その方(慰め手)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます[ヨハネ16:8]
真に霊的に目覚めている人なら誰でも、自分の罪を意識せずにいられません。ルカ15章の放蕩息子は、自分自身の心に立ち返った瞬間、父親だけでなく、天に対しても罪を犯していたことに気付きました。聖霊によって光に導かれた人ならば、必ず自分自身の犯した罪を省みて、自分を否定するです(ヨハネ16.8)。この時初めて、人は、神の許しを必要とします。自分の罪を見ない人が、許しを求めることはありません。しかし、一度それに気付けば、神の前で罪悪感、罪に対する罰、地獄の絶え間ない苦しみ、そして、救いの希望について、思わずにいられないでしょう。その時、その場所でこそ、福音が私たちに語られ、主イエスが十字架の上で死んだこと、その血が罪の赦しのために注がれたことを教えてくれます。主の血によって、私たちの罪が洗い流されます。福音を聞いて、信じる時、私たちは罪の赦しを受け、良心が清められるはずです。
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