2015年4月30日木曜日

4月30日

人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです[ローマ3:28]

今日の教会において、律法に対して、相反する二つの考え方があります。(1) 人は恵みによって救われるのであって、律法を守ることによってではない。しかし、聖潔を成すためには、律法を守らなければならない。(2) 確かに、人は恵みによって救われるのであって、律法を守ることによってではない。したがって、救われた後ではもはや律法を守る必要はないが、恵みの戒めは守るべきである。後者の考え方が正しいのです。ローマ人への手紙の要旨は、どんな罪人も律法のはたらきによって義とされることはないということです。これに対し、ガラテヤ人への手紙は、救われた人も、決して律法の行いによって聖潔に進むことはできないと語っています。これら二つの手紙は、人が義と認められることも、聖潔に進むことも、決して律法の働きによるものではないことを、十分に証明しています。

2015年4月29日水曜日

4月29日

ナザレ人イエス…神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです[使徒2:22,24]

復活を思い起こすたびに、私たちは、その尊さを感じます。復活とは、死がもはやその力を持っていないことを意味します。死はこれを覆い隠すことができません。

これまで、死に入った後で、再び生き返った人間は誰もいません。人は、どんな年代でも死ぬことがあるし、人類のあらゆる時代を通して、人は必ず死にました。一度死んだ人は、死に捕らえられ、帰ってくることはありませんでした。しかし、死の世界から戻って男が一人だけいます。その人こそ、主イエス·キリストです。『私はよみがえりです』、とイエスは言われました。そして、私は『いのちです』とも(ヨハネ11:25)。この人は命ですから、この人を信じるものは誰でも、決して死ぬことはありません。この人はよみがえりですから、主を信じるものは皆、死んでも生きるのです。

2015年4月28日火曜日

4月28日

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた[マタイ4:1]

アダムからキリストの間に約4,000年のときがありました。この40世紀の間、誰も自分が神の子であると主張することはできませんでした。しかし、今は天からこの声が聞こえています、『これは私の愛する子である』と。これを聞いて、サタンは彼に対して戦争をしかけてきます。実際のところ、サタンは、神の子が、思い通りに働けないように挑んでいます。罪、世界、あらゆる状況が、神の子供たちと対立しているように見えます。それでも、キリストは私たちの先駆者です。

大きな誘惑を乗り越えることによって、イエスは神の子であることをご自身で証明しました。それでは、主に属する私たちは、他とは違う者であることができるでしょうか?キリストが、第一にしなければならない仕事は、彼自身が神の子であることを証明することです。このため、教会は、キリストを神の子として告白することから始まります。サタンが、あらゆる力を持ってしても振り払うことができないのは、神の御子です。私たちがこの証しに立つなら、自分たちも打ち勝つはずです。

2015年4月27日月曜日

4月27日

確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています[1コリント12:14]

キリスト者として、私たちは、霊的なものを賛美し、求めるべきですが、しかしながら、人を押しのけるような主張をしたり、また、すこしでも嫉妬する気持ちを持ってはなりません。霊的なはたらきにおける個人の態度は以下のようであるべきです。私にできることは、他の人にもできて欲しい。また、自分にはできないことを、他の誰かにできて欲しい。私はもっと多くの働きをしたいけど、同じように、他の人もより多くの働きができたらと望む。自分は、はたらきにおいてひとつの器に過ぎないことを、はっきり認めることが必要である。それを独占してはいけない。はたらきとその結果が自分のものであるとは、決して考えないようにする。すべてを自分でやらなくていけないと考えたとしたら、まだ、御からだを捕らえていない。キリストのみからだを捕らえたら、その瞬間、私自身のはたらきも、他の人のはたらきも等しくかしらと御からだへの得となることがわかる。すべての栄光が主に、すべての祝福が教会にもたらされますように。

2015年4月26日日曜日

4月26日

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています[マタイ10:30]

神は、もっとも微細な部分に目をとめます。だからこそ、神はもっとも偉大なのです。最大の力を持つのは、長い苦しみを経た者です。私たちの人生の中に、神の留意と心配を受けるに値しないほど、些細なことは何一つありません。天に数えられたあなたの頭の毛の数は、正確にあなたの頭の上にある毛の数です。これに関係した話ですが、ある未亡人が小さなアパートの上の階に引っ越してきました。彼女は、部屋に合う絨毯トを、神に願いました。すると、誰かが、その部屋の寸法にぴったりの絨毯を送ってくれましたが、それだけでなく、アイロン台と火掻き棒までが送られてきました。彼女は後でこう述べました、自分はこれら二つの物を頼むことを忘れていたけれども、神は忘れていませんでした。神が私たちの頭の毛さえも、みな数えているとは、このようなことです。

2015年4月25日土曜日

4月25日

あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです[ヨハネ16:33]

勝利について考えているのですか?キリストの勝利こそが、あなたの大勝利です。あなたはこの世界に打ち勝ちたいですか?繰り返しますが、この世に打ち勝ったのはキリストです。また、あなたは、神がいつの日かあなたに何かをしてくれるはずと期待していますか?もう一度、言います。神はすでにキリストにおいて、あなたのためにすべてを行ったのです。したがって勝利は、今これからの出来事ではなく、キリストはすでに勝利しているのです。神の啓示によって、私たちが、キリストにおいて受けたものが何か、理解できますように。信じていなければ、何も受けることはできません。しかし、信じれば、すべてを受けることができます。キリストにあるものとは、勝利、義認、聖別、許し、そして、すべての霊的な祝福です。神は私たちにこれ以上のことはできません。私たちがキリストにあるなら、キリストのすべては既に、私たちのものです。キリストから何かを引き出すことで、私たちが富むのではなく、キリストに入ることによって、既に主の中にあるものが、私たちの内に流れ込むのです。

2015年4月24日金曜日

4月24日

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました[1ペテロ2:21]

人間はイエスに恥辱を与えましたが、主はこれをものともしませんでした。神は主に十字架を与えましたが、主はこれに耐えました。主は、どれだけ人に誤解され、排斥され、告発され、仲間に裏切られ、また、非難されても、心を乱すことはありませんでした。それは、恥は大したものでなかったからではありません。主が味わった恥辱は、それまでどんな人間も経験したことがないほど酷いものでした。また、主の神としての性質のゆえ、侮辱を強く感じなかったわけでもありません。実際に、主の気持ちは、他のどんな人よりもはるかに鋭敏です。神が主に与えられた十字架は決して軽いものではありません。それでも、我らの主はそれに耐えるのです。主は、それを受け入れ、それに耐えるのです。そして、最後はどうなったでしょう?主は大勝利をもって目的を達し、『神の御座の右に着座され(ヘブル12:2)』、そして、主の栄光が現れる瞬間を待っておられます。

2015年4月23日木曜日

4月23日

神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません[1ヨハネ5:3]

かつて、何人かの姉妹が、従順であることは最も困難だったと語ってくれました。他の姉妹が言っていたことには、従うことは簡単なことに思われたが、実際にそれは、世界中の苦しみに耐えるようなものだったそうです。私はここではっきり言います。もしあなたが、自分の心を神に明け渡したことも、ひたむきな心で神に降伏したこともなく、また、自分にもっとも大切なものを放棄し、一番好きなものを否定したことがなければ、従順の道を歩こうと考えても、無駄なことです。こういったことをはっきりと経験しない限り、従順の道を歩くことは決してできないでしょう。

2015年4月22日水曜日

4月22日

ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた[マタイ22:11-12]

東洋の国では、結婚式の衣装は招待客が準備するのではなく、招き主が用意します。結婚式の衣装とは、キリスト、すなわち、私たちの義の外套です。私たちは、キリストを着る必要があります(ローマ13:14、ガラテヤ3:27を参照)。神は、私たちに結婚式の衣服を提供してくれました。しかし、このたとえ話の男は、自分が十分良い上着を持っている(独善)と考えています。

貧しくとも、まったく問題ではありません。王は既に用意してくれているからです。誰であれ、自分には価値がないと考えていても、王は結婚式の衣装を備えてくれています。ただひとつ心配しなければいけないのは、古いものを脱いで、新しい物に着替える気持ちがない人のことだけです。

2015年4月21日火曜日

4月21日

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる[ヨハネ7:38]

ここでいう『流れ出る』という言葉に特別な注意を払う必要があります。この言葉は、弁舌における話術、声のトーン、深層心理、雄弁さ、議論や教え方などを使うように勧めているわけではありません。こういった物は、時には助けになりますが、それ自体は、生ける水の川ではなく、また、生ける水を送り出す仕組みでもないのです。『流れ出る』ことは、最も自然な何かをさしています。それは人間の力を必要とせず、ただ下流へと流れていきます。

聖霊のいのちと力は、私たちの霊を通して自然に流れ出ていくものです。それがなければ、どれだけ情熱をこめて説教をしても、聴衆は受身でで聴いてしまいます。時には、彼らが熱心に聴いているように思え、また、理解して、感銘を受けているように思えるかもしれません。それでも、私たちの言葉は、口先から出る賞賛の言葉を引き出すだけで、聴衆に聞いたことを実行するいのちと力を与えることはないのです。私たちが、今日、神のいのちを伝える管となれますように。

2015年4月20日月曜日

4月20日

それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」[ヘブル8:5]

神の教会を建て上げる御業には、あらかじめ定められた計画があります。ことの大小にかかわらず、神はご自身で手順を定めておられます。モーセは幕屋の設計については責任はなく、山で示された型どおりに作ることを託されただけでした。それと同じように、キリストのしもべの栄光は、神への奉仕において創意工夫を発揮することではなく、神の意思を理解して、それを注意深く実行することにあります。主のお考えを知り、それに応じて行動することこそが、キリストのしもべの栄光です。

長年にわたって主に仕えているある姉妹は、かつてこう言いました、『人間には神の仕事をするにあたって自由な裁量はありません』。モーセが幕屋を建てたときは、彼には意思の自由はなく、小さな釘一本、銀で作るか、金で作るか、決定することもできませんでした。ただ、主が命じられたとおりに、すべてのものを作ったのです。

2015年4月19日日曜日

4月19日

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます[マタイ24:14]

神はこの時代の終わりがすぐに来ることを喜んでいます。それによって、神の王国がもたらされるからです。しかし、神の子供たちには、成すべき義務があります。神とともに働いて、この時代を終わりへと導かなければなりません。祈りはそのひとつの方法です。しかし、証しもまた必要です。私たちは、すべて主イエスの『威厳』のために立ち上がりましょう、これまでにはなかったほどに。私たちは、これまでにないほど、主に『統治』されていることを証ししましょう。使徒たちのはたらきを自分で続けたければ、彼らが証ししたものを、私たちも証ししなければなりません。教会は、キリストの勝利、権威、そして王座を、どこまでも、忘れてしまったのでしょうか。臆することなく、『キリストだけがただ一人の王であり、サタンではない』と証しするものであれば誰でも、真に天の御国の福音を宣べ伝えているのです。

2015年4月18日土曜日

4月18日

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」[マタイ14:28]

信者は、特別であること、そして、主にまず従うとという点でペテロを真似るべきです。『来なさい、と言われた(29節)』。主の言葉は約束です。主の約束がなければ、意味のない危険な行動となってしまいます。ペテロは人前で目立つことするのが好きだったと非難する人もいますが、主は、ペテロを叱るどころか、自分のところに来るよう励ましました。主の約束は、主による容認を示します。

人は舟の中のほうが安全と考えるかもしれません。主の後を追って水を上を歩く必要などないのです。それでも、私たちは信者の人生は、信仰の人生であることをあることに気づくべきです。集団の枠組みの中で、信仰を持ったり、働かせたりするのは簡単なことですが、個人で信仰を持ち続けるのは大変です。実際のところ、信仰とは個人的なものです。ペテロは信仰によって水の上を歩きました。そして、これは主の力で許されたのです。

2015年4月17日金曜日

4月17日

そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した[使徒12:1,2]

今日、多くの人がパウロの書いた素晴らしい手紙を喜んで読み、ペテロの偉大な働きを聞き、ヨハネの見た驚くべき啓示を知ります。しかし、パウロに仕えたヤコブのことは簡単に忘れてしまいます。しかし、この事実を見落とすことはできません。ヤコブが身をもって現すものが、神のすべての働きの土台となっています。

ヤコブの苦しみが存在しなければ、主は満足されません。主が、この世界に入って来られたその時、私たちの主イエスは、拒まれた者の側に立っていたからです。それゆえ、主とともに苦しみを味わわなければ、私たちがどれだけ善行を積もうと、主の心を満たすことはできません。ペテロ自身がかつて、こう宣言しました、『このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい』(1ペテロ4:1)。苦しむことによってはじめて、私たちはあらゆるものを克服し、神の永遠の目的を達成できるのです。

2015年4月16日木曜日

4月16日

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです[マタイ26:28]

血と契約の関係とはどのようなものでしょうか?こう言えるかもしれません、血は土台であるのに対し、契約は書面に過ぎない、血は契約の土台を成すものであり、契約は、血の中に立てられた文書を現します。血がなくては、契約が発足することも、それが効力を持つことも、決してありません。神は契約の中に、私たちが受け継ぐようにとくださる物をすべて示し、そして、この契約を主イエスの血で封印されました。私たちが霊的な継承に入るのは、主イエスの血のこの新しい契約があってこそなのです。

2015年4月15日水曜日

4月15日

彼ら(ふたりの御使い)は彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」[ヨハネ20:13]

マリアは主が復活するとは考えてもいませんでした。マタイによる福音書の記録によると4回、主は弟子たちに伝えていました。死んだ後、ご自分が死者の中からよみがえると。しかし、マリアはそのことを全く知りませんでした。あの日、彼女の希望はすべて打ち砕かれてしまったのです。だからこそ、彼女はただ、主のなきがらを求めました。彼女は何も知らなかったのに、主は自分自身の御姿をはっきりと示されました。主に対する願いがあまりに強かったからです。

主はマリアの前に現れました。それは、主に対する飢え渇いていた心を満たすためです。そこにあったのは、主のことでいっぱいになった心でした。それゆえに、主は彼女を求めたのです。こう言わせてください。私たちが、何かを知らなくても、そのせいで、ひどい目にあうことはありません。しかし、主を動かすような気持ちを持っていることは、もっとも大切です。

4月14日

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てたのです[コロサイ3:9]

必要なものより少なく求めれば、嘘をついていることになります。うぬぼれた態度もまた嘘です。正直な人になろうとしてみましょう。それが、どれだけ難しいことか分かるでしょう。広東省に住む私の友人は、ある日、山賊につかまり、有り金を全部出すよう要求されました。クリスチャンとしては、彼は金を持っていないと嘘をつくことはできないと思いました。かと言って、お金を持っているといったら、山賊に身包み剥がされ、何も残らないでしょう。結局、彼はお金を持っていることを認め、ポケットにあったお金をすべて盗られてしまいました。このような緊急の場合には、自分を守るために嘘をつくことは簡単だったかもしれませんが、主に真実を尽くそうとしたために、彼には嘘をつくことはできなかったのです。

2015年4月13日月曜日

4月13日

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです[2コリント5:15]

はっきりと認めましょう。人間のわがままは、祈りにおいても、他のあらゆる面と同じように、明白に現れます。私たちの意見、欲求、計画、追求はどれほど強いことでしょう!すべての面において、自己否定を実行に移さなければなりません。これは、行動だけでなく、祈りにおいても同じくらい重要です。このことを念頭においてください。私たち、購われた者は、主のために生きるべきです。私たちのために死に、今は、私たちのために生きている主のために。我々はすべての面で主のために生きるべきであって、自分のために何を求めてはならないのです。

私たちはよく、祈りとは、自分に何が必要かを語る出口と考えてしまいます。つまり、神に助けを求める叫びであると。私たちには分かっていないのは、祈りとは、神ご自身の必要が満たされるように、神に願っているということです。神が持つお考えは、祈りを通じて信者がそれぞれの目的を達成することではなく、むしろ、神が信者の祈りを通して、ご自分の目的を成し遂げることと理解するべきです。

2015年4月12日日曜日

4月12日

恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです[使徒27:24]

本当に神の約束を持つ者であれば、その振る舞いはいつも、安らかで穏やかです。その人にとって、神が約束されたら、もはや実現されたのと同じことだからです。パウロが、ローマへの旅の途中、海の上で危険に襲われたとき、彼は仲間の乗客の間に立って、こう宣言することができました、『皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています』。さらに、続きを見ると、『こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝をささげてから、それを裂いて食べ始めた』。これが、神の約束に対するパウロの態度でした。これは乗船していた仲間たちに深い印象を与え、結局、『そこで一同も元気づけられ、みなが食事をとった(36節)』のでした。

2015年4月11日土曜日

4月11日

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい[ルカ15:22]

この放蕩息子は、父親に語る言葉を考えていました。しかし、彼は父の愛に動かされ、考えていた言葉、『雇い人のひとりにしてください』、これを最後まで言うことができませんでした。慎重に文脈を読み取ると、父親にそれを言う機会を与えられなかったことがわかります。父はもう十分に聞いたのです。息子が語り終えるのを待とうともせずに、急いで一番良い着物を持って来てこの子に着せ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせるようしもべたちに命じたのです。

こうして救われるものを見れば、神があなたや私をどのように扱うか、明らかです。それは、私たちが考えるような形とはまったく違います。私たちが考えたとおりなら、せいぜい、末永く使用人でいられる程度でしょう。私たちは、自分自身を罪人として考えますが、神は、私たちは子供であると宣言しています。私たちは、自分はいずれ滅びると思っていますが、神は私たちを食卓に座らせてくれます。神の恵みについて、多く語りすぎて危険などということは絶対にありません。私たちは、息子と呼ばれる資格はないと思っていますが、神がされることは、私たちの想像をはるかに超えているのです。

2015年4月10日金曜日

4月10日

確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ…[1テモテ3:16]

本当に神を知っている人は神を現します。これは、信仰に基づいた生活を送ることにほかなりません。神を敬うとはどういうことなのか、大きな謎です。しかし、キリストが肉において現われ(1テモテ3.16)たことで、この謎はすでに解き明かされています。考えてみましょう!ナザレのイエスはは、肉体に現れた神なのです!この栄光に満ちた、神であり、人間でもある方は、きよく栄光に満ちた神のいのちを示してくれました。そして今日、このいのちは私たちの中にあり、私たちを通して現されなければならないのです。

はっきりと、理解しましょう。神を敬うことは、禁欲的な修行とは異なるものです。むしろ、生活における意識の持ち方のことであって、神のいのちの性質に即した生き方のことです。使徒パウロは、神の人が追求すべきことがらを並べることで、信仰の意味を示しています。『しかし、神の人よ。…正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい(1テモテ6:11)』。私たちの新生の日には、『主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(2ペテロ1:3)』。

2015年4月9日木曜日

4月9日

私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです[コロサイ1:28]

パウロはどうして、これだけの働きができたのでしょうか?すぐあとの節で、彼は説明しています、『このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています(29節)』。『力強く』という言葉は、『爆発する力で』と、訳してもよいかもしれません。言い換えれば、神がパウロの中で行ったことは、爆発する力でした。パウロから外へ向けた働きも同様に爆発するような力でした。使徒が必死で働いたのも、魂から来る強さではなく、この神の爆発する力によっていたのです。この力は、絶え間なく彼の中で爆発し続け、これによって、すべての人を、『キリストにある成人として立たせる』よう、熱心に努力したのです。この生命の力こそが、私たちにより豊かな働きを可能にし、より、絶え間なく努力させてくれます。

2015年4月8日水曜日

4月8日

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです[ヨハネ10:10]

豊かな人生とは成熟した人生です。私たちは、成長することと、人生の成熟に到達することの違いを知っています。子供は、年毎に成長します。しかし、大人になった後は、もはや成長するかどうかでなく、成熟することが問題となってきます。成長の時期しか経験しなかった者は、真に豊かな生活を送っていません。豊かさを実現するためには、熟成の時間が必要です。初めの時期が全てであると考える者は誰でも、自分がすべてのものを持っていると考えてしまいます。こうなると、初めのころの経験は、より深い体験をするために、実に有害なものとなるのです。浅い経験は、私たちが本当に深い経験をすることの妨げとなることもなります。表面的な知識を持つことが、より深い知識を持つことの障害となる可能性があるのです。

2015年4月7日火曜日

4月7日

かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる[出エジプト記12:23]

神は、イスラエル人が門柱に着けておく血に関して何を言われたでしょうか?神は宣言されました、『その血を見たら私は、あなたの家を過ぎ越す』(出エジプト記12:23)。この言葉にはどれだけ、大きな意味があるでしょう!ここで言う『私』とは神ご自身です。すなわち、過ぎ越しとは、神が血を見たら、その場所を通り過ぎることを意味します。血を見つけるのは、神であって、それを着けた人間ではないのです。私たちは、過越の小羊の血の価値を完全に知ることはできません。私たちは扉の内側におり、血は扉の外側に着いているからです。血は、私たちが見るためのものではなく、私たちには見えないようになっています。このために、私たちは信仰が必要となります。私たちには、それを見たり、感じることはないかもしれません。血は神が見るためのものだからで、私たちはただ、信じるだけです。本質的な問題は、血が着いているか?ということにあります。もし、着いていたら、もう何も心配する必要はありません。

2015年4月6日月曜日

4月6日

あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか[創世記3:11]

善と悪を知ることは罪ですか?善と悪を知りたいと求めるのは高潔なことではないのでしょうか?神は、善と悪を知っているのですから。神のようになることは罪ですか?神のようになりたいと願うなら、それは称賛されても良いのではないでしょうか?では、どうして、アダムの行為は、すべての人間の罪と不幸の根源になったのでしょう?いったい何故?表面的には、そのような行動は、良いことのように見えますが、アダムは神の命令や約束のないところで行動しました。そして、神のいないところで、彼自身の意思で、知識を得ようとしたとき、アダムは罪を犯したのです。ここにある、『独立』と言う言葉の重さが分かるでしょうか?独立した行動はすべてが罪です。アダムは神に信頼していなかったのです。自分自身をかなぐり捨てて、神に従うことをしませんでした。彼は神から独立して、行動してしまったのです。知識を得るために、彼は神に対して独立することを明言してしまいました。だからこそ、主はこれが罪であると宣言したのです。

2015年4月5日日曜日

4月5日

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」[マルコ4:40]

ある時、主イエスは、弟子たちに言われました、ガリラヤ湖の『向こう岸へ渡ろう』、と。しかし、突然、大嵐が起こり、波が激しく舟に打ちつけて、水であふれてきたのです。弟子たちは、イエス様を揺り起こし、こう叫びました、『先生、私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか』、主は立ち上がって、風や嵐を叱り付けました。すると、風はやみ、大なぎになりました。そして、今度は、主は弟子たちを叱って、こう言いました、『信仰がないのは、どうしたことです?』。次のことをしっかり、理解しましょう。主が向こう岸に渡ることを命じたからには、弟子たちとイエス様は、間違いなく、向こう岸に行くのです。風がどれほど激しく吹きつけ、波は高まっても、主が命じられたのですから、何物も彼らが向こう岸に行けないように止めることはできないのです。ここから分かるように、もっとも重要なのは、神の言葉を信じることです。神がそう言われたなら、それだけで十分であって、他に意味のあることは何ひとつありません。

2015年4月4日土曜日

4月4日

あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。…しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ[出エジプト記2:12,15]

この出来事は何を意味していたのでしょうか?モーセは、自分の知恵と力はよく知っていましたが、自身の愚かさと弱さをまだ認めていませんでした。神が彼に示そうとしたのは、人が自分自身に頼っていては、できないこともあるということでした。彼は神を助けて、イスラエルの子供を救うことを心から望んでいました。しかし、神には人間の助けなどは、全くいらないのです、人間が、肉的な知恵と力で神を助けようとしても、神がそれを受け入れることは決してありません。多くの者が拒絶されるのは、知恵と力に欠けているからではなく、あまりに、賢明で力強いからです。神はそのような者を用いません。そのような者は、しばらく放置して、熱を冷ますことが必要となります。生まれてから燃え続けている炎が消え去るまで、神は待ち、それからその人を用います。

2015年4月3日金曜日

4月3日

私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように[詩篇90:17]

ある日、あるクリスチャンが、神に仕える者たちと話に行きました。批判されることを恐れて、このクリスチャンは、最大限の努力をして、会話中に謙虚な態度を保つよう勤めました。彼の態度だけでなく、言葉も非常に謙虚な口調でした。しかし、こうして謙虚さに勤めていたのに、近くに座っていた人には彼が緊張しているのがはっきり、分かりました。人は本当に謙虚であれば、必死で見せかける必要はないのです。

彼が、謙虚ではなかったと言うことができますか?いかにも、彼はそう見えたかもしれません。しかし、実際のところ、それは作られた謙虚さであり、魂に属するものです。神がこの兄弟に働いていたのなら、彼は非常に自然に謙虚になれたかもしれません。そうであれば、彼自身は自分が謙虚であるとは感じなかったでしょうし、周りにいた人たちは、むしろ、彼の中に神の仕事を見た可能性もあったのです。

2015年4月2日木曜日

4月2日

ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた[創世記1:6]

初めの6日間になされた仕事に関して、神は毎日の分を良しとされましたが、二日目だけはそう言われませんでした。神は忘れてしまったのでしょうか?そうではありません。神が言われたことも、言われなかったことも同じくらい大切な意味を持っています。聖書は、一語一語が神の霊感です。神は2日目の仕事を、良いと言われませんでした。これは、大空、または、空気が幾分、サタンに関連していたためです。サタンは『空中の権威を持つ支配者(エペソ2.2)』ではありませんか?神には、この大空がサタンとその悪霊の住まいとなるであろうことが分かったので、この日の仕事を良いものとは言われませんでした。こうして、空は闇の王国の中心となりました。このため、集いや祈りに際して、私たちは、空気を清めるよう神に願う必要があり、それは私たちの主の尊い血によってなされます。敵に押し潰されないためです。

2015年4月1日水曜日

4月1日

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます[マタイ11:28]

古代のイスラエル人は、ファラオにただ重荷を軽くして欲しいと願いましたが、重荷をすべて取り除いてくれるようには願いませんでした。このイスラエル人の状況は、今日の人々の状態を表しているのかもしれません。彼らは、荷を軽くしてくれるようにと願うだけで、取り除いて欲しいとは願いません。すなわち、現代人はただ、荷を軽くし、心配ごとを小さくして欲しいと頼みます。私は宣言しましょう。主イエス·キリストが与えてくれるのは、苦しみを軽くすることではなく、完全な休息です。休息とはどのようなものか、知っていますか?それは、何も仕事をしないことを意味します。罪に縛られて、たくさんの重荷で押しつぶされそうになっているあなたには、休みがありません。だからこそ、主イエスは、あなたがたを休ませるために来たことを知ってください。あなたは何もする必要はありません。主はただ、休ませてくださいます。