2015年5月20日水曜日

5月20日

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです[マタイ20:28]

生きているキリストには、私たちを救うことはできません。救うことができるのは死んだキリストだけです。主は、地上の生活で私たちを救うことはできません。ご自分が十字架につけられたことで私たちをあがなえるのです。ベツレヘム、ナザレ、ガリラヤは、私たちを咎めます。十字架の立つ丘だけが私たちに永遠の命を与えてくれます。これを聞いて驚いてはいけません。多くの人が、イエスは自分たちの見本であると言います。主は偉大な教師、偉大なラビなのでしょうか?多くの人は、主のすばらしい人格、高い道徳、大きな力、そして、高貴な性格を讃えます。しかし、言わせてもらうなら、主イエスがよく見えるほど、あなたや私は悪い者と見えるようです。

神を賛美し、感謝しましょう。神の御子がこの世に来られたのは、私たちが次第に救われてゆく間に、模範とすべき見本となるためではないのです。そうではありません!神がその御子を地上に送った目的は、私たち、罪人のために死ぬこと、私たちのために救いを達成することです。神は、私たちから何ものをも必要としません。主がすべてを行ったからです。

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