2015年9月3日木曜日

9月3日

こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります[ローマ14:12]

私たちの人生の中で犯したすべての過ちと罪のうち、血の下を通され、十字架で償われたものは、もはや裁きの座で吟味されることはありません。事実、この座で主が裁かれるのは、私たちのまだ償われていない空虚な言葉、考えと働きだけです。裁きの座の光はすべてを貫くものとは言え、既に血の下にある罪を暴くことはできません。では、例えば、いつも空虚な言葉をもてあそぶ舌をどうすればよいでしょう。十字架が必要なのです。それは、無意味な考えや働きに対しても同じです。それにも十字架が必要なのです。ですから私たちも、信仰をもって十字架を受け入れ、十字架につけられた古い人のことを思いましょう。そうすれば、裁きの座は、既に十字架で償われた過去の罪を探し出して、裁くことはできなくなります。

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