2015年2月21日土曜日

2月21日

そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった[マルコ6:48]

48節に、非常に大切なことが語られています。主が水の上を歩いているとき、『彼らの横を通り過ぎようとした』とあるのです!これを読んで多くの人が驚くのではないでしょうか。主は、弟子のところに行こうとしていないかのようです。しかし、実際のところ、ここには何の問題もありません。主は、弟子たちに湖の反対側、ベツサイダに行くようにお命じになった後、ご自分も山から降りてベツサイダへと向かわれるのです。主は、他のどこかで弟子たちを待つわけではありません。主は、御自分が弟子たちに向かうように命じた、まさにその場所で彼らに会おうとされます。もし、彼らが行き先を変えてしまったとしたら、主は彼らに会うことはできなかったし、御自分の進む方向を変えて弟子たちを待つこともされなかったでしょう。とても、厳しいことです。

時々、主は私に上海に行くように命じたつもりだったのに、代わりに南京に行くことを選んでしまったのか、主が来られる時には私は引き上げてもらえるのか、考えてこんでしまいます。携挙は主の決めたときところにおいて起こるからです。そして、もしその場所にいなかったら、携挙を見逃すことにならないでしょうか?私たち、一人ひとりが自分がどこにいるか、責任を負っています。

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