2015年6月14日日曜日

6月14日

それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです[ローマ3:26]

人は、神の啓示を通じて罪を見るほどに、自分の罪を悲しく思い、また、赦された恵みをより深く感謝するようになります。中には、自分の罪はあまりに大きく重いので、神は許さないだろうと恐れる人がいます。それどころか、神が本当に彼らを許すとしたら、許しはあまりにも安易に与えられすぎだと考える人さえいるのです。このような間違った思い込みをする人は、みな、赦しはどこまでも信頼してよいと言うことを知る必要があります。それは確固たる基盤があって初めて成されるものだからです。

恵みは、それ自体が支配するのではなく、義の賜物によって支配します(ローマ5:21)。恵みは、私たちのところに直接、与えられるのではありません。十字架を介して間接的にもたらされます。神が私たちの罪を許すのは、私たちが悔い改め、後悔の念を語り、悲しみを言い表し、そして泣くの見て哀れに思うからではないのです。神はそんなもので、人を許すことはありません。神はまず、私たちの罪を判定し、それから、赦します。多くの人が思い込んでいるのは、『恵みと義の両方を守り続けることはできません』。これに対し、恵みによって教えられてきたすべての人なら言い返すでしょう、私たちの罪を赦しにあたって、神は恵みと義の両方を完全なままに保っておられます、と。

0 件のコメント:

コメントを投稿