そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」[マタイ15:33]
そのような言葉を口にするものは、自分の周りしか見えていないのです。信仰が教えてくれるのは、自分の中で、『どこから』来るのかと言う思いを消し去りなさいことです。信仰のある祈りには、『どこから』と言う言葉はありません。神がそう言われるなら、それで十分だからです。
人々に配るよう弟子たちに与えられたパンは、復活を表しています。弟子たちの手の中のパンは、そのままでは増えることはありません。しかし、主によって裂かれ、女と子どもを除いて、男四千人が食べた後、増えたパン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあったのです。十字架が生活の中に入ってきたら、それはもはや自然ではなく、超自然なものとなり、他のすべての者の必要を満たして余りあるものとなります。
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