2015年12月21日月曜日

12月21日

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです[1コリント1:29]

生活と仕事において、信者の進歩を最も妨げる要因はその肉にあります。人は自分の肉を、すべて否定するようにという神の呼びかけに気付いていないのです。罪から離れるだけ十分だろうと想像しています。神の働きを助けるための能力、情熱、知恵、また、霊的な生活における自分の善良さと力、どちらに対しても、神は等しく不満足であることを人は知りません。肉に従って私たちがよいと考えるもの、肉の手段によって計画し、用意するものはすべて、自分で拒否し、死へと明け渡し、神に基づいて審判を受けなければなりません。主には肉の助けは何の役にも立ちません。これは、霊的な生活、霊的な働き、どちらにおいても同じです。

2015年12月20日日曜日

12月20日

彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとした[マルコ15:23]

これは十字架の上で、味合わされる痛みを和らげるためだったと言われています。しかし、私たちの主はそれをお受けになりませんでした。主は苦しみから逃げることを拒まれました。この世に来られる前、主は『まずすわって、その費用を計算』しました(ルカ14:28)。主は世のすべての罪人を心から愛されたので、彼らのすべての苦痛を喜んでその身にお受けになったのです。主はむしろ、罪人の死を、ただこの一度で完全に味わい、それによって、彼らが永遠の命を受けられることを望まれました。主は、罪人が持つあらゆる苦しみを敢えてご自分の身に受けられましたが、それは、彼らが主の正しさを喜ぶことを望まれたためでした。

12月19日

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです[創世記3:5]

神にとって、ご自身の外側からなされた行動はすべて罪です。『神のようになりたい』、たとえば、これは立派な願いです。しかし、神の命令をきいて、神の時を待つことなしに、これを試みようとすれば、それは神の目には罪と映ります。私たちはいつも、悪い事柄を罪とみなし、良いことを正しいと考えてしまいます。神の考えは、しかし、これとは異なります。良いものと悪いものを見かけで区別するのではなく、神は物事がどのように成されるかを見極めます。その言動が世の中に対してどれほど立派に見えようとも、神の御心を求め、神の時を待ち、また、神の力により頼むことなしに、信者が行ったことはなんであれ、神の目には罪を犯したことになるのです。

2015年12月18日金曜日

12月18日

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです[コロサイ3:11]

イエス・キリストは信仰の創始者であり、完成者であると言われています。私たちの信仰は、主の中に始まり、主の中に終わります。私たちが信じるものは、主の中だけにあります。私たちはただ、主を追い求めなければなりません。神聖さ、勝利、完璧な愛、御霊による洗礼、魂を獲得したいと言う渇望、どのような霊的な闘いも、私たちの主への思いを奪い去ることはありません。初めから終わりまで、それは主イエス様ご自身です。私たちの信仰は、主を終わりであると共に、始まりであると捉えます。主以外に何も見るものはありません。当然のことながら、主イエス様を見つめ続ければ、清さ、勝利、そしてこれらのもののすべてがいのちの中に現されます。許し、正しさと新生がキリストの中にあります。御霊の清さ、勝利、完全さも同じようにキリストの中にあります。キリストこそすべてです。主は、すべての始まりの始まりであり、すべての終わりの終わりです。簡単に言えば、私たちのすべては主のうちにあるのです。

2015年12月17日木曜日

12月17日

それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない[レビ記6:5]

罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえにはその性質において、基本的な違いがあります(第2節を参照)。罪のためのいけにえは『なだめ』のために行われ、罪過のためのいけにえは『償う』ために捧げられるからです。

私たちの罪は、神の前で、神の子羊の流された血を通して、和らげてもらわなければなりません。私たちが人間に対して犯した罪は、どのような物であろうと、償わなければならず、和らげることはできません。預りものをごまかしたり、不正なやり方で利益を得た場合は、相手に対して償う必要があります。償いをしないのなら、罪過のためのいけにえを捧げることはできません。主イエス様の血を通して神の許しを得ることは真実です。しかし、人に対して罪を犯しながら、それを償うことを拒否すれば、神との対話は失われます。過去に行ったことを考えるといつも、良心が咎められるでしょう。そのような状態で、神と自由に交わることはできません。

2015年12月16日水曜日

12月16日

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです[マタイ5:8]

『心がきよい』とは、ただ神の栄光と御心がなることだけを目的としていることを意味します。このような人は神が得るもの意外は何一つ求めません。神は、探求する対象であり、同時に最終的な答えでもあります。ただひとつのもの探す人は、ただひとつのものを見ます。神を求めるからこそ、その人は神を見るのです。『彼らは神とキリストとの祭司となる』(黙示録20:6)。司祭とは神を見る人のことです。誰も、神を見るという恵みを失うことがありませんように。

2015年12月15日火曜日

12月15日

このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました[1ペテロ4:1]

ここで言われているのは、どのような武器でしょう?それは最良の武器です。キリストが苦しみを受けたときと同じ心で武装しているからです。神に従順である時はいつでも、あなたの人生はとても苦しいものとなり、誰からも厳しい扱いを受けると、告げられるでしょう。これに対して、あなたはキリストのこと、主がどれほどの苦しみを肉において受けたかを想い、このため、あなた自身も苦しまなければならないことを思います。

これが私たちの武装です。私たちは苦しみを受けるのです。苦しむことは私たちの義務だけでなく、私たちの職務でもあります。苦しみを受けるのは私たちの仕事のようなもので、私たちはこれを心から喜んで受け入れます。このような武具で武装すれば、あなたと私は何者をも打ち負かすことができます。苦しみを受けることを恐れず、むしろ、喜んでそれを受け入れるのです。苦しみを目の当たりにして怖気ずくことなく、逆に自分から向かって行きましょう。

2015年12月14日月曜日

12月14日

イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」[マタイ24:2]

人の目に見えるものは外面であり、一時的なものに過ぎませんが、主はその霊的な力によって、視覚を超えて見通すことができます。現在の人間の目に、美しく映るものはこの世であり、文明化されているのは物質に過ぎません。しかし、主の持つ霊的な視覚を通せば、人間にも、地上にあるあらゆるものはいつの日か、焼け落ちるという事実を覚えることができます。私たち信者は、なぜ、それでもなお、この世のものを心を奪われるのでしょう?弟子たちには分かりませんでしたが、世界がどれほどよいものであろうと、すべてが火の中で燃え尽きる日がくるのです。

2015年12月13日日曜日

12月13日

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です[1コリント12:12]

マタイによる福音書を読むとキリストのある面を知ります。マルコによる福音書を読むと、キリストの別の顔に気付きます。ルカによる福音書を読むと、キリストの清さのさらに違った側面が見えてきます。そして、ヨハネによる福音書を読めばキリストの栄光について、また別の面を見ることができます。これに加え、ペテロの手紙を読むと、キリストの荘厳な輝きを拝し、パウロの手紙を読めば、そこにはキリストのことがまた別の形で表されています。また、ヨハネの手紙をたどれば、キリストの栄光ある美しさの記録は、これまでに書かれたあらゆるものに勝ると告白せざるを得ないでしょう。これらすべてのことから、私たちの主は誰よりも偉大なお方であり、信じる者は年齢や国籍にかかわらず、主のことを語らずにいられないのです。キリストのみ体は、主の命、そのさまざまな美しさと栄光が、個々の器官を通して、現れているところです。

2015年12月12日土曜日

12月12日

信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました[ヘブル11:21]

神はヤコブの杖のことを自らの言葉で語っておられます。家から出て行ったときも、家に帰ってきたときも、エジプトに向かった時も、その人生を通して、ヤコブはいつも杖を持っていました。これは、ヤコブが人生全体を巡礼者として生きたことを示しています。だからこそ、神は喜んだのです。

これからは、私たちも巡礼者としての人生を送ることになります。世の暮らしに戻ることはないのです。あなたの手には杖がありますか?エジプトに残るか、それとも、荒れ野を旅して約束の地、カナンに達するか、あなたはどちらだと思いますか?あなたが住む世界は、単なる通路に過ぎず、死んだ後は墓石しか残らないのです。通路と墓石、この二つの他には、あなたはこの世と何のかかわりもないのです。