2015年8月14日金曜日

8月14日

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです[ピリピ2:8]

神を神と認めるものは誰でも、人になるすべを学びます。堕落していたとき、私たちは自分が神になりたいという誘惑に駆られましたが、解放を受けたとき、私たちには人間になる備えができています。エデンの園の本質は、善と悪の知恵の木の実を食べることによって、『あなたがたが神のようになる』(創世記3:5)ことです。これに対し十字架の意義は私たちを人間本来の位置に戻すことにあります。

私たちの主が大工の家に生まれた理由は人間となるためです。主がヨハネの洗礼を受けたのも同じく人間となるためでした。また、主は3度にわたって悪魔の誘惑を退けられましたが、これもまた人間となることが目的でした(マタイ4:1-10)。主『ご自身が試みを受けて苦しまれた』(ヘブル2:18)と言う事実は、主が人間であったことの証拠です。これらすべてが主に関して真実であるなら、私たちはもっと人間であるべきなのではないでしょうか!

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