2015年10月15日木曜日

10月15日

私にとっては、生きることはキリストです[ピリピ1:21]

神が、あなたをキリスト者にするとき、人が猿に服の着方、食べ方、動き方を教えるようなことはしません。猿に人と同じ生き方をするように教えれば、大きなお重荷となり、人間になることを学ぶより、そのままの姿で生きることを選ぶでしょう。

イエス・キリストは私たちのいのちであり、私たちの中ですべてを行われます。神は、キリスト者にこれをしろ、とか、あれをしろと要求はなさいません。パウロは、『私にとっては、生きることはキリスト』と述べ、また、自分の中にキリストが生きていることの故に、むち打たれることも、どのような迫害、危険、エルサレムでの投獄、そしてローマへの移送にすら耐えることもできます。それは、彼がキリストのようであるからではないし、キリストのように振舞ったからでもなく、中に住んでいたキリストのゆえにこそ、こういったものに耐える力を見るのです。猿が人間に変わることが決してできないように、キリスト者がキリストの真似をすることもできないのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿