2015年7月8日水曜日

7月8日

さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい[使徒22:16]

聖書は、単なる儀式としての洗礼を否定するだけでなく、洗礼とは証しであると、名言しています。なぜ人々は水の中に入るのでしょう?それは、神と人と天使と悪魔の前に、イエスを信じたこと、そして、キリストが成し遂げたことは真実であり、完璧であり、また信頼できると、証しするためです。

アナニヤはサウロに立ち上がって洗礼を受けるように呼びかけました。なぜでしょうか?それは、彼の罪を洗い流すためです。しかし、アナニヤは、洗礼によって罪が取り除かれるとは教えませんでした。罪を洗い流すのは水のバプテスマそのものではないからです。洗礼が言葉に現し、証しする事実こそが罪を洗い流すことができるのです。地球上のすべての水を使っても、ただひとつの罪を洗い流すこともできません。しかし、洗礼の水が体現し、証しするもの、それが主イエスの血であっても、それはすべての罪を洗い流すことが可能です。それを信じていますか?信じたなら、立ち上がって、自分の罪を洗い流すためにバプテスマを受けなさい。

0 件のコメント:

コメントを投稿