2015年9月30日水曜日

9月30日

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません[ヨハネ5:39,40]

もし誰かが、祈りも、自分の力を明け渡すことも、精霊に完全により頼むこともしないでく、本や教師や聖書自体から、何らかの宗教的な教えを受け取ったとしたら、その人は知識を自分の心の力の中で受けたのです。心の力で真実を受けるということは、精霊を介さず、本、教師や聖書から直接それを受け入れることです。パリサイ人はこのような形で聖書を直接知っていました。そのため、彼らの手の中に最後に残ったのは、死んだ物であり、そこには、神の前の生きた経験が欠けていました。神の言葉は人をご自身の近くに引き寄せられ、神ご自身が御霊であるからです。

2015年9月29日火曜日

9月29日

七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である[黙示録1:20]

黙示録の最初の章に、教会は金の燭台であると書かれています。神はご自身の言葉で、教会は金でできているというだけでなく、教会は金の燭台であると言われます。教会が金でできているだけであれば、神の心を満たすことはできません。なぜ神は、教会が金の燭台であると言われるのでしょう?それは、金の燭台は光を広げ、その光が遠くまで輝き渡る働きをするからです。神は、教会に輝く器であって欲しいのです。それは、証しの器です。すべての始まりから神は、教会が燭台であるように命じられていました。特定のどこかのことではなく、全ての教会です。神の目から見た教会は燭台です。したがって、金であるだけでは、それが神に属することを表しているに過ぎず、十分でありません。それは神のために輝きを放ち、金の燭台として神を証ししなければなりません。

2015年9月28日月曜日

9月28日

(キリスト・イエスは)ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです[ピリピ2:7]

この意味するところは、主がご自分に課される制約を受け入れたと言うことです。天においては、主は望むところ、どこへでも行くことができます。しかし、主が肉体を与えられ、人と同じ姿を取られた後で、主は赤子から大人へと成長されました。主は、人間と同じように年月を経て大人になり、人間として、食べ、飲み、また、眠り、休息を取られました。これにより、主の神としての性質は大きな制約を受けました。事実、奴隷と言うかたちを取られることで、主の行動はいっそう大きく制限されたのです。人であれば、主にはまだ人間に許された自由は持っていましたし、人の持つ楽しみを味わうこともできました。しかし、奴隷のかたちを取られたために、普通の人間の持つ自由さえも犠牲とされたのです。主はあらゆる面で制限され、束縛されました。主は、父の御心以外、何も知りませんでした。人となられた主はどれほど大きな制約を受け入れなければならなかったことでしょう!無限の力を持つ神でありながら、主イエス様は行動の制約を受けいれました。そして、人間になられただけでなく、さらに大きな制約をも受け入れたのでした。

2015年9月27日日曜日

9月27日

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません[マタイ16:18]

門は入り口であり、出口でもあります。ハデスも死も、信者や教会をつなぎ止めることはできません。そこには既に朽ちないいのちが現れているからです(2テモテ1:10を参照)。この朽ちないいのちはハデスから出て来たものです。主は御自身のいのちを、自由にハデスの中に入れたり、外に出したりする権威を持っているからです。ハデスにはこのいのちを引き留めておく力はありません。そして、信じるものに与えられたのもまったく同じいのちです。この理由から、ハデスは私たちも引き留めることはできません。どれほど環境が艱難、迫害、悪意、殺人などに満ちたひどいものであろうと、また、行く手を壁で遮られていても、私たちにはいのちがあり、それは何があろうと、抑え込まれることも、押し潰されることもありません。

2015年9月26日土曜日

9月26日

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい[ヘブル12:2]

イエスから目を離さないとはどういうことでしょう?自身を見つめることではありません。イエス様の方に目を向けると、主に惹きつけられ、自分の内なる世界から離れて、目を向けたお方とともになります。あなたが見ているイエス様はどんな方でしょう?あなたの信仰の創始者であり、完成者でもあるイエスさまを見ています。これがイエス様の全てを語っています。霊的な成長の秘訣は、したがって、どうすれば、自分の状態にこだわらずにいられるかを知ることです。どうすれば自分自身を見ずいられるかを知っている者はまことに幸いです。神の御霊が啓示を与えて下さり、『目をそらす』とはどういうことか、自身の過去に無意味に捕われずにいるにはどうすればよいかを、示してくださいますように。

2015年9月25日金曜日

9月25日

私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか[ヘブル12:1]

この競争を走り続けている私たちは、『忍耐を持って』走らなければなりません。なぜ、忍耐が必要なのでしょう?それは、褒賞が出発地点も、中間点でもなく、経路の最終地点で与えられるからです。ゴールに達するまで、報いを受けることを誰も保証できません。残り5歩のところでしくじる可能性もあります。200メートル徒競走で、ある人が他の選手をおよそ20メートル引き離したまま、ずっと走り続けていましたが、ゴールまでわずか2メートルのところで転んでしまいました。勝つためには、集中し続けなければなりません。ゴールにたどり着くまで、これで賞品はもらったと喜んではいけません。使徒パウロですらこう言わざるを得なかったのです。『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ、追求しているのです(ピリピ3:12)。』パウロですら、こう思ったのです。私たちはどうでしょうか?

2015年9月24日木曜日

9月24日

すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです[マタイ24:30]

初めてこの世に来られた後、主は御自分の偉大な権威と栄光を現されました。次に来られる時は、力と栄光を示されるでしょう。初めに降臨されたとき、人々は主の教えと権威に驚きました(マタイ7:28)。パリサイ人は主の権威がどこから来たものかを探ろうとしました(21:23)。百人隊長は主の権威を信じました(8:8-9)。しかし、再臨される際は権威だけでなく、力をも表されます。主は、ろばの子に乗ることはなく(平和の君として)、白い馬に乗ってこられます。神のさばきを行うために力が使われます。主が台を倒し、細なわでむちを作って、羊と牛を追い出した時でさえ、主はそのむちで人を打つことはありませんでした。二度目に来られるときに初めて、主はその力を使われます。

2015年9月23日水曜日

9月23日

塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか[ルカ14:28]

主は費用の計算について語っておられます。ここで主が本当に言いたいことは、人が塔を築くために、自分の持てるもの、すべて注ぎ込む気持ちがあるかということです。たとえば、塔を建てるのに500ドルの費用がかかるのに、300ドルだけ出して、残りの200ドルは他の目的のために取っておきたいと考えてしまうと、自分の取り分を確保したために、費用が足りなくなります。他の誰かのために愛を取っておくような者は、キリストを愛することはできません。人は自分の父、母、妻、子供、そして自身のいのちさえも憎まなければなりません。そういったものを自分の心から追い出すのです。キリストは、人がいくら出すかではなく、自分の持てるものすべてを差し出すかどうかを問われます。

2015年9月22日火曜日

9月22日

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたことを、私たちは知っています[ローマ6:6]

私たちにどうしても必要なのは、主の御霊による啓示を頼み、古い人がキリストとともに十字架につけられたさまを示していただくことです。大きな誘惑に襲われて、私たちの古い人は未だ死んでいないのでないかと不安に感じることがあっても、自分の感情や経験ではなく、神が成し遂げたことを固く信じるのです。これを真実であると心から認めるなら、自分も同じことを経験するでしょう。神の真実は、私たちがそう信じるから事実となるのではないことに注意しましょう。むしろ、神の真実が既に事実であるからこそ、私たちはそれを信じるのです。

人が誘惑され、試みを受けているときはいつも、神の言葉に信頼しなくてはならないし、神の真実は自分の感覚よりも、大きな信頼に足るものです。人が神の言葉を完全に信頼するなら、神は責任を持ってその人に経験をさせてくださるでしょう。過去の誤った経験を振り返るなら、その人は打ち負かされ、将来も前向きな経験をすることはできません。神の真実を信じることによって、私たちの霊的な生活は日々、前進します。

2015年9月21日月曜日

9月21日

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません[1ヨハネ2:15]

ある時、絵画展が開かれました。その中で一枚の絵が、寓話的にキリスト者を表現していました。絵の中では、子供の好きなおもちゃがたくさん、当たりに散らばっていました。しかし、子供は、そのどれにも気に止めていないようでした。代わりに彼の目は、窓に釘付けになっており、手を窓の方に伸ばしていました。その絵を、離れたところから見ても、なんの意味があるのか分かりませんが、近づいてみると、きれいな小さい鳩が一羽、窓の敷居にとまっていることに気付きます。そして、絵の下の非常に長い説明があり、小さな可愛い鳩が欲しいばかりに、その子供はどんなおもちゃもいらなくなったと、解説しています。ここから絵に隠された意味が明らかになります。すなわち、もっとも優れたものを手に入れるために、他のものすべてを捨てなければならないのです。神は、私たちに何かを捨てるように強制することはありません。代わりに、私たちの目の前にもっと優れた何かをおきます。もっと優れたものを手に入れるために、人は自然に、意味のない多くのものを捨てることになります。

2015年9月20日日曜日

9月20日

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい[1コリント10:31]

正しいか、間違っているか、善か、悪か、霊的に価値があるか、ないか、これらのことがらは全て、神の栄光の存在によって計られます。人間の目には、些細でどうでもいものに見えても、それに触れることで正しく神の栄光にふれることもあります。そして、神の栄光に触れることで、自分が既に神の導きを得ていることがわかるのです。そうなればもう、待つ必要はありません。何かの働きをしている時、それにあまり価値がないとか、何かがうまく行っていないと感じることがあるかもしれませんし、一方で、あなたが参加している他の働きの中で、そこには意味があり、本質的に正しいと感じることもあるでしょう。問題は、働きが外から見て大きいか、小さいかではなく、神の栄光がそこに存在しているか、いないかということにあります。神の栄光がなければ、何の意味もなく、神の栄光が存在するところには、大きな価値があります。

2015年9月19日土曜日

9月19日

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません[マタイ10:29]

近代におけるもっとも大きな間違いは、人類全体に対して注意を向けるあまり、個人個人を無視していることです。しかし、神はそうではありません。神は全人類を祝福することを考えていますが、それをひとりひとりの人間からはじめます。神は誰一人、見下すことはしません。『二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。』神の働きのすべてにおいて、父の手を見るべきです。人間は確かに罪を犯し、堕落してしまいましたが、神はその一人も蔑んでいないことに感謝しましょう。神はどれほど、御心を一人ひとりに注いでくださることでしょう。それこそが、私たちの慰めです。神の心だけが、人の心を真に満たしてくれます。

2015年9月18日金曜日

9月18日

さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った[創世記26:1]

概して言えば、エジプトには飢饉はありませんでしたし、飢饉になりかけた時も、古い穀物のたくわえがありました。しかし、カナンの地ではよく飢饉が起こったようです。霊的に言えば、これは次のことを語っています。この世界において、この世にいるだけでなく、世に属する者が飢えることは、実際にはほとんどあり得ません。しかし、神への従順への道を歩んでいる者には、時に飢饉がもたらされます。較べてみますと、地上では、ほとんど、あるいは、まったく苦難がなくても、従順へと向かう道筋には、多くの試練が待っています。苦難がどれほど大きくあろうと、神のいるところ、常に脱出の道も備えられています(1コリント10:13を参照)。ですから、真実を尽くすと同時に、いつも目を覚ましていましょう。

2015年9月17日木曜日

9月17日

人が主に対して罪を犯し、不実なことを行なうなら、…あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなら、…[レビ6:2,3]

あまり、真剣に考えないかもしれませんが、これはやはり不誠実な行為です。落し物を自分のものにしても、間違ったことは何もないと考えてしまうかもしれません。それでも、神はそれを不正な行為であると明言しています。キリスト者は、他の人のものを取って、自分のものとすることはできません。多くの人は、他の人のポケットより、自分のポケットに多くのお金が入ったほうがよいと考えるでしょう。しかし、それは正しい考えではありません。ハンカチ、帽子、万年筆や手紙、なんであろうと、拾ったものを自分のものと考えることはできません。それは正しくないことだからです。過去には、そんなことを平気でしていた人も、今は持ち主に返すようできるだけのことをするべきです。無くした人が取り戻せるようにするか、紛失物をその土地のお役所に届けるようにしましょう。そうでなければ、罪を犯したことになります。

2015年9月16日水曜日

9月16日

彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた[マタイ25:15]

5タラントと2タラントを渡された二人には、それを誇ったり、満足する理由などありません。一方で、1タラントしか渡されない者にも、恥じ入ったり、妬んだりする必要があるでしょうか。今日の教会における信者は、大きな者をありがたがり、小さなものを見下すのではないでしょうか!これらはすべて肉の行いです。

1タラントしか渡されなかった者は、最も大きな誘惑を受けます。彼はこの贈り物を、土の中に埋め、怠惰になってしまいがちです。彼は、少ししか渡されなかったことを恥じているのです。彼はまた、それを元手に商売をしてもほとんど儲けにはならないことも知っています。そのため、彼は賜物をただ地中に埋めてしまいます。彼はすばらしい説教をして、一度に数百人を救うことはできないし、目を見張るような大きな働きをすることはないかもしれませんが、それでも、主のために何かの小さな働きはできるのです。神が小さな賜物をくださる時は、私たちも、小さな働きをするようにと望む心を持てますように。

2015年9月15日火曜日

9月15日

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を[詩篇42:11]

多くのクリスチャンは、あまりに感情のおもむくままに生きています。楽しく幸せな気持ちでいられた日は、今日は神が本当に祝福してくれていると言います。しかし、冷たく退屈な日を過ごした時は、こんな風に言いたくなってしまいます、神がどこにいるかどうして分かろうか?このように、多くのクリスチャンが感情に依存し、自分の気持ちを見失うと、戸惑ってしまいます。ここから分かるのは、彼らが本当の意味で主を知らないことです。冷たくても暖かくても、単調であろうと、波乱があろうと、そんな感情は何の問題にもならない、自分は既に神を知っていて、どんな感情よりも深い知識がある。そう言える段階まで、神の子どもたちは、主に移されなければなりません。外に向けて、さまざまな感情が湧き出しても、それが楽しみ、痛みであれ、心の中では知っている。そのような人だけが、どれだけ揺さぶられても、持ちこたえることができます。

2015年9月14日月曜日

9月14日

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです[2コリント3:18]

銅細工師は金型に溶けたままの銅を注ぎ、その銅は固まると金型の形となります。また、お菓子作りを例にとっても、人が金型に用意した生地を入れると、それがその形をしたケーキとなります。この例えのように、私たちは主のようになるべきです。『御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた』、とパウロがローマ書8章29節の中で述べているとおりです。これは、私たちがいずれは、栄光に満ちて人の姿を取った主のようになることを意味しています。人間が、神の供えた金型に合わせて、本当に変わるためには、その人の内なる性質が変容をとげなければなりません。すなわち、神のいのちを自分の霊へと受け入れ、そのいのちを自分の全存在の中に浸透させなければならないのです。それは、生まれたままの性質が変化し、その姿が完全に変わってしまうところまで行う必要があります。主の霊は一歩一歩働かれます。それは、『栄光から栄光へと』進みます。主を褒め称えましょう!

2015年9月13日日曜日

9月13日

あなたがたは主キリストに仕えているのです[コロサイ3:24]

神に仕えることと、神のために働くことはまったく違います。神のために働く者はたくさんいますが、彼らは神に仕えてはいません。働きが信仰に基づくものであるか、それが本当にキリストのためかどうかは、動機と目的から判断できます。自分を大きくするためとか、自分が属する集団のため、また、自信の勉強のための労苦をしてはなりません。ただキリストのためにのみ働くべきです。神が何かを得ることが私たちの喜びです。自分たちの働きから出たものでなくても、神が何かを得られたら、それは嬉しいことです。私たちが踏み出すのは、自分の修練のためではなく、罪びとを救うためです。自分の心を満たすためではなく、ただキリストの心を満足させるためです。

2015年9月12日土曜日

9月12日

強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです[マタイ12:29]

強い人を縛りあげるとは、神の御霊を通して行われることです。御霊の力が、悪霊を追い出すために必要です。悪霊は、主の御名によって追放されますが、これは御霊がその御名の力であるからです。

強い人を縛り上げられるには、どうすればよいでしょう?それは、主イエス様の十字架を間接的に介して行われます。十字架の上で主はサタンの頭を砕きました(創世記3:15を参照)。十字架がサタンの頭に立ち向かい、その力と支配を破壊しました。しかし、主が死者の中からよみがえり、天へと昇られた後、御霊が地上に降りて、主が十字架で成し遂げられたことを実行に移しました。それ故、サタンを縛り上げるのは御霊の力であり、それは十字架を基にして行われます。私たちの方は、信仰の祈りを通して、サタンを縛りあげます。私たちは祈りによって強い人を縛り上げるべきです。したがって、主の働きにおける、すばらしい原理は、まず縛りあげてから、力を失わせるということです。

2015年9月11日金曜日

9月11日

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます[ルカ17:32-4]

この2人の間に、違いはないように見えます。場所も、働きもほとんど同じです。それでも、携挙の時には、違いが示されます!この一瞬に、なんと大きな違いが現れることでしょうか!

最も深刻な問題がここに示されています。携挙に及んで引き上げられ、主に会い、そして、天の御国に入ることを望むなら、まずは、今この時の魂を捨て去る必要があります。主のために、私たちは世界を捨て去り、神の御心に沿わないあらゆるものを捨て去り、私たちを縛り付けるあらゆるものを捨て去り、そして、上にあるものへの想いを妨げるすべてを捨て去る必要があります。私たちがロトの妻のように、ただ自分の魂を守り、何も捨てたくないと思ってしまえば、引き上げてもらうことはできません。そうなれば、ソドムとゴモラで罪人とともに滅びることはないにしても、主に引き上げてはもらえません。永遠の命に違いはないかもしれませんが、携挙においては違いが示されるでしょう。

2015年9月10日木曜日

9月10日

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません[ヨハネ3:5]

ヨハネが水で授けた、悔い改めのバプテスマは人を新生させることはできませんでした。人は、『水と御霊』によって生まれなければ、生まれかわることはありません。悔い改めるためのバプテスマはこう述べ伝えます。悔い改めが必要なのは、人の悪に満ちた行いだけではありません。堕落し、死んでいたその人自身も、バプテスマの中に沈められなければなりません。

人は、『水』のみで生まれ変わるのではありません。『水と御霊』の両方によって生まれなければなりません。人は、主イエス様から聖霊の賜物を受けなければ、神のいのちを持つことはできません。悔い改めは、自分が持っているすべてのものから、私たちを解放してくれます。信じることで、私たちは神が持つすべてのものへと導かれます。私たちは悔い改めを通して水の中に入り、信仰によって御霊を受けます。これが新生です。

2015年9月9日水曜日

9月9日

あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、…しっかりと組み合わされ、結び合わされるのです[エペソ4:15,16]

この一節から分かることは、キリストのからだの各部分は、しっかり組み合わされ、お互いと結び合わされています。これはすべてがかしらへと強固にしがみついて、体の部分としての使命をまっとうしているからです。ここで、神はあなたの隣に座っている人にだけ注意を払って欲しい、と願っているわけではありません。神は、あなたが主と適切な関係を持つことを何よりも望んでおられるのです。かしらとこのような関係を維持するなら、体の他の部分とも良い関係を持つことができます。自分をかしらへとゆだねるなら、あなたと兄弟姉妹との間に起こった問題も簡単に解決されます。主との間に食い違いがなければ、兄弟姉妹と問題が起こることもありません。

2015年9月8日火曜日

9月8日

弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった[マタイ17:6-8]

『心から、怖れなさい』、神が現れる時、誰が怖れずにいられるでしょうか!

『恐れるな』、この言葉は聖書の中で365回出てきます。一年の中で、一日一回に当たります。毎日が、『今この時』と、祝福されます。どの日も恵みとして分け与えられているからです。

『だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった、』律法と預言者、人の子の栄光、あたりを包む光り輝く雲と響く声、そして、仲間たち。それらはすべて消えてしまい、イエス様お一人が残っています。私たちがイエス様だけを見ていられますように。

2015年9月7日月曜日

9月7日

…喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。[コロサイ1:12,13]

神が、私たちを祝福したいと思っておられることはたしかです。しかし、神は私たちのために、もっと大きなことを望んでおられるのです。それは、神の王国に入ることであり、神の支配の下に置かれることです。皆さん、理解しましょう。救いは楽しみのためだけにあるのではなく、もっと重要なことには、神の主権の下に置かれるためにあるのです。かつての私たちは自分のやりたいことをやり、深く考えもせずに、日々を無為に過ごしていました。今、私たちは神に服従しなければなりません。一度、救われたら、もう意味なく時を過ごすことは認められません。神の規範を受け入れなくてはなりません。救いとは聖霊のくびきの下に置かれることに他なりません。人が、救われたいと望むなら、聖霊がくびきを付けます。くびきをつけられたものは誰でも救われます。肉として見るなら、救いは全く楽しいものではありません。それは、人を神の主権と支配の下に引き込むからです。

2015年9月6日日曜日

9月6日

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です[詩篇119:105]

私たちの心が正常な状態にあるときは、青い空と明るい太陽の下を歩いているようなものです。しかし、心の状態は何時までも同じままではありません。聖書はこう語っています、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』暗い夜がなければ、ともしびも光も必要はないでしょう。私たちの心の中が明るい時は、内なる欲求は明瞭で確固としています。心が暗くなると、内なる欲求も混乱し、揺れ動くことが多くなります。だからこそ、聖書の言葉を調べる必要があるのです。いのちに真実が加われば、本物の安定した力となります。私たちは、このどこまでも続くいのちと真実の道を歩かなくてはなりません。私たちの考えや判断は、そのひとつひとつを聖書の言葉と付き合わせることが必要です。こうすれば、左右によろめくことなく、まっすぐ前に歩いてゆく助けとなります。

2015年9月5日土曜日

9月5日

イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」[ヨハネ4:10]

神様は何も売りません。『賜物』とはただで与えられるものです。神はいつも、ただで人に与えます。そして、神はお願いすれば誰にでも与えてくれます。神は、何も取らずに、陽の光を輝かせてくれます。神は、一円も払わなくても雨を降らせてくれます。主はまた、精神的な満たしも同じように与えてくださるのです。

あるところに、お母さんが大好きな子供がいました。お母さんを喜ばせるために花を買ってあげたくなったのですが、ポケットには、ペニー硬貨2枚しかありません。その日、男の子はきれいな庭を見つけて、花を買おうと中に入り、そこにいた紳士に自分の願いを打ち明けました。それを聞いた紳士は、数本の花を取って男の子にあげました。男の子はていねいにお金を払わなくては花は受け取れないと言いました。しかし、その男性は応えて、『私の花はいつもただであげてますよ。欲しいければいくらでも差し上げます。』その人が誰だったと思いますか?英国の皇太子で、そこは王室の庭だったのです。

2015年9月4日金曜日

9月4日

祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです[マタイ6:7]

『くり返す』とは、多くの意味のない言葉を使って、祈りを長引かせることを指します。決して祈りの中で同じ言葉を使うなと言っているのではありません。主イエスでさえ、同じ言葉で3回祈られたのです。心の中に重荷を抱えている時、主は祈りの中で、同じ言葉を何度も口にされていることが分かります。祈り方をもっとよく知っているものほど、祈りにおいても創意を持っています。

私たち、今日の信者の間に残念な傾向が見られます。私たちには長い祈りをすることが多く、多くの言葉で祈りを長引かせ、たくさん話すほど聞いてもらえると考えています。しかし、聖書に記されている祈りは、もっとも率直で簡潔なものです。マタイ8:25の『主よ。助けてください』がその例です。極めて短いお祈こそりが、はっきりと受け止めてもらえることがよくあるのです。苦しい時、罪を犯す人を見ているとき、助けが必要なとき、短い祈りがもっとも効き目があります。

2015年9月3日木曜日

10月3日

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました[エペソ1:19,20]

パウロが生きていた頃、エペソの信徒たちのために、彼らが、神が賜った力のすばらしさ、偉大さに気付くことができるようにと祈りました。もし今、自分の中にある力とキリストの中にある力が、同じひとつのものであると信じられなければ、それを理解できるように祈らなければなりません。私たちの中に現された力が、キリストの中に現された力よりも弱ければ、まだ分かっていないことがたくさんあることを認めざるを得ません。へりくだって神の前に告白し、理解させてくださいと祈りましょう。信じる者の中で神が働く力は、神がキリストの中で働かれた力の強さに一致するほどのものです。ハレルヤ!これが霊的な真実です。本当にこの事実を理解し、受け入れることができるよう、神に目を開いてくださいとお願いしましょう。神に、外からもっと大きな力を注いでくださいと、お願いするのではありません。ただ、私たちが既に自分の中にあるものに気づき、見つけられますようにと、頼むのです。

9月3日

こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります[ローマ14:12]

私たちの人生の中で犯したすべての過ちと罪のうち、血の下を通され、十字架で償われたものは、もはや裁きの座で吟味されることはありません。事実、この座で主が裁かれるのは、私たちのまだ償われていない空虚な言葉、考えと働きだけです。裁きの座の光はすべてを貫くものとは言え、既に血の下にある罪を暴くことはできません。では、例えば、いつも空虚な言葉をもてあそぶ舌をどうすればよいでしょう。十字架が必要なのです。それは、無意味な考えや働きに対しても同じです。それにも十字架が必要なのです。ですから私たちも、信仰をもって十字架を受け入れ、十字架につけられた古い人のことを思いましょう。そうすれば、裁きの座は、既に十字架で償われた過去の罪を探し出して、裁くことはできなくなります。

2015年9月2日水曜日

9月2日

彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである[ヨハネ12:43]

人間が善と悪を知る知恵の木の実を食べて以来、人の栄光は、人間の魂における重要な関心ごととなりました。私たちは一人ひとりが自分専用の王座を持っており、この王座は人の栄光の上に建てられたものです。しかし、もし私たちが主の忠実な僕であろうと望むなら、自分の王座からは下りなければなりません。それを拒めば、主に仕えることはできないのです。ヘブル書12章2節は、私たちの主であるイエス様が、はずかしめをものともせずに十字架を忍んだことを教えてくれます。主は、喜んで十字架を選んだのです。そして、十字架は死だけではなく、恥辱でもありました。真に十字架に砕かれたことがあるなら、恥辱をものともせずに正面から受けとめる経験を、必ずあなたも味わうでしょう。神が哀れみ深くあって、私たちに主を喜ばせる心を持たせてくださり、主の恵みによって私たちがが忠実なしもべとされますように。

2015年9月1日火曜日

9月1日

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています[詩篇119:89]

私の父が土地を買ってくれ、登記書も私にくれたとしましょう。父は私にそこへ行って、その地所を管理するように命じます。そこで、私はその土地がある国へ行きます。すると、ごろつきのような男が出てきて、なぜ、ここに来たのかと尋ねます。私が、『父の地所を探しに来た』と応えると、そのごろつきは、『ここはお前の父親の土地なんかじゃない、俺の親父の土地だ』と、言い返します。さて、もしここで私が父の言葉を疑えば、家に帰るしかありません。しかし、『いや、私の父は間違っていない。私が持っているこの証文に、ここが私たちの土地であると書いてある』と言い返してやれば、ごろつきはどこかに去ってゆくに違いありません。すなわち、私か彼か、どちらかが消えなければならないのです。

さて、私たち自身にも同じことが言えます。父なる神は、既にキリスト・イエスを通してあなたにすべての恵みをくださったのですから。そして、聖書は父があなたにくださる権利証書です。あなたが聖書に書かれていることを信じるなら、サタンは立ち去るしかありません。