2015年3月31日火曜日

3月31日

御霊の実は、愛、喜び、平安…[ガラテヤ5:22]

御霊—これはキリスト者の証人を表しています—の実について考えると、すぐにわかることですが、これらはみな、無私の行為にほかなりません。愛とは何でしょう?愛は自己のことを考えずに他者を愛することです。喜びとは何でしょう?それは自分ではなく、神を見つめることです。寛容とは、自分自身の苦難をいとわないことです。平安とは自分の損失を問題にしないことです。親切とは、自分のもつ権利を気にかけないことです。善意とは、自分の利益を忘れることです。自制とは自己をコントロールすることです。誠実とは自我を抑えることです。クリスチャンの美徳と言われるものをすべてを調べてみると、すぐに分かるでしょう。自我から離れ去る、または、自己をいつも忘れ去ることがなければ、信者はなにひとつ美徳も持つことはできません。御霊の実は、たったひとつの原則で決まります。それは、完全に自己を亡くすことです。

2015年3月30日月曜日

3月30日

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された[ルカ18:1]

私たちの神は、進んで祈りに答えてくれないことが多いという、誤った考え方を捨て去る必要があります。絶え間なく祈るということは、ただはっきりと神の必要を認めて、祈り続けることを意味します。なぜ、主はすぐに答えないのでしょう?なぜ主の沈黙の日々は、いつまでも続くのでしょう?少なくとも次の二つの理由があります。(a)神は、御自信が心配している事柄、深く心を寄せておられる事に関して、人々が心をひとつにして立ち向かうことを求めています。(b)時に、その問題や環境によっては、継続して祈り続けることが求められます。サタンは強固な砦を打ち立てており、いっそう激しく祈り続けて、それを打ち破ることが必要なのです。

2015年3月29日日曜日

3月29日

私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう[士師記16:17]

サムソンは力に満ちた男でした。力の源は彼の髪にありました。そして、髪を剃られるやいなや、サムソンの力は失われました。髪には、これほど彼を強くする何かがあったのでしょうか?サムソンのこの髪は、ナジル人の髪だったことを、私たちは忘れてはなりません。そして、聖書の時代、ナジル人は神に徹底して聖別した民でした。それゆえ、真にあらゆる霊的な力が、主への聖別の度合いに応じて与えられていました。私たちの聖別が表面的なものであれば、まったく力を出せず、体が麻痺した人のようになってしまうことでしょう。神への聖別が絶対的なものであれば、私たちには力が与えられるでしょう。したがって、どのように、また、どこで求めるにせよ、このことを絶えず意識していなくてはいけません。すなわち、力を受けるには人間の聖別が条件であることを。

2015年3月28日土曜日

3月28日

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです[1コリント12:26]

例えとして、誰かが体に義足を取り付けていたら、と考えてみましょう。実際、本物の足とまったく同じように見えるかもしれませんが、それでも、そこには命はありません。したがって、それは身体に帰属すると言う意識は持っていません。他の部分が痛みを感じるときも、この義足は何も感じないからです。他の部分が喜んでいるときも、義足はなんの高揚も感じていないのです。他の身体の部分は同じ意識を持っています。どれも、ただひとつのいのちを共有しているからです。

いのちを模倣することできません。そうする必要もありません。いのちが存在するなら、そのように装う必要はないし、いのちが存在しないところで、存在するかのように振舞うことは不可能です。肉体のいのちを見るクリスチャンは、常に、キリストの体の部分をなす者たちと身体を共有することを意識しています。

2015年3月27日金曜日

3月27日

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです[2コリント4:6]

神の霊、神の言葉の第一の仕事は、闇の中に光を送ることです。罪はとても人の心を暗くしたので、もし一人で放っておかれたら、自分のことを知ることはできません。自分のいる場所がどれほど危険か、また、その未来には破滅が待っていることに気付かないのです。霊的に見れば、彼が完全な暗闇の中にいるのは、自分には救い主が必要であることを知らないからです。彼に愛があっても、自分で理由を考えても、光はまったく与えられません。しかし、ここに今は神の光が当てられます。それがこの人の心を照らします。その光は実に破滅的な状況に対して当てられ、被造物の堕落しきった状態を曝け出します。闇が払いのけられたこと以外は、何も変わっていません。光の下に明らかにされた何ものも神の心を満足させることはできません。それでも、神の光が以前は暗かった世界を照らしたように、神のキリストは今、罪人の暗い心を照らしています。

2015年3月26日木曜日

3月26日

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです[第2コリント4:7]

土の器の中に大した物は入っていないとは考えないでください。これはパウロが、私たちの肉体を現すために使ったたとえです。パウロからコリントの信者へ宛てた第2の手紙から次のことが分かります、私たちの土の器の中には、持ちきれないほどの宝が詰まっているのです。しかし、私たちは本当にそれを信じていますか?

神の子供たちは、新しく生まれ変わった瞬間に自分が何を得たのかを、知っておくべきです。主を受け、生まれ変わるには一分とかからなかったかも知れませんが、その貴重な瞬間に一人ひとりが受けたものを発見するには、それから30年も40年もかかるのです。神の子は誰も、新生の瞬間に神が下さったものが、如何に大きいか、この世では知り尽くすことはできません。それでもなお、何かを感じ、知っているものは幸いです。

2015年3月25日水曜日

3月25日

その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す[出エジプト記25:14]

箱の4本の足には4個の黄金の環が付いており、アカシアの木を金で覆った棒を環に通して、箱を運ぶようになっていました。棒は箱の環に通してまま残され、そこから取り除くことは許されません。これは、箱がいつでも持ち出される可能性があったことを意味しています。箱には二つの用途がありました、ひとつは、これは礼拝の中心であり、神と人間が出会うすべての場所の中でもっとも神聖なところに置かれていたのです。神を礼拝したいと望むものであれば、誰でも箱の前に行かなければならず、この箱無しでは礼拝は不可能だったからです。一方で、箱は神の人々への導き手として用いられました。箱が先頭を行き、イスラエルの人々が後を追ったのです。彼らは自分で行きたいところ、どこへでも行けたわけでありません。先頭で導く箱の後を付いていくよう求められたのです。これは、キリストが私たちの前で行く手を導いてくれることを象徴しているように見えます。

2015年3月24日火曜日

3月24日

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした[第1コリント2:1]

私たちの誰もが、何かの天賦の才能を持っています。多くの才能を持つ者も、少ししかない者もいます。人間は、まず、生まれた時に与えられた才能に頼って、自分が経験した十字架を説明しようとする傾向があります。聴衆が同じ見方を受け入れ、同じ経験を共有してくれるに違いないと、希望してしまいます。しかし、どうしたものか、皆は冷たく、受け止めてくれない、期待通りに決してなりません。私たちは、自分が十字架の経験において、まだまだ若い者であること、また、生まれつきのよい才能はキリストともに死ななければならないことに気付いていません。私たちは、生まれつきの能力に頼ってなされた働きは人間を一時、喜ばせることしかできず、精霊の実際のはたらきを魂に伝えることはできないことを見出さなくてはならない。それができなければ、私たちが持っているすばらしい天賦の才能はまったく役に立たないものであり、また、より偉大な神の力を求めることがどれほど必要かを、本当に認識することはできません。

2015年3月23日月曜日

3月23日

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。神よ。私はほかの人々のよう…な者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します[ルカ18:11]

このパリサイ人は、自分の正しさを信じていただけではありません。主イエスは、さらに、この男を『自分を高くするもの(14節)』と呼んでいます。自分を高くするものはみな、地獄へ行きます。私は福音を述べ伝える説教師です。そして、こう言わざるうを得ません。何年もの間、こうして伝道してきましたが、自分に誇りを持つものが救われたところを見たことがありません。誰でも、救われたいと望むなら、自分はどうしようもない罪人であると認めなくてはなりません。人間は、自分を救うことはできず、自分自身に寄り頼むこともできません。こう告白しなければなりません、地獄こそ自分にふさわしい場所です、と。そして、キリストの十字架の下にひれ伏すこと—恵みを乞い、自分のために十字架で身を捧げたナザレのイエスを信じることが必要です。こうしてどこまでも、へりくだることです!謙虚さがなければ、これができるでしょうか?この世では、主イエスを救い主として信じること以上に、謙虚さが求められることはないのです。

2015年3月22日日曜日

3月22日

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です[ローマ8:6]

人間のいのちが一瞬たりとも遮られることできないのと同じで、そうでなくても、精霊にもらった力は常に新しくされ、与え続けなければなりません。ある時に、神の御霊が成されることは、他の時にいつもされることとは、違うこともあります。神と触れ合うたびに、いつも新鮮な力を与えてくれます。精霊と私たちの語らいは、いつも同じものではないのです。

たとえば、他の人の霊的な経験を聞くとき、それをそのまま、同じことをしてみようと考えるのは自然なことです。神はきっと、同じように導いてくれるし、同じ結果を与えてくださるに違いないと思ってしまいます。こうして、失望することがなんと多いことでしょう。神は、私たちをしょっちゅう失望させなければ行けないのです。私たちが精霊に直接、頼ることによって主を求めるためです。

2015年3月21日土曜日

3月21日

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい[マタイ5:48]

クリスチャンのために聖書の中で定められた生活の規範を、私たちはもちろん、よく知っています。キリストに従うからには、私たちは自分自身の思いに従うべきではなく、神が正しくあるように、自分も正しくあり、ただひたすらな心で神の国を求めるべきなのです。しかし、私たちは現実にそのように生きているでしょうか?どれほど、多くの罪を犯すでしょうか?いつも、私たちの心は穢れ、すぐに気持ちを高ぶらせてしまうのではないでしょうか?

言葉を換えれば、私たちには、そうであるべきことができていないのです。しかし、同時に、私たちはキリストが完全を成してくださったことを知っています。これら全てがある事実を示しています。神ご自身だけが、ご自分が定めた模範的な生活を生きることができると言うことです。別の見方をすれば、ある種の生活をそのまま、自分が生きようとすれば、すっかりその人生を生きるしかないとも言えます。例えば、鳥だけが鳥の一生を送ることができ、動物だけが動物の生涯を送ることができます。ですから、正確に言えば、神の生活を送ることができるのは神だけなのです。そして、キリストは神ですから、キリストだけが神と同じ種類の生活を送ることができるのです。

2015年3月20日金曜日

3月20日

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです[1ヨハネ4:19]

愛とは強制されるものではありません。私たちが神を愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。私たちが神を愛するほど、近くへと引き寄せられます。神に近づくほど、より良く神を知ることができます。そして、神をよりよく知るほど、神をより愛し、神を渇き求めます。神の聖者はかつてこう言いました、『神が私たちに下さった心は、実に大きなもので、それを満たすことができるのは神ご自身のみである』と。私たちは自分の心の小ささを嘆くこともあります。それでも、神を一度、味わった者なら誰もが、神が下さった心の大きさを証しするはずです。その心はあまりに大きなもので神以外のものによっては決して満たされない、神だけがその心を満たすことができると!それでは、どれだけ、私たちの心は神を思い慕っているでしょうか?

2015年3月19日木曜日

3月19日

まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです[1コリント1:31]

私たちが信じるようになった数多くの真実の中で、もっとも高いところにあるのは、私たちが『キリストにある』と言う事実です。ここには主にあがなわれたものだけが入れると、新約聖書は教えています。これより高いところにどのような真実もあり得えないのは、罪の許しがキリストにあり、義認がキリストにあり、聖別もまたキリストにあるからです。すべての霊的な恵みはキリストにあります。すべては主にあります。ですから、私たちがキリストの中に置かれたことは、私たちが受けるどのような恵みよりも高いところにあります。神が私たちに下さるものは、御子の中にあります。

2015年3月18日水曜日

3月18日

神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木…[創世記2:9]

いのちの木とは、神のいのち、まだ創造されていない神のいのちの表れです。アダムは創造されたものであり、この創造されていないいのちを持っていません。この時点で、罪は犯していませんでしたが、それでもなお、神の清いいのちを受けていない彼ははまだ、生まれたままです。神の目的は、アダムが彼自身の意思でいのちの木から実を取り、神の生活を送り、神と交わることでした。これにより、アダムは神に造られたものから、神から生まれたものともなるなるはずでした。神がアダムに求めたものはただ、造られたままの自然のいのちを否定し、神のいのちに入り、これによって、日々を神のいのちによって生きることでした。これが、いのちの木の意味です。主はアダムに、元からあったままのものと違ういのちを生きて欲しかったのです。

2015年3月17日火曜日

3月17日

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから[黙示録4:11]

神が最初の人間を作られた時、彼に自由な意思を与えられました。このことから、宇宙には3つの異なった意思があることになります。すなわち、神の意思、敵であるサタンの意思、そして、人間の意志です。人は主がなぜ、サタンをこの瞬間に打ち砕かないのか、不思議に思うかもしれません。主には可能ですが、まだそうされていません。何故でしょう?人間が主に協力して、サタンに対処して欲しいからです。今、神にはご自信の意思があり、サタンにもあり、人間にも自分の意思があります。神は、人間の意志が自分とひとつになることを求めておられます。主は、サタンを決して自分ひとりで打ち滅ぼすことはしません。私たちには、神が何故このような形を選んでいるのか、完全に理解することはできませんが、こうされることを喜んでいることは分かります。すなわち、主は自分ひとりですべてを行わず、ともに働ける人間を探しておられます。これが地上の教会に与えられた責任です。

2015年3月16日月曜日

3月16日

そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません[エペソ4:17]

心の空しさは、よく空中に城を建てるようなものと例えられます。これは無意味な考えです。このような人の心は、ある種の空虚な考えでいっぱいになっています。ある男性が牧師の説教の最後を締めるお祈りをするように頼まれました。そんな時、彼は自分の52連のお金のことを祈らずにいられなくなりました(この頃の中国では、硬貨は紐に通して縛っておきました)。この男の心は、金に関する空虚な思いで占められていたのです。では、どうすれば神のいのちを解放できるでしょう?この例で言えば、人、ものや出来事はそれぞれがある種の空虚な思いとなって、私たちの心を占領してしまうことが分かります。私たちの心が空虚な思いに奪われている時はいつでも、神のいのちは圧しとどめられているのです。

2015年3月15日日曜日

3月15日

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われることになるからです[2コリント 5:10]

主を信じたときから、私たちがすること、しないこと全てはいずれ、報いを受けるときが来ます。ここで言う報いは救いとは何の関係もありません。私たちの歩み(1コリント3:10-15を参照)、話すこと、考えることでさえ、さばきの座で明らかにされるのです。私たちの失敗が血潮で清められていたら、それは既に裁かれており、思い出されることはありません。しかし、悔い改めておらず、血潮のもとに清められていなければ、どこかで清算を受けることになります。ですから、自分を裁くことを学びましょう。神の恵みと愛は子羊の血潮の中に明らかにされます。その一方で、主の正しさと清さはキリストのさばきの座で示されます。私たちの穢れが見逃されることは決してないのです。

2015年3月14日土曜日

3月14日

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい[マタイ20:25-26]

教会は、国家のように、支配者や偉大な統治者に治められているわけではありません。『あなたがたはみな兄弟(マタイ23:8)』だからです。宗教によって上下の区別が作られるのは、聖書に反するだけでなく、主の命令を犯しています。霊的に人々を指導したり、教育することは許されますが、地位を根拠として人を支配することは絶対に認められません。聖書に現れる司祭、長老、牧師、教師などは、あくまで霊的に定められたものです。私たちは、誠実に主に仕え、主のみを喜ばせることを求めなければなりません。奉仕を通じて、より高い位置に行こうと考えるのは罪です。

2015年3月13日金曜日

3月13日

イエスは言われた。あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるかを、知るようになります[ヨハネ8:28]

私たちは本当にハレルヤを大声で叫ばなければいけません。イエス様は『今ここにおられる!』のですから。クリスチャンは『今ここにおられる』キリストと交わりを持っています。皆、このキリストと会話を交わしているのです、彼らは、今そこにおられる神と関わっています。このおかげで全ての霊的なことがらは、『今ここにいる』クリスチャンのために存在します。

あなたは、いつも、重荷、試練や問題を抱えているでしょうか?そのために、神に祈っても、まったく平安を得られないと感じているのですね。祈れば祈るほど、問題はいっそう複雑になっていき、どれだけ祈っても助けは得られないように思えてきます。あなたは、祈るときに間違った側に立ち続けていたことに気づかなくてはいけません。神に性急に祈りを押し付けてきたのです。あなたは、すぐに何かが起こることを待ち続けていましたが、まだ、何も起こっていません。むしろ、未来と今日をひとつにできることを神に感謝しましょう。神にお願いしましょう、私たちの主こそが『今ここにおられる』神であることを理解できますように、これを理解できた誰もが主と交わる奥義に触れることができるように。

2015年3月12日木曜日

3月12日

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい[ヘブル12:2]

私たちは、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで』いることが必要です。原語によればこれは、『目をそらしてイエスの方を見る』とも訳せるそうです。つまり、周りを取り囲むどんなものにも目を向けず、イエス様だけを見なさいと言う意味です。イエス様だけを見て、他の何物も見ないのです。主を見ることによって、私たちはまっすぐな道を走ることができます。私たちの周りにはたくさんのものがあって、簡単に注意を奪われ、目的地の方角から逸れてしまいます。目をそらしてイエス様のみを見ることで初めて、神へ向かうコースを走り続けることができるのです。

2015年3月11日水曜日

3月11日

また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、…イエスが天から来られるのを待ち望むようになったか[1テサロニケ1:10]

ある兄弟が、救われた最初の年、長い時間を費やして聖書を調べました。彼はとりわけ、主の再臨について詳しく学びました。主の再来にまつわる出来事をいろいろと研究しました。それにより、彼は自分を誇らしく思うようになりました。ある日、彼は主との間に深い交わりを経験した姉妹と出会いました。彼らは再臨について、語り合いました。彼女は、しかし、その兄弟のような勉強はしていませんでした。彼女が強調したのは、どのように主の再来を待つかと言うことでした。その日、その兄弟は深い教訓を学びました。彼は、主イエス様の再臨について語る者でしたが、ここに主に再来を待ち続ける別の者がいたのです。イエス様の再臨を言葉のみで語る者は貧しく、主の再来を待つものはまことに富んでいます。

2015年3月10日火曜日

3月10日

だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです[ルカ5:36]

聖書は、私たちに自分を改善するようにとは語っていません。主が、それを既にすべて成されたからです。イエス・キリストは、私たちの罪を十字架で負われました。そしてそこでこう言われました、『完了した』。主が、御自分の働きを完了されたからには、行わなければいけないことは何一つ残されていません。今日、次のことを告白する以外、何もする必要はありません、それは、私たちの下着が裂かれていること、私たちは腐敗し、何も良いことをできないことです。また、主に新しい下着をくださるよう頼むことです。しかし、もしあなたが良いことをしたいと思えば、それを何度も何度も何度も繰り返して望まなければいけません。主が一度だけで完成してくださったあがないを信じる以外には、救いに至る道は無いことを知るべきです。

2015年3月9日月曜日

3月9日

愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた[マタイ25:3-4]

その時、ランプの中に何があったかはさておき、愚かな娘たちは、油を用意しておきませんでした。賢い娘たちは入れ物に余分な油を持っていました。ランプの中の油は精霊をさすもので、それは生まれかわったすべての人の中に住んでいます。クリスチャンは、なり立ての者であっても、その中に精霊が住んでいるのです。

しかし、入れ物の中の油は、中に精霊が住んでいること以上の意味を持っています。それは、精霊に満たされることを語っています。中に住む御霊は、新生の時に受けるものです。生まれかわった後も、欠かさず求め続けることで、御霊に満たされることができます。一人ひとりの信者は御霊を持っていますが、全員が御霊に満たされているわけではありません。他の人から見て、私たちが倍以上の油を持っているか、分からないかも知れませんし、今日、この時は確かに、大きな問題もなく生きていけるでしょうが、来たるべき日には、知られてしまうことでしょう。私たちは、代価を払うことを望んでいるでしょうか?

2015年3月8日日曜日

3月8日

また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません[ヤコブ1:22]

私たちは良く、『実行する』と言う言葉を誤解します。これを神の言葉を聞き、知った後では、全力を尽くして、聞き知ったことを実行に移すよう試みなければいけないと言う意味に取ってしまいます。しかし、これは聖書で言う『実行する』の意味と違います。確かに、聞いたことを行おうと言う意思を持つ必要があるのは間違いありません。しかし、聖書の『実行する』は自分自身の力で行うことではないのです。それは、聖霊が私たちを通して、私たちが知っている主のみ言葉を実現させることです。それは、いのちの形であって、働きのかたちではありません。いのちがあれば、ごく自然に働きもなすことになります。しかし、少しばかりの働きをしたからといって、聖書でいう『実行』を満たしたとはみなされません。私たちの意志を、いのちにおいて聖霊と一致して働かせ、これによって自分が知っていることを実現できなければなりません。

2015年3月7日土曜日

3月7日

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい[マルコ8:34]

私たちは、十字架の道がどのようなものか知りません。自分たちの人生に入り込んでくるものは全て、神が許されていることが分かっていません。私たちの意思に反するもの、誤解されてしまう原因、私たちを苦しめ、行く手をふさぎ、希望を断ち切るものは何であれ、神が私たちに下さった十字架なのです。では、こういったものに、どのように立ち向かえばいいでしょう?心の中で抵抗しますか?人に不満を漏らしますか?何とかこの困難から抜け出せたらと願いますか?

私たちの上に、十字架が落ちかかることを、神が許される時はいつでも、何かの理由があります。十字架はひとつひとつが、霊的な使命を持っています。すなわち、私たちの人生において、特別な何かを成し遂げるために送られたのです。もし、主イエス様が十字架に耐えたように(ただし、私たちと違って、主の十字架は罪を償うためだったことには注意しましょう)、私たちも御心によって耐えることができれば、私たちのいのちはいっそう大切に扱われ、私たちはより大きな力を持って、御子の復活の命で満たされるはずです。

2015年3月6日金曜日

3月6日

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています[ローマ6:6]

ここで言う罪とは人間の内側を支配する罪の性質をさしています。古い人とは、罪を聞くことに喜びを見出す自分自身のことを言っています。そして、罪のからだとは、罪のあやつり人形である私たちの体を意味し、それは実際に罪を犯します。かくして、罪は私たちの内側を主のように支配します。罪は古い人を操って、罪のからだへと向かわせます。古い人とはアダムから来た全てのものを表しています。古い人は自ずと罪に傾きます。つい罪の方へと、自分のからだの舵を切ってしまう人です。私たちが罪を犯さないようにするために、中にある罪の根源を根こそぎ滅ぼしてしまえばよいと言った人がいます。また、外なるからだを、ぎりぎりまで抑制するべきであると考える人もいます。しかし、神のやり方は人間とは完全に違います。神は、罪を根絶やしにすることもなく、からだを厳しく扱うこともしません。違うかたちで、古い人に対処してくれます。『私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた』のです。

2015年3月5日木曜日

3月5日

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません[1コリント12:21]

主は御自身の働きをすべての者に配分され、一人ひとりが自分の分を受けます。自分自身を必要以上に、大きな価値あるものと思ってはいけません。われわれは、主が一人ひとりに下さった部分に対して、誠実であるべきですが、同時に他の人に与えられる受け分にも敬意を払うべきです。若い人の多くは競争するような態度をとり、いつも、自分が持つ何かを他の人が持っていないものと比較したり、彼らが持っていないものをまた他者が持つものと比較したりします。実際、そんな比較は愚かなものです。椅子ひとつとテーブルひとつの数を足し合わせることができるでしょうか?答えは1ですか?2ですか?テーブル1足す椅子1は、ただ、テーブル1と椅子1なのです。手と目、どっちがよいかと訊かれたら、手も目も両方ともよいとしか応えようはないでしょう。キリストの体を見たものは、誰でも、全ての部分の機能を認めます。そのような人は自分を、たくさんの構成要素のただひとつとして見ます。自分自身が特別な場所にいるかのように思い込んで、他の人より上にあるかのように比較したり、他の人の場所を占領したりすることはしません。

2015年3月4日水曜日

3月4日

そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った[マタイ3:1]

ヨハネの働きの大切な点は、われらの主の働きとは違っています。ヨハネは悔い改めを重視しましたが、これは、主の道を備えるために遣わされたからです。このために、彼は、この世界で主とは異なる場所に立っているのです。

ヨハネは荒野を自分の家としましたが、主は、町を自分の宿として受け入れました。ヨハネは、人々を泣かせるために来ますが、主は、人々を踊らせるために来られます。ヨハネのおかげで人々は泣きます。まるで、後悔の布に包まれているかのように。しかし、主は皆を躍らせます。まるで、ご自分が音楽を聞かせているかのように。完全な救いとは、初めに泣き、次に踊ることです。言葉を替えれば、悔い改め、そして、信頼です。

2015年3月3日火曜日

3月3日

だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい[マタイ9:38]

ここに、もっとも偉大な霊的な働きの法則が見られます。すなわち、主が心のうちに成そうと思われているものは、何であれ、まず弟子にそれを祈るよう呼びかける。弟子たちが、収穫の主に働き手を送ってくださるように祈った後で、初めて、それがイエスによって送られます。祈りの順序は、(1)神によって始められ、(2)人によって祈られ、そして、(3)その働きは、神の御心のままに成し遂げられます。神は、ご自身の御心がなるような形で祈りに応えられます。祈りは神の御心が進んでいく道筋を付けるものだ、と言われるのはこれが理由です。

イエスは弟子たちに、収穫の主に働き手を送ってくださるように、祈って欲しいと求めました。しばらく後、送られてきたのは弟子たちそのものでした。何かのために祈る時、自分がそのことを行いたい気持ちになるように、神は、私たちの心を整えています。

2015年3月2日月曜日

3月2日

イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた[ルカ7:39]

この罪深い女は、男たちから嘲りと蔑視を受け続け、そのため、ただ羞恥心にさいなまれていました。しかし、ここにはイエス様がいました。聖なる方でありながら、近づくことを許してくださる方、その方が、この女に自分の後ろに立ち、足元で泣くことをお許しになったのです。彼女は罪から来る思い煩いを注ぎだすために泣きました。彼女は心に隠された何かを吐き出すために泣きました。彼女は助け手がどこにもいないことを訴えるために泣きました。そして、彼女は救世主への希望を示すために泣きました。しかし、泣いてもサイモンの哀れみを受けることはなく、むしろ、静かな非難が部屋中に広がってゆきます。確かに、罪に対する悲しみの涙は、自分を義とするサイモンには理解しかねるものでした。しかし、このイエス様は理解したのです!はじめにサイモンの誤りを正し、それから、泣いている女のためにこう宣言しました、『彼女の多くの罪は許された』。それ以来、この寛容は多くの罪びとへの福音となりました。

2015年3月1日日曜日

3月1日

父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった[ヨハネ3:35]

永遠の昔から、神は、家を立て、三位一体の神格において2番目に来るもの、すなわち、御子にそこを支配させることを定めておられました。神はすべてのものを御子に相続させました。すべてのものは、御子のものであり、御子を通して、御子へともたらされます。父の計画では、御子は父が計画したものすべてを相続し、聖霊は父が計画したものすべてを成し遂げます。父は計画者、御子は相続者であり、聖霊はその執行者です。御子への父の愛は、永遠の昔に始まっています。主は神が愛された者です。永遠の中にあっても、父は御子を愛したのです。御子が、地上に降りた時も、父はこう宣言しています、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』(マタイ3:17)。父は御子を愛し、手の中にあったものすべてを与えました。