いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです[ヨハネ6:63]
主イエスの成されるわざを、霊において見るとき、主のすべての働きが私たちのために生きていることに気づきます。主の働きを霊の外から見ると、すべてはただの文字となってしまいます。文字は死んでいます。こう言ったものを単に教義として扱うとき、それは死んでいるのです。聖書に記録された事実を信じているのに、それが日々の生活に何の助けにもならない人がいるのは何故でしょう?また、教義を聞いても、何の力にもなっていないという人もいます。さらにまた、聖書の中に神の言葉を見出しても、それが働かないのはなぜでしょう?こんなふうになってしまうのはすべて、神の真実に霊の中で触れないためです。キリストにおけるあらゆることがらは、単なる文字や書物として取り扱われると、過去のものとなってしまいます。しかし、御霊においてそれらに近づくなら、決して、過去とはならず、生きた現実として存在し続けます。
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