業を打ち破りました!』こう宣言した瞬間に不思議な力が与えられました。このような状況では、最良の祈りとは何かをお願いする祈りではありません。最良の祈りとは、はっきりとこう宣言することです。『あなたがそうです!』、『あなたこそがそのお方です!』、これが教会における信仰の宣言になります。教会は神の黙示のみに基づいて作られたのではなく、人間が受けた啓示を宣言することによって成り立っています。黙示の結果としての宣言は霊的な価値に満ちています。そこにはハデスを揺さぶるほどの霊的な力があるのです。

2015年11月2日月曜日

11月2日

また彼らが…、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。[ヘブル8:11]

砂糖と塩は見た目はよく似ています。どちらも白く、細かい粒でできています。口に入れてみるまで、どちらが砂糖で、どちらが塩かは分かりません。砂糖か塩か、外から見た目だけで判断するのは、舌で味わって内側で判断するより、はるかに困難です。神に対する知識もこれと同じです。外から入ってくる知識は、在り来たりのものであり、内にある知識は確かなものです。神が私たちの中でご自身を味あわせてくださるときはいつも、言葉にできないほどの喜びがあります。『主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は(詩篇34:8)』。私たちが神様を味わうとは不思議な言い方ですが、これは真実です。『一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで…(ヘブル6:4-5)』。この御言葉は、霊的なものであっても、実際に味わうことができることを示しています。新しい契約の特徴として、霊的なもの、神ご自身までをも私たちが味わい知ることが許されています。ですから、神に感謝しようではありませんか。なんという祝福でしょう。なんと光栄なことでしょう。ハレルヤ!

2015年11月1日日曜日

11月1日

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。[ヨハネ4:14]

外から入ってくるものは何であれ、人を真に満足させることはできません。しかし、キリストを受ければ、それは、その人の内で泉となり、日々、満足を得ることができます。人間に欠けているものは内なる満足です。

ある人が医師の元を訪れました。その人は医師に、なぜ人生は無味乾燥で、希望がないのかと尋ねました。診察してもらった後でその人は、医学的にどこも悪いところがないことを告げられました。男は、ひどく落ち込んだ気分を癒してくれるものは何かないかと尋ねました。医師の答えは、『人生を楽しみなさい。おもしろい道化芝居でも見に行ったらどうです?人を大笑いさせて、すごく明るくしてくれますよ』。すると、その男が言うには、『実は私がその道化師なんです』。そして彼は続けて、『他の人を笑わせることはできても、自分は笑えません』。なんと悲しいことでしょう。しかし、この世が与えてくれるのはこの程度のものです。人を少しだけ笑わせて、その時だけ喜ばせてくれますが、それで終わりなのです。

2015年10月31日土曜日

10月31日

もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません[エペソ4:17]

これから人に説こうとする真実を既に知っていたとしても、自分の頭の中からをそれを引き出して、人に伝えるのはやめましょう。その代わり、へりくだって神の前にひれ伏し、私たちが既に知っている真実をあらためて生き返らせてくれるように頼むのです。こうすることによって、真実は私たちの中に新たに焼き付けられ、過去に経験したことの思い出にとどまらず、人生の中でこれから経験するであろうことについて話すことができます。こうして、聖霊は、その聖なる力を持って、私たちが伝道する言葉を保証してくれます。私たちにとって最善なのは、語り始める前には、主の言葉(時には既に知っていることであっても)が、自分の霊の中に新たに刻み付けられるまで、主の御前にしばらく待つことです。

2015年10月30日金曜日

10月30日

キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです[ローマ15:3]

私たちの主は、御国の喜びのために、(はずかしめを)『ものともせず』、また、(十字架を)『忍び』ました(ヘブル12:2)。私たちはどうでしょう?私たちはやがて来る御国の栄光のために、全てを捨て去ったでしょうか?私たちは、神の褒美を受けるために、やりたくないことを行い、やりたいことを行わなかったことがあるでしょうか?この喜びが私たちの主を引き付けることができるのに、なぜそれに惹きつけられないのですか?数え切れないほどの信者が、大昔も今も、御国の栄光のために、全てを投げ打って、主に従ったのです。あなたや私はどうでしょうか?

2015年10月29日木曜日

10月29日

モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」[出エジプト記3:13]

このとき、既にモーセは神によって変えられていました。彼は何かをみなすことも、想像することもしませんでした。彼は自分から表に立つことを、あえてしませんでした。この故にこそ、彼は主にこのように尋ねたのです。彼は事実を学んだのです。それは後に主ご自身が語られるのと、ほとんど同じ事実です。『わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです』(ヨハネ12:49,50)。私たちの言葉に、神による抑制が欠けていることがよくあります。モーセは、言葉でさえも、主の命令がなければ、口に出すことはできないことを、理解するようになりました。

2015年10月28日水曜日

10月28日

この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる[イザヤ7:15]

私たちの主には凝乳と蜂蜜がありました。このため、主は善を選んで、悪を退けることができました。従うには大きな力が必要なのです。まず、神があなたの心を満たすことがなければ、心の外でどれだけがんばっても、うまく行きません。私たちは日々、神に近づくことを学び、天国から凝乳と蜂蜜(神の恵みと愛)の両方を受けなければなりません。これにより、毎日の地上の生活において、善を選び、悪を退けることになります。

本日、このようなことを言うのは、主の戻られる日が迫り、王国がすぐそこまで来ていると、私の中で深く感じているからです。これからは、誘惑が大きくなり、危険は何倍にも増し、策略は深まるでしょう。ああ、この点を心に刻んでください。私たちの前に何が来ようとも、ただ心をひとつにしてに選ぶことができるはずです。私たちは天の凝乳と蜂蜜を既に受けているのですから。

2015年10月27日火曜日

10月27日

そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ[士師記7:6]

小さなことから、私たちの本当の状態が現れてしまうことがよくあります。当時、ユダヤ人もアラブ人も荷物を背中にかついで旅しました。このとき、路の上で水を飲む方法には、二つありました。担いでいた荷物を降ろし、膝をついて水を飲むやり方と、丸めた手のひらに水を汲んで飲むやり方であり、後者は、旅の時間を節約し、かつ、盗賊の襲撃から身を守るためでもありました。旅に加わった10000人の男のうち、9700人が膝をついて飲み、300人だけが口に手を当てて水を飲みました。膝をついて飲んだものは全て、神によって排除されました。手から水を飲んだ者のみが選ばれたのです。この世の楽しみにおぼれて暮らすこともできながら、そうしなかった者は、十字架の意味するところをもう理解しているのです。そのような人は、神に用いられます。十字架が自分のいのちの中で働くことができるように、何時いかなる時も用意できている人が神に用いられます。

2015年10月26日月曜日

10月26日

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです[エペソ6:12]

多くの人は霊と肉の戦いについてはよく知っていますが、エペソ書6章に記されているような、私たち信者と悪霊の間に生じる衝突に気がついていません。現実の霊の戦いは、私たちと、悪霊を引き連れたサタンとの間で行われます。この戦いには全ての成長した信者が参加します。この地上において、神の子供は毎日のように悪霊の攻撃にさらされているからです。こういった攻撃は、信者の生きる環境のうちで起こることもあり、信者の肉体のうちで行われることもあり、その思考のうちで、感情のうちで、また、その霊のうちで起こることもあります。

信者が悪霊に攻撃されているのに、それに気づいていないことが実よくあります。なぜ、全てが自分に害をくわえるように思えるのか理解できず、ひどく混乱し、取り乱してしまいます。それが、自然に起こっているのだと考えてしまって、毎日のように悪霊からこの世のものならぬ圧迫を受けていることに気が付かないのです。

2015年10月25日日曜日

10月25日

そして(もうひとりの犯罪人は)言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」[ルカ23:42,43]

強盗は救われることができるでしょうか?この世の人は、こう決め付けるでしょう。人を殺したり、物を奪ったりした者は滅ぼされるべきであって、そんな危険な囚人は地獄の一番底まで落とされなければならないと。この男は最も重い刑罰を受けてしかるべきでした。この世的な目で見た救いとは、地上での善き人のみが受ける分だからです。誰に想像できるでしょう?強盗として生きてきた者、繰り返し法を破ってきた者が、死ぬ瞬間に救われ得るなどと。しかし、なにひとつよいことをせず、むしろ生涯を通して悪いことしかしてこなかった者が、主イエス様を信じれば直ちに救われたこと。これは歴史的な事実なのです。主イエス様を信じれば、誰でも瞬きする間に救われるのです。驚くべき物語ではありませんか。これは奇跡的な救いです。

2015年10月24日土曜日

10月24日

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた[ルカ2:51]

ある姉妹と語ったことがあるのですが、もしご主人が許してさえくれたら、彼女は3人の子供を残して、チベットに福音を伝えに行きたいと思ったそうです。この女性は、自分を縛り付けているものをすべて断ち切って、飛んでゆけたらと願っていました。しかし、これは主の態度ではありません。主は神であられながら、この世の両親には従順であったし、また肉の兄弟姉妹のことも気にかけていました。私たちも従順であることを学ばなければなりません。自分の誤った志しを追い求めることは許されないのです。もし神が、家族や子供を通して私たちの行動を留めるなら、喜んでそれに従うべきです。商人が商売せずに生きることを考えることは間違っているし、学生が勉強しないことを望んだり、教師が教えないでいるにはどうするかを考えたりすることなども、同じ誤りです。私たちが、安らぎを得るのは、主がそうされたように、あらゆる種類の制限を逆らうことなく受け入れたときです。

2015年10月23日金曜日

10月23日

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい[1ペテロ1:13]

ほとんどの方がご存知と思いますが、古い時代、ユダヤ人が着る衣は体の回りに緩く垂れ下がり、ボタンもありませんでした。働く時は、動きやすくするために、腰の周りを帯でまとめなければいけませんでした。私たちの乱れた思いは、まとめられていない腰周りの布のようなものです。それでも、神は、人が腰の布を締めるように、乱れた思いをまとめてくれます。私たちの想いは、汚れてこそいなくても、なぜこういつも、散漫に乱れ、集中できないのでしょう。祈りの中で、また神のみ言葉を調べる中で、私たちの心は乱れてゆきます。私たちの考えることは悪い物ではないにしろ、善良で品の良い考えが然るべき時に浮かんでこないのです。これは、心の中の腰回りにあたる部分が、あまりに緩く、きちんとまとまっていないからではないでしょうか。それでも神には、人の心を引き締め、考えを一点にまとめる力があります。

2015年10月22日木曜日

10月22日

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです[ヨハネ14:18]

主は私たちを孤児として捨ておくことはしません。主はご自身で私たちの世話をしてくださり、養ってくださり、啓発してくださり、また、完全に責任を負ってくださいます。言葉を換えれば、内在の精霊が、キリストが十字架の上で成し遂げた客観的な事実を私たちの主体的な体験へと、転換してくれます。真実の御霊が私たちを現実へと導いてくれます。

原典が書かれたギリシャ語の『慰め手』には二つの考えが込められています。ひとつの意味は、『誰かの側に呼ばれる者』、つまり、誰かを助けるために呼ばれる者です。すなわち、精霊はいつでも、そばにいる助け手です。助けが必要なときはそのために私たちのそばにおられます。もうひとつの意味は、『他者の目的を擁護するもの』、すなわち、支持者です。キリストは、言うなれば、神の前に立って、私たちのために語ってくれます。私たちを守るために弁護してくださるのです。

2015年10月21日水曜日

10月21日

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている[ローマ12:6]

キリストのみ体において、私たちに割り当てられる奉仕は、主に関する知識に基づいて決められます。ただし、それは一般的な知識でありません。キリストの概要だけを知っていても十分ではないからです。主の特定の側面を知ることで、キリストの体において、定められた奉仕を行うことになるのです。他の誰も知らないことを学んだとき、あなたは主から特別な教えを受けたのであり、その特別な知識を持って主に仕えることができるのです。人間の体を見ると、たとえば、目は見ることができ、耳は聞くことができ、鼻は匂いをかぐことができます。それぞれに定まった機能があり、与えられた分があるのです。キリストのみ体の各部分にも同じことが言えます。全ての部分が、見て、聞いて、嗅ぐことができるわけではありません。しかし、各部分は、それぞれに特殊な能力を持っています。それこそが各部分に与えられた責務なのです。

10月20日

園の中央には、いのちの木[創世記2:9]

造られた物が、被造物としてのいのちを生きている限りは、神に頼る必要はあまり大きくありません。しかし、被造物が創造主のいのちを生きるためには、完全により頼まなければなりません。これからの人生はもはや自分のものではなく、神のものだからです。その人は神から離れて生きることはもうできず、神のとの交わりを守り続け、完全に神により頼まなければならないことになります。アダムの中にはこのようないのちがなかったので、彼は神を信頼してそれを受けなければいけません。

また、そのようないのちを、アダムが受けたとしても、それは自分の努力で守り抜けるようなものではなく、それを保つためには神に依存し続けなければなりません。ですから、それを守るための条件は、それを受ける条件と同じなのです。神のいのちを現実に生き抜くためには、アダムも日々、神に頼らざるをえないのです。

2015年10月19日月曜日

10月19日

なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです[ローマ5:17]

実は、私たちは今すぐにでも『いのちにあって支配する』ことはできるのです。ただし、それを完全に理解できるのは、ずっと後のことです。今日、主から賜った権威を行使すれば、すべてのことを、支配することはできます。私たちは今日こそ、あらゆる悪の霊の働きを抑えて、彼らを支配する王となるべきです。いずれ、サタンが千年王国の間に力を増したとしても、私たちは間違いなく、『後にやがて来る世の力(ヘブル6:5)』によって、サタンの動きを封じ込めることができます。今日、祈りの武器を使って、自分たちが置かれた状況を制御することもできます。国、家族、教会、または個人的な事柄であろうと、祈りによって支配できるのです。

2015年10月18日日曜日

10月18日

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました[ローマ3:24,25]

キリストがこの世界に来られるまで、人間はふたつの大きなものを失っていました。ひとつはアダムが罪を犯しために失われたものであり、もうひとつは、私たちが神のおきてを守る力がないために失われました。死と罪に支配されている限り、私たちは神から離れ、その臨在を喜ぶことはできません。私たちは愚かになり、神を知ることはありません。私たちに霊的ないのちはなく、神の御心を行う力もありません。ああ、アダムにおいて、また法の下で、私たちに誇れるものは何一つなく、泣き叫ぶことしかできません。『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの罪と死から、私を救い出してくれるのでしょうか。』罪と死の問題を解決する手立てはどこにもないのでしょうか?実は、それがあるのです。ご自身の血を流すことによって、主イエス様がふたつの問題を解決してくださいました。主の流された血潮のおかげで、私たちは死ぬ必要もなく、罪は清められているのです。

2015年10月17日土曜日

10月17日

ソロモンはエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた[第一列王記3:15]

主が目の前に現れるまで、ソロモンは箱がどれだけ重要なものか理解することも、感じとることもできませんでした。しかし、主が現れると、彼は主の臨在が他のすべてに勝って大切なものであることを知るようになりました。この後、彼は急いでエルサレムに戻り、主の箱の前にいけにえをささげました。ギベオンでは、ソロモンは全焼のいけにえを奉げただけでしたが、全焼のいけにえの他に、和解のいけにえもささげ、すべての僕のために宴を催しました。神の前にささげる礼拝こそ、真の礼拝です。神と交わることこそ、真の交わりです。そして神の臨在を喜ぶことが、真の喜びなのです。これがソロモンの経験したことでした。そして、ソロモンは聖なる宮を打ち建てると、その中に箱を置きました。そして、箱が聖なる宮の中心となったのです。

2015年10月16日金曜日

10月16日

女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です[マタイ11:11]

ヨハネはあらゆる預言者よりも偉大であると名指しされていますが、それは信仰、行い、名声、はたらき、および聖霊の面で、他のどの預言者よりも上を行っていると言う意味ではありません。より優れているのはただひとつの点においてのみです。すべての預言者は、ヨハネまでのことを預言したのです。ヨハネ自身は預言をしませんでした。彼はただキリストを人に示しました。『見よ、神の子羊。』ヨハネが他のものより優れていたのはここだけです。彼の生きた時間と与えられた機会が、他の預言者と違っていたのです。『天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。』とありますが、これはヨハネの信仰、行い、霊的生活やはたらきが小さいので、天の御国に入ることができないと言っているのではありません。これはただ、天の御国にいる者であれば、キリストのはたらきが既に成された事実を証明できることを示しています。

2015年10月15日木曜日

10月15日

私にとっては、生きることはキリストです[ピリピ1:21]

神が、あなたをキリスト者にするとき、人が猿に服の着方、食べ方、動き方を教えるようなことはしません。猿に人と同じ生き方をするように教えれば、大きなお重荷となり、人間になることを学ぶより、そのままの姿で生きることを選ぶでしょう。

イエス・キリストは私たちのいのちであり、私たちの中ですべてを行われます。神は、キリスト者にこれをしろ、とか、あれをしろと要求はなさいません。パウロは、『私にとっては、生きることはキリスト』と述べ、また、自分の中にキリストが生きていることの故に、むち打たれることも、どのような迫害、危険、エルサレムでの投獄、そしてローマへの移送にすら耐えることもできます。それは、彼がキリストのようであるからではないし、キリストのように振舞ったからでもなく、中に住んでいたキリストのゆえにこそ、こういったものに耐える力を見るのです。猿が人間に変わることが決してできないように、キリスト者がキリストの真似をすることもできないのです。

2015年10月14日水曜日

10月14日

わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える[エゼキエル36:26]

石の心とは心のかたくなさをさしており、一方、肉の心は、心の柔らかさ、優しさを表しています。人が救われた日、石の心が柔らかくなります。しかし、完全に柔らかくなったとは言えません。

人生が前に進むことは、心の変化だけにかかっています。すなわち、かたくなか、それとも柔らかな心を持っているかということです。私たちの心が、神の外にある何かに握られていたら、すなわち、何かの出来事、人や物に支配されていたら、いのちを作り変えることの妨げとなるでしょう。このため、神は心が、完全に柔らかな肉のようになるまで、変え続けます。こうなって初めて、御霊は私たちの内なるいのちが、力を得て大きくなるよう助けてくれます。神に従いたいと、ただ望むだけで、神のいのちがあなたの心の中にある良心、知性、意思や感情の中に入り込んでくるのです。それは動き続けます。

2015年10月13日火曜日

10月13日

イエスは答えて言われた。もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう[ヨハネ4:10]

サマリアに来られてヤコブの井戸の横に腰を下ろしたその日、主イエス様は空腹で、喉も渇いていました。しかし、サマリアの女は主よりも、もっと乾いていました。そこで主は、この女に生ける水を与え、渇きを癒したのです。弟子たちが食べ物を持って戻ってきた時、主はもう空腹ではありませんでした(ヨハネ4章5~34節を参照)。主の生涯の中のこの物語から、霊的な教訓を学ぶことができます。すなわち、誰かが乾くことがないようにと助ける者は、自分自身も満たされます。また、他の誰かの重荷を担うことを学ぶ者は、自分の重荷も軽くなることに気付くでしょう。霊的な働きにおいては、この辺で辞めてもよかろう、と言うことはないのです。『わたしの父は今に至るまで働いておられます』、と主イエス様は宣言されました、『ですからわたしも働いているのです』(ヨハネ5:17)。

2015年10月12日月曜日

10月12日

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです[マタイ24:42]

『目をさましていなさい』という言葉にこめられた意味はなんでしょう?目をさましているという意味は、注意力を失わないようにということです。キリスト者は、自信過剰になりがちなところがあります。注意深くあるとは、気を緩めることの正反対です。人が眠るのは、何事も起こるはずはないと、自信を持っているからです。それに較べ、目をさましている者は自分の肉に対して信頼をおきません。自分を信じきっている者が転びやすいのは、『昨日の自分とは違う』と高ぶることで、失敗への道を開いてしまうからです。自分には力がないと心の奥底で感じる者だけが、注意深くあることができます。その時がいつなのか、主がまだ語ってくださらないのですから、私たちはいつも、目を覚まし、気を配っていましょう。

2015年10月11日日曜日

10月11日

今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです[ヨハネ12:31]

今はサタンが一時的にこの世界を支配しているにしても、それは力で強奪した上で、居座っているに過ぎません。主イエス様が十字架の上で死なれた時、この世の支配者は既に追放されたのです。主はご自身の死において、『すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました(コロサイ2:15)。』この世界は今、悪の支配の下にありますが、それは不法に行われていることです。そして、神は既に、御自分の王国を取り返し、御子がこの世界の王として、千年、さらにはとこしえまで支配なさる日を定めておられます。その時が来るまで、神はサタンの好きなようにさせているだけなのです。その間も、神ご自身がこの世界の支配権を握っておられます。サタンは、自分に許されたものを思いどうりに操ることはできるかもしれませんし、神に属する者を迫害することさえ許されていますが、これはつかの間のことに過ぎません。そして、この短い期間においても、サタンは神の手の内から逃れることはできません。サタンは聖者を苦しめることはできますが、それも限られた範囲の中のことです。神が認めたことの他は、この敵にはどのような権威も与えられていないのです。

2015年10月10日土曜日

10月10日

敬虔のために自分を鍛練しなさい[1テモテ4:7]

キリスト者の中には、頑迷さを敬虔と勘違いしている人がいます。彼らは自分自身を偽っているのです。ある兄弟がこういいました。彼が出会った他の兄弟が、ひとこと、ふたこと、言葉を発するごとに、頭を地面に向かって下げたり、また、天に向かって上げたりしていました。彼は、この兄弟が敬虔さを装っていることに気づきました。彼は心からこう叫んでやりたくなったそうです、『兄弟、偽るのはやめなさい!』私たちは、いのちとは何であるかを知らなくてはなりません。それは、自然に流れるものです。こんな頑迷さを持つ兄弟であっては、御霊も神であっても、近づくことはできないでしょう。ですから、敬虔であろうと試みるなら、いつも、新鮮で生き生きとしていなければなりません。私たちの言葉と心構えを通して、ご自分を現されるのは神なのですから。

2015年10月9日金曜日

10月9日

主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった[ヨシュア3:17]

川の底は死の場所です。そこに心地よいものは何もなく、安らぎもありません。休むことも、座ることも、寝そべることもできず、立っているしかありません。私が自分の短気な性格のままに生きるなら、キリストは他の人の中に生きることはできません。しかし、私が川底に立てば、他の人々がヨルダン川を渡って、勝利に至ることができます。死が私の中に働き、いのちが他の人の中に働きます。私が死に従う中で、いのちが他の誰かの中で働き、その人を神に従わせます。キリストの死が、私たちの中で、そのいのちに息吹を与えます。死がなければ、いのちもありません。

川底で箱をかつぐのは、たいへんに辛い仕事で、大きな苦難に満ちていました。少しでも気を抜けば、聖なる神が彼らを滅ぼしてしまいます。彼らはそこに立ち、イスラエルの子供たちがひとりずつ通ってゆくのを見つめていました。こうして彼らは最後まで残されました。主よ、他の者が生きられるように私を死なせてください。私たちも、こう祈ることができますように。

2015年10月8日木曜日

10月8日

ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い…[マタイ24:48]

このしもべが失敗した原因は、何だったのでしょう?『主人はまだまだ帰るまい。』この男は間違いなく主の再臨を信じていたのですが、ただ、そんなに早くは来ないだろうと思い込んでしまったのです。主がすぐに戻られることを信じないものは、誰であれ、悪いしもべです。この悪いしもべの過ちは何であると主は言われるのでしょう?それはただ、彼が口では主は間違いなく来られるといいながら、心の中では主はもっと遅くなるだろうと思っていることです。こんな人の足元は、実に心もとないものです。主がすぐに来られることを知らなければ、人は気を抜かずにいられるでしょうか?私たちは主がすぐに戻られる時に、また、その日を待ち望んでいなければいけないのです。

2015年10月7日水曜日

10月7日

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます[マタイ16:19]

主が、天の御国のかぎをペテロにくださったことは、この使途が扉を開ける使命をはっきりと担ったことを示しています。これは、初めにユダヤ人に、次いで異邦人に対してのことです。この天の御国のかぎがペテロの手の内にあるのですから、彼は自分自身も天の御国に既に入っているのでなくてはなりません。鍵はペテロの手の中にあり、それを守るように言い渡されています。もし、たとえば、門を開ける鍵が、私の手にゆだねられたなら、この集まりに早く来てしまった人は、私が到着して鍵で開けるまで、鉄の門の外で待っていなければなりません。わたしが初めに入って、初めて、他の人たちが入ることができるのです。鍵を持っていない人のほうが先に入るということは絶対にあり得ません。したがって、ペテロが天の御国の領地に一番に入る者であることは、これ以上ないほど明らかです。

2015年10月6日火曜日

10月6日

目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません[1ヨハネ4:20]

これは多くの人がよく知っているみ言葉です。しかし、注意してください。この節が語っているのは、家族としての兄弟を愛することではなく、キリストにある兄弟を愛すべきであることです。他の人たちの態度や言動がひどくて、とても愛することなどできないことがよくあります。それでも、神の愛があなたの中にあるなら、その人たちを愛することができるはずです。自分の好きな兄弟たちを愛するのではなく、兄弟たちを愛すること、これに尽きます!愛すべき兄弟たちを愛するのではなく、すべての兄弟たちを愛するのです。兄弟を愛することができないなら、それは、父の愛があなたの中にはないことを証明しています。あなたに神の愛があるなら、兄弟たちを愛さずにはいられないはずです。

2015年10月5日月曜日

10月5日

だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように[マタイ6:9,10]

『だから、こう祈りなさい。』この言葉の後に来るものは、祈りのお手本とか、礼拝の作法として用いることを意図されたのではなく、私たちが見習うべき例として言われたのです。弟子たちは、このように祈ることを学ぶことです。

今日のキリスト者は、とてつもなく責任を負っています。それは、王国を祈りを通して、この地上に導きいれることです。サタンが今もこの地上にいるのはなぜなのでしょう?キリストに属する者が、キリストの勝利をまだ体験していないからです。『御国が来ますように。』それは既に私たちの中に来ていることは確かなのですが、まだ姿を見せていないのは、今もなお、信者たちの祈りを待ち続けているからです。

2015年10月4日日曜日

10月4日

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。イエスは言われた。あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません[マタイ17:19,20]

『あなたがたの信仰が薄いからです。』または彼らの不信心のためです。ここが注意しなければいけないところですが、このような不信仰は、信者から来るものです。したがって、主イエス様を救い主として信じていないと言う意味ではありません。『からし種』のことを話されたのは、たとえとして使われたのですから、山も何かのたとえに違いありません。後者は、最終的で深く根を降ろした困難のことを語っています。山はもっとも安定したものではありますが、信仰は多くの山、多くの困難を動かして来ました。動き回る星と異なり、山はその場所にしっかりと留まっているものです。不信仰な子供や失業と言った問題は、山に似ています。信仰さえあれば、そのような山を動かすことができるし、どのような種類の困難にも対処できます。それなのになぜ、まず他の人に助けを求めるのですか?

2015年10月3日土曜日

10月3日

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました[エペソ1:19,20]

パウロが生きていた頃、エペソの信徒たちのために、彼らが、神が賜った力のすばらしさ、偉大さに気付くことができるようにと祈りました。もし今、自分の中にある力とキリストの中にある力が、同じひとつのものであると信じられなければ、それを理解できるように祈らなければなりません。私たちの中に現された力が、キリストの中に現された力よりも弱ければ、まだ分かっていないことがたくさんあることを認めざるを得ません。へりくだって神の前に告白し、理解させてくださいと祈りましょう。信じる者の中で神が働く力は、神がキリストの中で働かれた力の強さに一致するほどのものです。ハレルヤ!これが霊的な真実です。本当にこの事実を理解し、受け入れることができるよう、神に目を開いてくださいとお願いしましょう。神に、外からもっと大きな力を注いでくださいと、お願いするのではありません。ただ、私たちが既に自分の中にあるものに気づき、見つけられますようにと、頼むのです。

2015年10月2日金曜日

10月2日

ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ひとりの年寄りの預言者がベテルに住んでいた。[第一列王記13:1,11]

ベテルに住んでいたこの年老いた預言者は、かつては神に用いられた者でしたが、この時は役に立たなくなっていました。神は、ヤロブアムがかつてベテルで犯した罪の事で警告を与えたかったのですが、そのために、この年老いた預言者を用いて語らせることはしませんでした。

『神の人』という言い方は、その人が神との交わりを持つことを示しています。交わりは神からの光の基です。交わりが失われたら、その瞬間に光も消えます。この年老いた預言者は、かつては本当の預言者であり、霊的な歴史を持っていました。しかし、このときには神との交わりを失っていました。神がこの者を用いられなくなった以上、この人はただの古き預言者となりました。なんと、悲しいことでしょう。このことを考えて、キリスト者としての歩みにおける、きわめて重要な問題に注意を向けましょう。それは、神に切り捨てられないためにはどうすべきか、拒絶され、用いられなくなることを避けるにはどうすればよいかという点です。主の前に新鮮な気持ちでいることは、用いられ続けるために、もっとも大切な習慣です。

2015年10月1日木曜日

10月1日

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました[エペソ2:6]

主を信じ始めた頃、私は、天の所に座って、日々、罪を足の下に踏み潰すことができたら、どれほど幸いだろうと夢見ながら、何時間も過ごしたものでした。しかし、紙飛行機を飛ばしているのと同じで、いつまでも、上に留まっていることはできず、私は、すぐに墜ちてしまいました。私はひたすら祈り続け、自分が何時の日か天の所にしっかりと腰を降ろして、上昇の新記録を立てることを願い続けていました。ある日、エペソ書2章6節を読み、理解し始めました。キリスト者がキリストともに上げられる時、その者は天の所にキリストともに座らされるのです。その人はキリストとそこに座りますが、それは自分の努力のおかげでも、祈りのおかげでもなく、キリスト御自身が天に上られたとき、ともに天の所に引き上げてくれたからです。キリスト御自身が天の所におられるからこそ、私も天の所にいるのです。

2015年9月30日水曜日

9月30日

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません[ヨハネ5:39,40]

もし誰かが、祈りも、自分の力を明け渡すことも、精霊に完全により頼むこともしないでく、本や教師や聖書自体から、何らかの宗教的な教えを受け取ったとしたら、その人は知識を自分の心の力の中で受けたのです。心の力で真実を受けるということは、精霊を介さず、本、教師や聖書から直接それを受け入れることです。パリサイ人はこのような形で聖書を直接知っていました。そのため、彼らの手の中に最後に残ったのは、死んだ物であり、そこには、神の前の生きた経験が欠けていました。神の言葉は人をご自身の近くに引き寄せられ、神ご自身が御霊であるからです。

2015年9月29日火曜日

9月29日

七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である[黙示録1:20]

黙示録の最初の章に、教会は金の燭台であると書かれています。神はご自身の言葉で、教会は金でできているというだけでなく、教会は金の燭台であると言われます。教会が金でできているだけであれば、神の心を満たすことはできません。なぜ神は、教会が金の燭台であると言われるのでしょう?それは、金の燭台は光を広げ、その光が遠くまで輝き渡る働きをするからです。神は、教会に輝く器であって欲しいのです。それは、証しの器です。すべての始まりから神は、教会が燭台であるように命じられていました。特定のどこかのことではなく、全ての教会です。神の目から見た教会は燭台です。したがって、金であるだけでは、それが神に属することを表しているに過ぎず、十分でありません。それは神のために輝きを放ち、金の燭台として神を証ししなければなりません。

2015年9月28日月曜日

9月28日

(キリスト・イエスは)ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです[ピリピ2:7]

この意味するところは、主がご自分に課される制約を受け入れたと言うことです。天においては、主は望むところ、どこへでも行くことができます。しかし、主が肉体を与えられ、人と同じ姿を取られた後で、主は赤子から大人へと成長されました。主は、人間と同じように年月を経て大人になり、人間として、食べ、飲み、また、眠り、休息を取られました。これにより、主の神としての性質は大きな制約を受けました。事実、奴隷と言うかたちを取られることで、主の行動はいっそう大きく制限されたのです。人であれば、主にはまだ人間に許された自由は持っていましたし、人の持つ楽しみを味わうこともできました。しかし、奴隷のかたちを取られたために、普通の人間の持つ自由さえも犠牲とされたのです。主はあらゆる面で制限され、束縛されました。主は、父の御心以外、何も知りませんでした。人となられた主はどれほど大きな制約を受け入れなければならなかったことでしょう!無限の力を持つ神でありながら、主イエス様は行動の制約を受けいれました。そして、人間になられただけでなく、さらに大きな制約をも受け入れたのでした。

2015年9月27日日曜日

9月27日

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません[マタイ16:18]

門は入り口であり、出口でもあります。ハデスも死も、信者や教会をつなぎ止めることはできません。そこには既に朽ちないいのちが現れているからです(2テモテ1:10を参照)。この朽ちないいのちはハデスから出て来たものです。主は御自身のいのちを、自由にハデスの中に入れたり、外に出したりする権威を持っているからです。ハデスにはこのいのちを引き留めておく力はありません。そして、信じるものに与えられたのもまったく同じいのちです。この理由から、ハデスは私たちも引き留めることはできません。どれほど環境が艱難、迫害、悪意、殺人などに満ちたひどいものであろうと、また、行く手を壁で遮られていても、私たちにはいのちがあり、それは何があろうと、抑え込まれることも、押し潰されることもありません。

2015年9月26日土曜日

9月26日

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい[ヘブル12:2]

イエスから目を離さないとはどういうことでしょう?自身を見つめることではありません。イエス様の方に目を向けると、主に惹きつけられ、自分の内なる世界から離れて、目を向けたお方とともになります。あなたが見ているイエス様はどんな方でしょう?あなたの信仰の創始者であり、完成者でもあるイエスさまを見ています。これがイエス様の全てを語っています。霊的な成長の秘訣は、したがって、どうすれば、自分の状態にこだわらずにいられるかを知ることです。どうすれば自分自身を見ずいられるかを知っている者はまことに幸いです。神の御霊が啓示を与えて下さり、『目をそらす』とはどういうことか、自身の過去に無意味に捕われずにいるにはどうすればよいかを、示してくださいますように。

2015年9月25日金曜日

9月25日

私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか[ヘブル12:1]

この競争を走り続けている私たちは、『忍耐を持って』走らなければなりません。なぜ、忍耐が必要なのでしょう?それは、褒賞が出発地点も、中間点でもなく、経路の最終地点で与えられるからです。ゴールに達するまで、報いを受けることを誰も保証できません。残り5歩のところでしくじる可能性もあります。200メートル徒競走で、ある人が他の選手をおよそ20メートル引き離したまま、ずっと走り続けていましたが、ゴールまでわずか2メートルのところで転んでしまいました。勝つためには、集中し続けなければなりません。ゴールにたどり着くまで、これで賞品はもらったと喜んではいけません。使徒パウロですらこう言わざるを得なかったのです。『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ、追求しているのです(ピリピ3:12)。』パウロですら、こう思ったのです。私たちはどうでしょうか?

2015年9月24日木曜日

9月24日

すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです[マタイ24:30]

初めてこの世に来られた後、主は御自分の偉大な権威と栄光を現されました。次に来られる時は、力と栄光を示されるでしょう。初めに降臨されたとき、人々は主の教えと権威に驚きました(マタイ7:28)。パリサイ人は主の権威がどこから来たものかを探ろうとしました(21:23)。百人隊長は主の権威を信じました(8:8-9)。しかし、再臨される際は権威だけでなく、力をも表されます。主は、ろばの子に乗ることはなく(平和の君として)、白い馬に乗ってこられます。神のさばきを行うために力が使われます。主が台を倒し、細なわでむちを作って、羊と牛を追い出した時でさえ、主はそのむちで人を打つことはありませんでした。二度目に来られるときに初めて、主はその力を使われます。

2015年9月23日水曜日

9月23日

塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか[ルカ14:28]

主は費用の計算について語っておられます。ここで主が本当に言いたいことは、人が塔を築くために、自分の持てるもの、すべて注ぎ込む気持ちがあるかということです。たとえば、塔を建てるのに500ドルの費用がかかるのに、300ドルだけ出して、残りの200ドルは他の目的のために取っておきたいと考えてしまうと、自分の取り分を確保したために、費用が足りなくなります。他の誰かのために愛を取っておくような者は、キリストを愛することはできません。人は自分の父、母、妻、子供、そして自身のいのちさえも憎まなければなりません。そういったものを自分の心から追い出すのです。キリストは、人がいくら出すかではなく、自分の持てるものすべてを差し出すかどうかを問われます。

2015年9月22日火曜日

9月22日

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたことを、私たちは知っています[ローマ6:6]

私たちにどうしても必要なのは、主の御霊による啓示を頼み、古い人がキリストとともに十字架につけられたさまを示していただくことです。大きな誘惑に襲われて、私たちの古い人は未だ死んでいないのでないかと不安に感じることがあっても、自分の感情や経験ではなく、神が成し遂げたことを固く信じるのです。これを真実であると心から認めるなら、自分も同じことを経験するでしょう。神の真実は、私たちがそう信じるから事実となるのではないことに注意しましょう。むしろ、神の真実が既に事実であるからこそ、私たちはそれを信じるのです。

人が誘惑され、試みを受けているときはいつも、神の言葉に信頼しなくてはならないし、神の真実は自分の感覚よりも、大きな信頼に足るものです。人が神の言葉を完全に信頼するなら、神は責任を持ってその人に経験をさせてくださるでしょう。過去の誤った経験を振り返るなら、その人は打ち負かされ、将来も前向きな経験をすることはできません。神の真実を信じることによって、私たちの霊的な生活は日々、前進します。

2015年9月21日月曜日

9月21日

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません[1ヨハネ2:15]

ある時、絵画展が開かれました。その中で一枚の絵が、寓話的にキリスト者を表現していました。絵の中では、子供の好きなおもちゃがたくさん、当たりに散らばっていました。しかし、子供は、そのどれにも気に止めていないようでした。代わりに彼の目は、窓に釘付けになっており、手を窓の方に伸ばしていました。その絵を、離れたところから見ても、なんの意味があるのか分かりませんが、近づいてみると、きれいな小さい鳩が一羽、窓の敷居にとまっていることに気付きます。そして、絵の下の非常に長い説明があり、小さな可愛い鳩が欲しいばかりに、その子供はどんなおもちゃもいらなくなったと、解説しています。ここから絵に隠された意味が明らかになります。すなわち、もっとも優れたものを手に入れるために、他のものすべてを捨てなければならないのです。神は、私たちに何かを捨てるように強制することはありません。代わりに、私たちの目の前にもっと優れた何かをおきます。もっと優れたものを手に入れるために、人は自然に、意味のない多くのものを捨てることになります。

2015年9月20日日曜日

9月20日

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい[1コリント10:31]

正しいか、間違っているか、善か、悪か、霊的に価値があるか、ないか、これらのことがらは全て、神の栄光の存在によって計られます。人間の目には、些細でどうでもいものに見えても、それに触れることで正しく神の栄光にふれることもあります。そして、神の栄光に触れることで、自分が既に神の導きを得ていることがわかるのです。そうなればもう、待つ必要はありません。何かの働きをしている時、それにあまり価値がないとか、何かがうまく行っていないと感じることがあるかもしれませんし、一方で、あなたが参加している他の働きの中で、そこには意味があり、本質的に正しいと感じることもあるでしょう。問題は、働きが外から見て大きいか、小さいかではなく、神の栄光がそこに存在しているか、いないかということにあります。神の栄光がなければ、何の意味もなく、神の栄光が存在するところには、大きな価値があります。

2015年9月19日土曜日

9月19日

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません[マタイ10:29]

近代におけるもっとも大きな間違いは、人類全体に対して注意を向けるあまり、個人個人を無視していることです。しかし、神はそうではありません。神は全人類を祝福することを考えていますが、それをひとりひとりの人間からはじめます。神は誰一人、見下すことはしません。『二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。』神の働きのすべてにおいて、父の手を見るべきです。人間は確かに罪を犯し、堕落してしまいましたが、神はその一人も蔑んでいないことに感謝しましょう。神はどれほど、御心を一人ひとりに注いでくださることでしょう。それこそが、私たちの慰めです。神の心だけが、人の心を真に満たしてくれます。

2015年9月18日金曜日

9月18日

さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った[創世記26:1]

概して言えば、エジプトには飢饉はありませんでしたし、飢饉になりかけた時も、古い穀物のたくわえがありました。しかし、カナンの地ではよく飢饉が起こったようです。霊的に言えば、これは次のことを語っています。この世界において、この世にいるだけでなく、世に属する者が飢えることは、実際にはほとんどあり得ません。しかし、神への従順への道を歩んでいる者には、時に飢饉がもたらされます。較べてみますと、地上では、ほとんど、あるいは、まったく苦難がなくても、従順へと向かう道筋には、多くの試練が待っています。苦難がどれほど大きくあろうと、神のいるところ、常に脱出の道も備えられています(1コリント10:13を参照)。ですから、真実を尽くすと同時に、いつも目を覚ましていましょう。

2015年9月17日木曜日

9月17日

人が主に対して罪を犯し、不実なことを行なうなら、…あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなら、…[レビ6:2,3]

あまり、真剣に考えないかもしれませんが、これはやはり不誠実な行為です。落し物を自分のものにしても、間違ったことは何もないと考えてしまうかもしれません。それでも、神はそれを不正な行為であると明言しています。キリスト者は、他の人のものを取って、自分のものとすることはできません。多くの人は、他の人のポケットより、自分のポケットに多くのお金が入ったほうがよいと考えるでしょう。しかし、それは正しい考えではありません。ハンカチ、帽子、万年筆や手紙、なんであろうと、拾ったものを自分のものと考えることはできません。それは正しくないことだからです。過去には、そんなことを平気でしていた人も、今は持ち主に返すようできるだけのことをするべきです。無くした人が取り戻せるようにするか、紛失物をその土地のお役所に届けるようにしましょう。そうでなければ、罪を犯したことになります。

2015年9月16日水曜日

9月16日

彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた[マタイ25:15]

5タラントと2タラントを渡された二人には、それを誇ったり、満足する理由などありません。一方で、1タラントしか渡されない者にも、恥じ入ったり、妬んだりする必要があるでしょうか。今日の教会における信者は、大きな者をありがたがり、小さなものを見下すのではないでしょうか!これらはすべて肉の行いです。

1タラントしか渡されなかった者は、最も大きな誘惑を受けます。彼はこの贈り物を、土の中に埋め、怠惰になってしまいがちです。彼は、少ししか渡されなかったことを恥じているのです。彼はまた、それを元手に商売をしてもほとんど儲けにはならないことも知っています。そのため、彼は賜物をただ地中に埋めてしまいます。彼はすばらしい説教をして、一度に数百人を救うことはできないし、目を見張るような大きな働きをすることはないかもしれませんが、それでも、主のために何かの小さな働きはできるのです。神が小さな賜物をくださる時は、私たちも、小さな働きをするようにと望む心を持てますように。

2015年9月15日火曜日

9月15日

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を[詩篇42:11]

多くのクリスチャンは、あまりに感情のおもむくままに生きています。楽しく幸せな気持ちでいられた日は、今日は神が本当に祝福してくれていると言います。しかし、冷たく退屈な日を過ごした時は、こんな風に言いたくなってしまいます、神がどこにいるかどうして分かろうか?このように、多くのクリスチャンが感情に依存し、自分の気持ちを見失うと、戸惑ってしまいます。ここから分かるのは、彼らが本当の意味で主を知らないことです。冷たくても暖かくても、単調であろうと、波乱があろうと、そんな感情は何の問題にもならない、自分は既に神を知っていて、どんな感情よりも深い知識がある。そう言える段階まで、神の子どもたちは、主に移されなければなりません。外に向けて、さまざまな感情が湧き出しても、それが楽しみ、痛みであれ、心の中では知っている。そのような人だけが、どれだけ揺さぶられても、持ちこたえることができます。

2015年9月14日月曜日

9月14日

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです[2コリント3:18]

銅細工師は金型に溶けたままの銅を注ぎ、その銅は固まると金型の形となります。また、お菓子作りを例にとっても、人が金型に用意した生地を入れると、それがその形をしたケーキとなります。この例えのように、私たちは主のようになるべきです。『御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた』、とパウロがローマ書8章29節の中で述べているとおりです。これは、私たちがいずれは、栄光に満ちて人の姿を取った主のようになることを意味しています。人間が、神の供えた金型に合わせて、本当に変わるためには、その人の内なる性質が変容をとげなければなりません。すなわち、神のいのちを自分の霊へと受け入れ、そのいのちを自分の全存在の中に浸透させなければならないのです。それは、生まれたままの性質が変化し、その姿が完全に変わってしまうところまで行う必要があります。主の霊は一歩一歩働かれます。それは、『栄光から栄光へと』進みます。主を褒め称えましょう!

2015年9月13日日曜日

9月13日

あなたがたは主キリストに仕えているのです[コロサイ3:24]

神に仕えることと、神のために働くことはまったく違います。神のために働く者はたくさんいますが、彼らは神に仕えてはいません。働きが信仰に基づくものであるか、それが本当にキリストのためかどうかは、動機と目的から判断できます。自分を大きくするためとか、自分が属する集団のため、また、自信の勉強のための労苦をしてはなりません。ただキリストのためにのみ働くべきです。神が何かを得ることが私たちの喜びです。自分たちの働きから出たものでなくても、神が何かを得られたら、それは嬉しいことです。私たちが踏み出すのは、自分の修練のためではなく、罪びとを救うためです。自分の心を満たすためではなく、ただキリストの心を満足させるためです。

2015年9月12日土曜日

9月12日

強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです[マタイ12:29]

強い人を縛りあげるとは、神の御霊を通して行われることです。御霊の力が、悪霊を追い出すために必要です。悪霊は、主の御名によって追放されますが、これは御霊がその御名の力であるからです。

強い人を縛り上げられるには、どうすればよいでしょう?それは、主イエス様の十字架を間接的に介して行われます。十字架の上で主はサタンの頭を砕きました(創世記3:15を参照)。十字架がサタンの頭に立ち向かい、その力と支配を破壊しました。しかし、主が死者の中からよみがえり、天へと昇られた後、御霊が地上に降りて、主が十字架で成し遂げられたことを実行に移しました。それ故、サタンを縛り上げるのは御霊の力であり、それは十字架を基にして行われます。私たちの方は、信仰の祈りを通して、サタンを縛りあげます。私たちは祈りによって強い人を縛り上げるべきです。したがって、主の働きにおける、すばらしい原理は、まず縛りあげてから、力を失わせるということです。

2015年9月11日金曜日

9月11日

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます[ルカ17:32-4]

この2人の間に、違いはないように見えます。場所も、働きもほとんど同じです。それでも、携挙の時には、違いが示されます!この一瞬に、なんと大きな違いが現れることでしょうか!

最も深刻な問題がここに示されています。携挙に及んで引き上げられ、主に会い、そして、天の御国に入ることを望むなら、まずは、今この時の魂を捨て去る必要があります。主のために、私たちは世界を捨て去り、神の御心に沿わないあらゆるものを捨て去り、私たちを縛り付けるあらゆるものを捨て去り、そして、上にあるものへの想いを妨げるすべてを捨て去る必要があります。私たちがロトの妻のように、ただ自分の魂を守り、何も捨てたくないと思ってしまえば、引き上げてもらうことはできません。そうなれば、ソドムとゴモラで罪人とともに滅びることはないにしても、主に引き上げてはもらえません。永遠の命に違いはないかもしれませんが、携挙においては違いが示されるでしょう。

2015年9月10日木曜日

9月10日

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません[ヨハネ3:5]

ヨハネが水で授けた、悔い改めのバプテスマは人を新生させることはできませんでした。人は、『水と御霊』によって生まれなければ、生まれかわることはありません。悔い改めるためのバプテスマはこう述べ伝えます。悔い改めが必要なのは、人の悪に満ちた行いだけではありません。堕落し、死んでいたその人自身も、バプテスマの中に沈められなければなりません。

人は、『水』のみで生まれ変わるのではありません。『水と御霊』の両方によって生まれなければなりません。人は、主イエス様から聖霊の賜物を受けなければ、神のいのちを持つことはできません。悔い改めは、自分が持っているすべてのものから、私たちを解放してくれます。信じることで、私たちは神が持つすべてのものへと導かれます。私たちは悔い改めを通して水の中に入り、信仰によって御霊を受けます。これが新生です。

2015年9月9日水曜日

9月9日

あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、…しっかりと組み合わされ、結び合わされるのです[エペソ4:15,16]

この一節から分かることは、キリストのからだの各部分は、しっかり組み合わされ、お互いと結び合わされています。これはすべてがかしらへと強固にしがみついて、体の部分としての使命をまっとうしているからです。ここで、神はあなたの隣に座っている人にだけ注意を払って欲しい、と願っているわけではありません。神は、あなたが主と適切な関係を持つことを何よりも望んでおられるのです。かしらとこのような関係を維持するなら、体の他の部分とも良い関係を持つことができます。自分をかしらへとゆだねるなら、あなたと兄弟姉妹との間に起こった問題も簡単に解決されます。主との間に食い違いがなければ、兄弟姉妹と問題が起こることもありません。

2015年9月8日火曜日

9月8日

弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった[マタイ17:6-8]

『心から、怖れなさい』、神が現れる時、誰が怖れずにいられるでしょうか!

『恐れるな』、この言葉は聖書の中で365回出てきます。一年の中で、一日一回に当たります。毎日が、『今この時』と、祝福されます。どの日も恵みとして分け与えられているからです。

『だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった、』律法と預言者、人の子の栄光、あたりを包む光り輝く雲と響く声、そして、仲間たち。それらはすべて消えてしまい、イエス様お一人が残っています。私たちがイエス様だけを見ていられますように。

2015年9月7日月曜日

9月7日

…喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。[コロサイ1:12,13]

神が、私たちを祝福したいと思っておられることはたしかです。しかし、神は私たちのために、もっと大きなことを望んでおられるのです。それは、神の王国に入ることであり、神の支配の下に置かれることです。皆さん、理解しましょう。救いは楽しみのためだけにあるのではなく、もっと重要なことには、神の主権の下に置かれるためにあるのです。かつての私たちは自分のやりたいことをやり、深く考えもせずに、日々を無為に過ごしていました。今、私たちは神に服従しなければなりません。一度、救われたら、もう意味なく時を過ごすことは認められません。神の規範を受け入れなくてはなりません。救いとは聖霊のくびきの下に置かれることに他なりません。人が、救われたいと望むなら、聖霊がくびきを付けます。くびきをつけられたものは誰でも救われます。肉として見るなら、救いは全く楽しいものではありません。それは、人を神の主権と支配の下に引き込むからです。

2015年9月6日日曜日

9月6日

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です[詩篇119:105]

私たちの心が正常な状態にあるときは、青い空と明るい太陽の下を歩いているようなものです。しかし、心の状態は何時までも同じままではありません。聖書はこう語っています、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』暗い夜がなければ、ともしびも光も必要はないでしょう。私たちの心の中が明るい時は、内なる欲求は明瞭で確固としています。心が暗くなると、内なる欲求も混乱し、揺れ動くことが多くなります。だからこそ、聖書の言葉を調べる必要があるのです。いのちに真実が加われば、本物の安定した力となります。私たちは、このどこまでも続くいのちと真実の道を歩かなくてはなりません。私たちの考えや判断は、そのひとつひとつを聖書の言葉と付き合わせることが必要です。こうすれば、左右によろめくことなく、まっすぐ前に歩いてゆく助けとなります。

2015年9月5日土曜日

9月5日

イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」[ヨハネ4:10]

神様は何も売りません。『賜物』とはただで与えられるものです。神はいつも、ただで人に与えます。そして、神はお願いすれば誰にでも与えてくれます。神は、何も取らずに、陽の光を輝かせてくれます。神は、一円も払わなくても雨を降らせてくれます。主はまた、精神的な満たしも同じように与えてくださるのです。

あるところに、お母さんが大好きな子供がいました。お母さんを喜ばせるために花を買ってあげたくなったのですが、ポケットには、ペニー硬貨2枚しかありません。その日、男の子はきれいな庭を見つけて、花を買おうと中に入り、そこにいた紳士に自分の願いを打ち明けました。それを聞いた紳士は、数本の花を取って男の子にあげました。男の子はていねいにお金を払わなくては花は受け取れないと言いました。しかし、その男性は応えて、『私の花はいつもただであげてますよ。欲しいければいくらでも差し上げます。』その人が誰だったと思いますか?英国の皇太子で、そこは王室の庭だったのです。

2015年9月4日金曜日

9月4日

祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです[マタイ6:7]

『くり返す』とは、多くの意味のない言葉を使って、祈りを長引かせることを指します。決して祈りの中で同じ言葉を使うなと言っているのではありません。主イエスでさえ、同じ言葉で3回祈られたのです。心の中に重荷を抱えている時、主は祈りの中で、同じ言葉を何度も口にされていることが分かります。祈り方をもっとよく知っているものほど、祈りにおいても創意を持っています。

私たち、今日の信者の間に残念な傾向が見られます。私たちには長い祈りをすることが多く、多くの言葉で祈りを長引かせ、たくさん話すほど聞いてもらえると考えています。しかし、聖書に記されている祈りは、もっとも率直で簡潔なものです。マタイ8:25の『主よ。助けてください』がその例です。極めて短いお祈こそりが、はっきりと受け止めてもらえることがよくあるのです。苦しい時、罪を犯す人を見ているとき、助けが必要なとき、短い祈りがもっとも効き目があります。

2015年9月3日木曜日

10月3日

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました[エペソ1:19,20]

パウロが生きていた頃、エペソの信徒たちのために、彼らが、神が賜った力のすばらしさ、偉大さに気付くことができるようにと祈りました。もし今、自分の中にある力とキリストの中にある力が、同じひとつのものであると信じられなければ、それを理解できるように祈らなければなりません。私たちの中に現された力が、キリストの中に現された力よりも弱ければ、まだ分かっていないことがたくさんあることを認めざるを得ません。へりくだって神の前に告白し、理解させてくださいと祈りましょう。信じる者の中で神が働く力は、神がキリストの中で働かれた力の強さに一致するほどのものです。ハレルヤ!これが霊的な真実です。本当にこの事実を理解し、受け入れることができるよう、神に目を開いてくださいとお願いしましょう。神に、外からもっと大きな力を注いでくださいと、お願いするのではありません。ただ、私たちが既に自分の中にあるものに気づき、見つけられますようにと、頼むのです。

9月3日

こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります[ローマ14:12]

私たちの人生の中で犯したすべての過ちと罪のうち、血の下を通され、十字架で償われたものは、もはや裁きの座で吟味されることはありません。事実、この座で主が裁かれるのは、私たちのまだ償われていない空虚な言葉、考えと働きだけです。裁きの座の光はすべてを貫くものとは言え、既に血の下にある罪を暴くことはできません。では、例えば、いつも空虚な言葉をもてあそぶ舌をどうすればよいでしょう。十字架が必要なのです。それは、無意味な考えや働きに対しても同じです。それにも十字架が必要なのです。ですから私たちも、信仰をもって十字架を受け入れ、十字架につけられた古い人のことを思いましょう。そうすれば、裁きの座は、既に十字架で償われた過去の罪を探し出して、裁くことはできなくなります。

2015年9月2日水曜日

9月2日

彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである[ヨハネ12:43]

人間が善と悪を知る知恵の木の実を食べて以来、人の栄光は、人間の魂における重要な関心ごととなりました。私たちは一人ひとりが自分専用の王座を持っており、この王座は人の栄光の上に建てられたものです。しかし、もし私たちが主の忠実な僕であろうと望むなら、自分の王座からは下りなければなりません。それを拒めば、主に仕えることはできないのです。ヘブル書12章2節は、私たちの主であるイエス様が、はずかしめをものともせずに十字架を忍んだことを教えてくれます。主は、喜んで十字架を選んだのです。そして、十字架は死だけではなく、恥辱でもありました。真に十字架に砕かれたことがあるなら、恥辱をものともせずに正面から受けとめる経験を、必ずあなたも味わうでしょう。神が哀れみ深くあって、私たちに主を喜ばせる心を持たせてくださり、主の恵みによって私たちがが忠実なしもべとされますように。

2015年9月1日火曜日

9月1日

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています[詩篇119:89]

私の父が土地を買ってくれ、登記書も私にくれたとしましょう。父は私にそこへ行って、その地所を管理するように命じます。そこで、私はその土地がある国へ行きます。すると、ごろつきのような男が出てきて、なぜ、ここに来たのかと尋ねます。私が、『父の地所を探しに来た』と応えると、そのごろつきは、『ここはお前の父親の土地なんかじゃない、俺の親父の土地だ』と、言い返します。さて、もしここで私が父の言葉を疑えば、家に帰るしかありません。しかし、『いや、私の父は間違っていない。私が持っているこの証文に、ここが私たちの土地であると書いてある』と言い返してやれば、ごろつきはどこかに去ってゆくに違いありません。すなわち、私か彼か、どちらかが消えなければならないのです。

さて、私たち自身にも同じことが言えます。父なる神は、既にキリスト・イエスを通してあなたにすべての恵みをくださったのですから。そして、聖書は父があなたにくださる権利証書です。あなたが聖書に書かれていることを信じるなら、サタンは立ち去るしかありません。

2015年8月31日月曜日

8月31日

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか[ローマ6:3]

バプテスマを受ける時、私たちはキリストにつくバプテスマを受けます。水の中でバプテスマを受けるだけでなく、キリストにつくバプテスマを受けるのです。ローマ書6:3の最後の一文(『その死にあずかるバプテスマを受けた』)によれば、この節で語られているバプテスマの水は、死を表すものです。しかし、同じ節の最初の文(『キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた』)を見ると、水は、またキリストをも意味しています。私たちはいつも、神に一杯の水を求めます。しかし、神は私たちにキリストの中に入ってほしいのです。この点をはっきり分かっていれば、それは私たち自身の問題ではなく、キリストであり、すべては主の中にあることを理解できるはずです。

2015年8月30日日曜日

8月30日

ですから、私たちも、いっさいの重荷を捨てて…[ヘブル12:1]

重荷とはなんでしょう?重荷は罪ではないかもしれないし、必ずしも悪いものとも限りませんが、私たちをいとも簡単にがんじがらめにしてしまうことは、疑いありません。走り続けることができないように邪魔するもの、進歩の妨げとなるものは何であれ、重荷とみなされます。

19世紀、ある男性がいて、大いに主に用いられました。彼は長大な時間を費やして、ヘブライ語の辞書を編纂しました。作業が完了すると、彼は批評してもらうため友人たちにそれを送りました。誰もが、その仕事を大いに賞賛しました。しかし、この兄弟は原稿を燃やしてしまったのです。学者志望だったその男が言うには、それは、彼がその本を編纂している間に、主への愛だけでなく、魂への愛も同じように、大きく消えていくのを感じたためでした。彼にとって、その書を校正、印刷するとなれば、その後も、さらに続けて多くの時間とエネルギーを費やすことになってしまいます。このような行動を取ったことにより、この信者は重荷から解放されたのです。

2015年8月29日土曜日

8月29日

モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」[出エジプト4:10]

自分が役に立たないことを認めても、それだけでは、まだ役に立ちません。大切なことは神の力を知ることです。これこそが真の復活です。神がモーセに知って欲しかったのは、人に口を与えたのは神ご自身であると言うことでした。神はモーセを勇気付けたかったのです。『すると申し上げた。ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください(出エジプト記4:13)』。モーセはここでも、言い逃れをしました。神はこれを聴いて、モーセに対して怒りを燃やしました。何故でしょう?私たちが時に自信をなくしたり、自分を信じられなくなることには、意味があり、神にとっても受け入れられます。しかし、私たちがそこで立ち止まり、神を信じて前に進むことを拒めば、神を大いに悲しませることになるからです。

極端な行動を取ることのないよう、気をつけなければなりません。神は私たちを死へと渡しますが、それは後に復活させるためです。死は終わりではなく、復活がゴールです。死んだままでいて、復活することがなければ、私たちは何の役にも立ちません。

2015年8月28日金曜日

8月28日

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい[エペソ4:32]

かつて、ある兄弟がこう言いました、『歳若い兄弟が、私に対して罪を犯しても、許すことはできます。しかし、年長の兄弟が私に対して罪を犯したら、彼を許すことはできません』。これを聞いた別の兄弟は、この人の胸を見て、何度もうなずきました。この動作に現れている思いは、『それがあなたの心ですね!あなたの心!小さな兄弟を許しながら、大きな兄弟を許さないことで、あなたは自分の心がどんなものか明らかにしていますよ。小さな兄弟が、あなたに対して罪を犯しても許されるからといって、あなたの本当の心の状態は分かりません。しかし、あなたに対して罪を犯した大きな兄弟を決して許さないということは、あなたの心の中に何があるのか、本当のことを示しています』。この出来事を通して、その兄弟が人を許さない心を持っていることが明らかになりました。

2015年8月27日木曜日

8月27日

イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれた[マルコ6:48]

夜中の三時ごろと言えば、夜のうちでも最も暗い時間であり、夜が終わりかけているときでもあります。私たちが前へと進まなければならないのはまさにこのような時です。私たちはみな、誘惑とこころみがあることは、よく理解しています。しかし今、最も危険なのは、少しだけ冷めてしまうこと、多少の妥協を許すこと、そして、居眠りしてしまうことです。私たちは本当に疲れているから。初めは、立ち上がるだけの力がありました。私たちが、愛で捉えられていたからです。しかし、その後、非常に長い時間が経つと、あまりにも苦しみが大きくなったため、簡単に冷めてしまうようになりました。

ある兄弟がかつてこう言われました。50歳を超えてもまだ主のために熱心に働いている人など、もう滅多にいなくなった、と。情熱と信仰の深さは少しずつ冷えてきますし、これは他のどんな誘惑より抗いがたいものです。罪に打ち勝つことは可能です。しかし、風に向かって舟をこぎ続け、冷めないでいることはほとんど不可能です。

2015年8月26日水曜日

8月26日

肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です[ヨハネ3:6]

肉とは何なのか、本当に分かっている人はいるでしょうか?肉に打ち勝つとは何を意味しているのか、また、肉の裁きの意味を、誰が理解しているでしょうか?多くの人は、罪への勝利は、すべてが完成したことを示すものだと考えています。しかし、彼らは、そこにはまだ罪を犯す肉があることを知らないのです。聖書によると、『肉』は神の咎めを受けます。それは、神が最も嫌うものです。肉はただひとつ私たちが、この世に生まれた時に与えられたものです。

私たちが生まれたときから持っているものは、すべて肉から来ており、そこには、罪と汚れ、堕落だけでなく、生来の善良さ、能力、熱意、知恵と力も含まれています。信者が生活の中で、学ばなければならない最も難しい課題は、自分自身の肉を知ることです。キリスト者は、全てにおいて間違いを犯し、全てを奪われる経験をしなくては、自分の肉とは何であるかを知ることはできません。

2015年8月25日火曜日

8月25日

このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります[2コリント11:28]

主の前に真にへりくだり、主を怖れている信者が、一人に限らず何人かいて、主の子供たちの中に問題を見つけたら、どうすればよいでしょうか?彼らが学ばなければならないことはただひとつ、その主の子供たちを肩に背負い、胸に抱いて、父の御心をうかがいに行かせることです(出エジプト28章)。パウロが、すべての神の聖者を肩に背負い、神のすべての教会を胸の上に載せたのと同じように。

パウロはなぜこれほど明瞭に、教会に対して、神の道を書き伝えることができたのかを理解する必要があります。彼の手紙には、教会のための日々の祈りの中で、心に思い浮かんだ言葉をただ書き連ねたようなものはひとつもありません。パウロは、そのように不用意に書くことは決してありませんでした。主の聖者を神の臨在へと運ぶというこの原理を、私たちは理解し、実行しなければなりません。パウロが、御父に頼りながら、神の子供たちのことを心の中で心配していた期間が、何日、何週間だったのか、私たちには分かりません。しかし、ある日、彼は神の光の中に何かを見出し、その光とともに、彼は座って手紙を書くようになったのです。

2015年8月24日月曜日

8月24日

どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります[マタイ13:32]

教会は、神に寄り頼むという、本来の性質をどこまでも失ってしまいました。からし種のように、教会は外に大きく広がった樹となりましたが、実際には、大きく欠けたところがあるのです。

ですから、適度に『小さく』あることを心がけましょう。人間の偉大さを賞賛してはなりません。栄誉においては、相手に多く与え、苦しみは相手より多く受けなさい。苦しみを進んで受ける気持ちを持ちましょう。必要なら、自分の懐は貧しくしておき、心が豊かであればよいのです。勝利の秘訣は、主から与えられた土地に立つことにあります。サウロが小さくあろうとした時、神は彼を用いました。しかし、彼が自分を大切にするようになると、神は他の者を求めました。それがダビデです。神が求めているのは小さな器であり、大きな器ではありません。

2015年8月23日日曜日

8月23日

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい[ローマ12:2]

新しくされた心であれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかを理解することができます。ある時には、これが神のみこころにかなうと思えたのに、別の時には、また別の何かの方が、みこころのように思えることが、実によくあるのです。本当にいつも、どちらがみこころなのか、取り違えてしまいます。しかし、新しくなった心があれば、何が神のみこころであるか、間違いを犯すことはありません。心が一新されていなければ、何が神のみこころであるかを知ることはかないません。その場合、完全な救いを経験することもあり得ないでしょう。それでもなお、神は私たちが今いる場所に救い上げただけではなく、さらに救いを続けて、完璧なところへ導いてくれます。まさにこのことを、私たちは待ち望み、神に感謝しなければならないのです。

2015年8月22日土曜日

8月22日

なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである[ヘブル8:12]

なんとも残念なことですが、私たちはいつも、神が覚えているものを忘れ、また、神が忘れたものを覚えています。こんな風に考え込んでばかりいる人々がいます。私はこれほど多くの恐ろしい罪を犯したのに、神は本当に許してくれるのだろうか?神は、本当にそれを思い出さないのだろうか?また、こう思う人もいるかもしれません。神が罪を消したとしても、間違いなく残っている傷跡を見て、自分がどれほどの罪人であったか、神はいつまでも思い起こすのではないだろうか?

今も過去の罪に悩まされ、その良心が休まることがない人がいたら、ぜひ、この聖歌を歌いましょう。その人が、心の中でアーメンと応えることができるまで。

なぜ私は悩み、疑い、また怖れるのだろう?

神はその御子に負わせたのではなかったか、

私の罪を、あの木の上で?

キリストが私のために支払った債務、

神がそのみ心を変えて

私に再び償わせることなどあろうか?

2015年8月21日金曜日

8月21日

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました[エペソ1:22]

主にこう言ったことがありますか、『主よ、あなたは私のかしらです。私には何かを決定する権利も、自分で何かを選ぶ権威すらありません。どうか私が、自分のかしらになろうとは決して考えませんように』と。神の命令を受け入れるにはどうすればよいか、一人ひとりが学ばなければいけません。すなわち、キリストがかしらであり、自分の意思に従ってはいけないのです。主によって支配され、主に降伏する。これがすべてのクリスチャンにとって、基本的な経験となるべきです。

パウロが改心した際の経験を見てみましょう。ダマスコに向かう途中、主が彼の周りを照らしました。そして、彼は尋ねました、『主よ、あなたはどなたですか?』(使徒9:5)。パウロは先ず、イエスを主として見て、その後で、イエスが救い主であると信じたのです。ああ、私たちは誰もが、心からこう言えるようにならなければなりません、『主よ、私は完成しました。これから後、私を指図するのはあなたです。あなたは主であられますから。』

2015年8月20日木曜日

8月20日

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい[1コリント10:12]

はっきり言いますが、神から学び、一瞬一瞬を神に信頼する以外に、清められた生活を送る方法を私は知りません。主により頼まなければ、どれだけ主とともに進めるかを知ることはできません。神に依存しなければ、何もできず、キリスト者として生きることすら、一日たりとも、かなわないのです。私たちは本当に今、そうに感じていますか?私たちは、どこでも惨めに打ち負かされますが、それは、神の恵みを受けるためではなかったでしょう?私たちはいつも、神のみ前に、怖れに震えながらひれ伏し、神の恵みを乞わねばなりません。

2015年8月19日水曜日

8月19日

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった[創世記1:31]

神は決して悪い物を造られることはありません。悪いものはすべて罪から来ており、神が創造されたものではないのです。この悪に染まった世界に住む我々は、神に不満を述べるべきではありません。神の中に悪はなく、創造主の御腕から何か悪いものが作られたことは一度もないからです。逆に、神は人類をこれ以上できないほど優しく、扱ってくださいました。神は三日目に人間の食べ物として葉と草を用意されました。私たちを造る前に、神はすべての環境を整えられました。この優しい御手に本当に触れるなら、どれだけ慰めとなることでしょう!神は常に、ご自分で造られた者のためにすべてを用意されます。草を作られる前に、神は地面を作られました。動物を作る前に、神は植物を創られました。私たちは時に、神とその優しさを見失って、恐怖に陥ります。しかし、信仰のあるものはなんと恵まれていることでしょう!何者もその心を揺り動かすことはできないのです。

2015年8月18日火曜日

8月18日

そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです[ヘブル6:17]

聖書は、神の契約とは神の約束であることを教えてくれます。ただし、神の約束とは神が言われることであり、これに対し、神の契約とはそこに宣誓による誓約が入ります。約束が神との結びつきであれば、契約はより強固な結びつきと言えます。

神の恵みを深く学び、神をよく知ったものにとって、神の約束と神の契約は大きく違うものではありません。そのような人は、神が義であるように、神が真実な方であることを知っているからです。そのような人は、神が約束されたことなら、必ず成されることを信じています。神の約束は、契約書に書き留める必要などないのです。彼らは神の約束を、神の契約と同じく有効なものと見なしています。しかし、信仰の弱い者にとって、神の契約は、神の約束とは極めて異なるものです。契約によって、約束の履行が保証されると考えるからです。

2015年8月17日月曜日

8月17日

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした[詩篇32:5]

罪を犯して、悲しみを覚える人はどのくらいいるでしょう?悲しみを感じない人がいたら、その人たちは罪の告白という点で失敗しています。しかし、もしクリスチャンが、その罪を告白して、神と人の前に明らかにしたなら、その人は目の前に敷かれた道を迷うことなく進んで行けるでしょう。彼は他のクリスチャンより早く歩むはずです。多くの信者が罪に対してあまりに鈍感なのは、悲しいことです。人々が罪を犯した後で、ぐっすり眠っていたり、よく食べているのを見て驚くことがあります。われらの神は罪を憎んでいます。私が罪を憎むのは体面を守ったり、その結果を怖れるからではなく、神のためです。罪に対する感覚を研ぎ澄ますために、クリスチャンは自分の罪を告白しましょう。少なくともこれだけは確かです。罪を告白することで、より罪を憎むことになります。

2015年8月16日日曜日

8月16日

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます[ヨハネ12:24]

ここに主イエス様は実を結ぶための原理を示されます。一粒の麦が蒔かれたなら、豊かな実を結ぶために、必ず死ななければならないのです。すなわち、死は実を結ぶために必要不可欠な過程ということになります。これが示す事実は、死が実を結ぶためのただひとつの道であるということです。多くの実を結ぶために大きな力をくださいと主に願うと、主は私たちに死ななければならないと言われます。私たちが、聖霊の力を欲するなら、十字架を経験しなければならないとも言われます。何故でしょう。五旬節を成し遂げようと試みる中で、私たちはいつも、十字架への道を避けてしまいます。自分が十字架にかけられて、持てるすべてのものをふさわしい方に返さない限り、聖霊が私たちとともに働いて多くの人々を導くことはできないことに気づかないのです。ここに霊的な原理があります。まず、死に、それから実を結びなさい。

2015年8月15日土曜日

8月15日

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから[詩篇23:4]

初めて自分が救われた日よりも、今日のほうが喜びが大きいと言えるクリスチャンがいるでしょうか?私たち信者の心はどれほど悩みに満ちているでしょう!私たちは自分が罪を犯し、打ち負かされたと感じています。私たちは、初めて救われたときのような喜びを感じてはいません。とはいえ、実際のところ、心の渇きは、必ずしも精神的な衰弱を意味するものではありません。

次のように説明してみたいと思います。無くした時計を見つけたら、この上もなく幸せに感じることでしょう。でも、それから数日すれば、初めに時計を見つけたときの浮かれた気持ちはなくなってゆきます。そしておそらく、更に、何日か経てば、喜びは完全に消えてしまうでしょう。しかし、そのときには、時計がまた無くなったわけではないのです。では、何が起こったのでしょうか?簡単なことです。無くなったものは、今度は腕時計ではなく、初めに時計を見つけたときの喜びなのです!私たちが気づかなければならないのはここです。信者のよろこびに満ちていた気持ちは消えても、その喜びを与えてくれたものは決して無くなることはないのです。

2015年8月14日金曜日

8月14日

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです[ピリピ2:8]

神を神と認めるものは誰でも、人になるすべを学びます。堕落していたとき、私たちは自分が神になりたいという誘惑に駆られましたが、解放を受けたとき、私たちには人間になる備えができています。エデンの園の本質は、善と悪の知恵の木の実を食べることによって、『あなたがたが神のようになる』(創世記3:5)ことです。これに対し十字架の意義は私たちを人間本来の位置に戻すことにあります。

私たちの主が大工の家に生まれた理由は人間となるためです。主がヨハネの洗礼を受けたのも同じく人間となるためでした。また、主は3度にわたって悪魔の誘惑を退けられましたが、これもまた人間となることが目的でした(マタイ4:1-10)。主『ご自身が試みを受けて苦しまれた』(ヘブル2:18)と言う事実は、主が人間であったことの証拠です。これらすべてが主に関して真実であるなら、私たちはもっと人間であるべきなのではないでしょうか!

2015年8月13日木曜日

8月13日

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです[エペソ4:4]

誰もが経験することですが、肉体の弱さなどの理由から、どうしても、年に1~2日は、いつものように祈り、聖書を読むことができない日があります。何か大事なものが欠落してしまって、打ち負かされ、倒れ伏すしかないためでしょうか?決して、そうではありません。驚くべきことに、たとえば、ある週の月曜日には、むしろ神の近くにいると感じ、火曜から金曜にはとても恵まれた気分で過ごすことができたのに、土曜日には、祈り、聖書を読むと言った、当然のことができない場合があるのです。おそらく、疲れているためです。だからと言って、必ずしも土曜につまづき倒れたり、金曜より悪くなってしまうとは限りません。まことに不思議なことに、何かの力が私を支えてくれ、その日を切り抜けられるのです。では、このような助けがあるのは何故でしょう?それはキリストのみからだから、命が補われるからではないでしょうか?気づかないところで、体のほかの部分が祈り、神に対してそのすべての子供たちに恵みを与えてくださるように求めています。命が他の部分から自分のほうへと流れてくるからこそ、私たちは立ち上がることができるのです。

2015年8月12日水曜日

8月12日

また彼に仰せられた。わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。[創世記15:7]

アブラハムはこの約束を信じたでしょうか?彼の器はそこまで大きくなかったのです。彼はこう尋ねて、疑いを言葉に出してしまいました、『神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか?』この約束は、大きすぎてアブラハムの信仰ではとても理解できなかったので、彼は信用に足る証拠を示してくれるよう、神に頼みました。

契約を結ぶことはアブラハムの信仰を増し強めるために神がとった手段でした。神は、自分が行うことについて、約束しただけにとどまらず、アブラハムと契約を結んだのです(18節)。こうして、アブラハムも信じることができたのでした。契約を結んだことで、神はその契約どおりに働くしかなくなりました。そうしなければ、不誠実、不公正、不法となってしまうからです。このような契約に守られて、アブラハムの信仰の器は自然と大きさを増したのでした。

2015年8月11日火曜日

8月11日

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます[マタイ7:7]

祈りはなんのために行われるのでしょうか?神は全知だけでなく、全能でもあられるのではないでしょうか?では、なぜ神は、私たちが祈るまで待って、働きを始めなければならないのでしょう?既にすべてを知っておられるはずの神に、あらためて伝える必要があるのは何故でしょう(ピリピ4:6)?全能でありながら、なぜ神は直ちに、働かれないのでしょうか?

このような疑問を呈することで、私たちは、祈りが大切な奥義であることが分かってきます。ここに、神の働きの原理が見られます。それは、神ご自身が立ち上がって働かれるためには、神の民は、祈らなければならないと言うことです。主の御心は、主に属する者の祈りを通して初めて理解できます。信者の祈りは御心を成し遂げるために行われるものです。神は、ご自身だけではその御心を満たすことはできません。主の働きは、民が祈りの中で主への思いを現してから始まるのです。

2015年8月10日月曜日

8月10日

このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません[マタイ24:2]

なぜ、主はここで、それほど美しい宮が、イスラエルの子孫の手に渡る前に荒れ果ててしまうなどと言われるのでしょう?それは宮の栄光が、金銀財宝ではなく、主の臨在にあるからです。世界中の金や宝物を集めた宮であっても、主がいなければ、それがなんの役に立つでしょう?こう言った物が遺されて、人々がそれに心を奪われることがあってはならないのです。神の宮である私たちは、神が真に臨在されているのでなければ、外見を取り繕っているにすぎないことに注意しましょう。

2015年8月9日日曜日

8月9日

主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように[詩篇41:3]

私たちの体が病み、弱められることを神が許されるのは、次の点を学ぶためです、(1)夜の間に祈る、(2)屋根にとまったスズメのように見る、(3)主がどのように私たちを床に着けてくださるかを知る、(4)罪を負う、(5)静かな心で待つ、(6)主の着物のふさにさわる、(7)神がみ言葉を送って私たちを癒すことを知る、(8)神が病によって私たちを使い良き器とするさまを見定める、(9)聖なるものこそが癒しであることを知る、そして、(10)自分の弱さ、病と死を克服する中で主のよみがえりの力を体験する。神のおかげで、私たちは病を通して、信じ、信頼し、かつ従うことを学びます。こうして、キリストが私たちの生活の中でもっとも大きな位置を占めることになります。

2015年8月8日土曜日

8月8日

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました[エペソ2:6]

主に仕えるようになったばかりの頃、主が自分をともによみがえらせてくれるよう祈ったことを思い出します。その当時、私は、主がご自身とともに生き返らせてくれるなら、自分に、神の御心を実行する力が与えられると考えていたのです。このような祈りは間違っていました。自分自身から出たものだったからです。すべてはキリストとともに始まります。聖書は言っています、私はキリストとともによみがえらされた、と。これは既に成された事実です。覚えておきましょう。私たちは、自分自身の方を見ればそれだけ、悪くなるのです。

今、私はこう言うことができます、『主よ、あなたがすでによみがえられたこと、私もあなたとともに生き返ったことに感謝します』。私たちは先ず、自分が死者の中からよみがえった事実を信じる必要があります。とは言え、私はどのようにして生き返るのでしょう?自分が復活したと感じるからですか?そうではありません。私を生き返らせたのはキリストです。

2015年8月7日金曜日

8月7日

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです[2コリント4:10]

私たちは、いのちの通る管なのですから、何者にも押し止められてはいけません。そうなれば、詰まった管の中を水が流れないのと同じで、神の命が私たちの中を通ってゆくことができないからです。十字架の働きによって、私たちは開かれます。他の人たちも聖霊の命を受けることができるように、アダムから来たあらゆるものを捨て去り、、自然の秩序を排除するためです。聖霊に満たされることによって、私たちの霊は常に、キリストの十字架を負うことができます。そして、一度聖霊に満たされたら、十字架のいのちを持つことによって、私たちは神の御霊に用いられ、自分たちの中から、周囲の人々へと、同じ十字架のいのちを放つことになるのです。私たちは、自ずと会話や人とのやり取りの中で、いのちを広めることになります。個人的な会話の中でも、公の場でも、こうして私たちは触れ合う誰をも豊かにするのです。