2015年5月26日火曜日

5月26日

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません[マタイ10:38]

重荷と十字架は同じものではありません。重荷は避けることができません。一方、十字架は個々の意思で選択すべきもので、回避することができます。歴史上、初めての十字架に習い、その後に立てられた無数の小さい十字架も従うべきです。初めの十字架が、主の意思で選ばれたのと同様に、今日の十字架もまた、私たちの意思で選択しなければなりません。何かの困難に陥いったり、苦痛に遭遇するたびに、自分は十字架を背負っているのだと、考える人がいますが、これは間違いです。このようなことは、信者ではなくても、ごく当たり前に起こるからです。

では十字架とはなんでしょう?その答えは、主イエスご自身の言葉にあります、『わが父よ、どうぞみこころのとおりをなさってください』(マタイ26:42)。主は父に、御子の思いではなく、父の思いが成されるようにと頼みました。これが、十字架です。十字架を取ることは、父が決めた意志を選択することです。

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