自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません[マタイ10:38]
主が要求されていることはただひとつ、主を愛することだけです。自己を否定することなしには、誰も主を愛することはできません。ここで主は自分の十字架について語っているのではありません。強調されているのは、十字架を負うことです。主が十字架に付けられたのはただ一度の出来事です。その時は、主が私たちを支えました。十字架を負うのは毎日のことです。ここでは、私たちが主を支えます。
十字架を負うとはどういう意味でしょう?それは心の底から神に服従することです。ゲッセマネの園で、私たちの主は、父の意志を行うと心に決めていました。そのとおりに主は動かれ、十字架を負いました。したがって、十字架を負うとは、神の意思を成すと心に定めることに他なりません。
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