2015年3月28日土曜日

3月28日

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです[1コリント12:26]

例えとして、誰かが体に義足を取り付けていたら、と考えてみましょう。実際、本物の足とまったく同じように見えるかもしれませんが、それでも、そこには命はありません。したがって、それは身体に帰属すると言う意識は持っていません。他の部分が痛みを感じるときも、この義足は何も感じないからです。他の部分が喜んでいるときも、義足はなんの高揚も感じていないのです。他の身体の部分は同じ意識を持っています。どれも、ただひとつのいのちを共有しているからです。

いのちを模倣することできません。そうする必要もありません。いのちが存在するなら、そのように装う必要はないし、いのちが存在しないところで、存在するかのように振舞うことは不可能です。肉体のいのちを見るクリスチャンは、常に、キリストの体の部分をなす者たちと身体を共有することを意識しています。

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