2015年8月7日金曜日

8月7日

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです[2コリント4:10]

私たちは、いのちの通る管なのですから、何者にも押し止められてはいけません。そうなれば、詰まった管の中を水が流れないのと同じで、神の命が私たちの中を通ってゆくことができないからです。十字架の働きによって、私たちは開かれます。他の人たちも聖霊の命を受けることができるように、アダムから来たあらゆるものを捨て去り、、自然の秩序を排除するためです。聖霊に満たされることによって、私たちの霊は常に、キリストの十字架を負うことができます。そして、一度聖霊に満たされたら、十字架のいのちを持つことによって、私たちは神の御霊に用いられ、自分たちの中から、周囲の人々へと、同じ十字架のいのちを放つことになるのです。私たちは、自ずと会話や人とのやり取りの中で、いのちを広めることになります。個人的な会話の中でも、公の場でも、こうして私たちは触れ合う誰をも豊かにするのです。

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