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2015年9月30日水曜日

9月30日

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません[ヨハネ5:39,40]

もし誰かが、祈りも、自分の力を明け渡すことも、精霊に完全により頼むこともしないでく、本や教師や聖書自体から、何らかの宗教的な教えを受け取ったとしたら、その人は知識を自分の心の力の中で受けたのです。心の力で真実を受けるということは、精霊を介さず、本、教師や聖書から直接それを受け入れることです。パリサイ人はこのような形で聖書を直接知っていました。そのため、彼らの手の中に最後に残ったのは、死んだ物であり、そこには、神の前の生きた経験が欠けていました。神の言葉は人をご自身の近くに引き寄せられ、神ご自身が御霊であるからです。

2015年9月29日火曜日

9月29日

七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である[黙示録1:20]

黙示録の最初の章に、教会は金の燭台であると書かれています。神はご自身の言葉で、教会は金でできているというだけでなく、教会は金の燭台であると言われます。教会が金でできているだけであれば、神の心を満たすことはできません。なぜ神は、教会が金の燭台であると言われるのでしょう?それは、金の燭台は光を広げ、その光が遠くまで輝き渡る働きをするからです。神は、教会に輝く器であって欲しいのです。それは、証しの器です。すべての始まりから神は、教会が燭台であるように命じられていました。特定のどこかのことではなく、全ての教会です。神の目から見た教会は燭台です。したがって、金であるだけでは、それが神に属することを表しているに過ぎず、十分でありません。それは神のために輝きを放ち、金の燭台として神を証ししなければなりません。

2015年9月28日月曜日

9月28日

(キリスト・イエスは)ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです[ピリピ2:7]

この意味するところは、主がご自分に課される制約を受け入れたと言うことです。天においては、主は望むところ、どこへでも行くことができます。しかし、主が肉体を与えられ、人と同じ姿を取られた後で、主は赤子から大人へと成長されました。主は、人間と同じように年月を経て大人になり、人間として、食べ、飲み、また、眠り、休息を取られました。これにより、主の神としての性質は大きな制約を受けました。事実、奴隷と言うかたちを取られることで、主の行動はいっそう大きく制限されたのです。人であれば、主にはまだ人間に許された自由は持っていましたし、人の持つ楽しみを味わうこともできました。しかし、奴隷のかたちを取られたために、普通の人間の持つ自由さえも犠牲とされたのです。主はあらゆる面で制限され、束縛されました。主は、父の御心以外、何も知りませんでした。人となられた主はどれほど大きな制約を受け入れなければならなかったことでしょう!無限の力を持つ神でありながら、主イエス様は行動の制約を受けいれました。そして、人間になられただけでなく、さらに大きな制約をも受け入れたのでした。

2015年9月27日日曜日

9月27日

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません[マタイ16:18]

門は入り口であり、出口でもあります。ハデスも死も、信者や教会をつなぎ止めることはできません。そこには既に朽ちないいのちが現れているからです(2テモテ1:10を参照)。この朽ちないいのちはハデスから出て来たものです。主は御自身のいのちを、自由にハデスの中に入れたり、外に出したりする権威を持っているからです。ハデスにはこのいのちを引き留めておく力はありません。そして、信じるものに与えられたのもまったく同じいのちです。この理由から、ハデスは私たちも引き留めることはできません。どれほど環境が艱難、迫害、悪意、殺人などに満ちたひどいものであろうと、また、行く手を壁で遮られていても、私たちにはいのちがあり、それは何があろうと、抑え込まれることも、押し潰されることもありません。

2015年9月26日土曜日

9月26日

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい[ヘブル12:2]

イエスから目を離さないとはどういうことでしょう?自身を見つめることではありません。イエス様の方に目を向けると、主に惹きつけられ、自分の内なる世界から離れて、目を向けたお方とともになります。あなたが見ているイエス様はどんな方でしょう?あなたの信仰の創始者であり、完成者でもあるイエスさまを見ています。これがイエス様の全てを語っています。霊的な成長の秘訣は、したがって、どうすれば、自分の状態にこだわらずにいられるかを知ることです。どうすれば自分自身を見ずいられるかを知っている者はまことに幸いです。神の御霊が啓示を与えて下さり、『目をそらす』とはどういうことか、自身の過去に無意味に捕われずにいるにはどうすればよいかを、示してくださいますように。

2015年9月25日金曜日

9月25日

私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか[ヘブル12:1]

この競争を走り続けている私たちは、『忍耐を持って』走らなければなりません。なぜ、忍耐が必要なのでしょう?それは、褒賞が出発地点も、中間点でもなく、経路の最終地点で与えられるからです。ゴールに達するまで、報いを受けることを誰も保証できません。残り5歩のところでしくじる可能性もあります。200メートル徒競走で、ある人が他の選手をおよそ20メートル引き離したまま、ずっと走り続けていましたが、ゴールまでわずか2メートルのところで転んでしまいました。勝つためには、集中し続けなければなりません。ゴールにたどり着くまで、これで賞品はもらったと喜んではいけません。使徒パウロですらこう言わざるを得なかったのです。『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ、追求しているのです(ピリピ3:12)。』パウロですら、こう思ったのです。私たちはどうでしょうか?

2015年9月24日木曜日

9月24日

すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです[マタイ24:30]

初めてこの世に来られた後、主は御自分の偉大な権威と栄光を現されました。次に来られる時は、力と栄光を示されるでしょう。初めに降臨されたとき、人々は主の教えと権威に驚きました(マタイ7:28)。パリサイ人は主の権威がどこから来たものかを探ろうとしました(21:23)。百人隊長は主の権威を信じました(8:8-9)。しかし、再臨される際は権威だけでなく、力をも表されます。主は、ろばの子に乗ることはなく(平和の君として)、白い馬に乗ってこられます。神のさばきを行うために力が使われます。主が台を倒し、細なわでむちを作って、羊と牛を追い出した時でさえ、主はそのむちで人を打つことはありませんでした。二度目に来られるときに初めて、主はその力を使われます。

2015年9月23日水曜日

9月23日

塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか[ルカ14:28]

主は費用の計算について語っておられます。ここで主が本当に言いたいことは、人が塔を築くために、自分の持てるもの、すべて注ぎ込む気持ちがあるかということです。たとえば、塔を建てるのに500ドルの費用がかかるのに、300ドルだけ出して、残りの200ドルは他の目的のために取っておきたいと考えてしまうと、自分の取り分を確保したために、費用が足りなくなります。他の誰かのために愛を取っておくような者は、キリストを愛することはできません。人は自分の父、母、妻、子供、そして自身のいのちさえも憎まなければなりません。そういったものを自分の心から追い出すのです。キリストは、人がいくら出すかではなく、自分の持てるものすべてを差し出すかどうかを問われます。

2015年9月22日火曜日

9月22日

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたことを、私たちは知っています[ローマ6:6]

私たちにどうしても必要なのは、主の御霊による啓示を頼み、古い人がキリストとともに十字架につけられたさまを示していただくことです。大きな誘惑に襲われて、私たちの古い人は未だ死んでいないのでないかと不安に感じることがあっても、自分の感情や経験ではなく、神が成し遂げたことを固く信じるのです。これを真実であると心から認めるなら、自分も同じことを経験するでしょう。神の真実は、私たちがそう信じるから事実となるのではないことに注意しましょう。むしろ、神の真実が既に事実であるからこそ、私たちはそれを信じるのです。

人が誘惑され、試みを受けているときはいつも、神の言葉に信頼しなくてはならないし、神の真実は自分の感覚よりも、大きな信頼に足るものです。人が神の言葉を完全に信頼するなら、神は責任を持ってその人に経験をさせてくださるでしょう。過去の誤った経験を振り返るなら、その人は打ち負かされ、将来も前向きな経験をすることはできません。神の真実を信じることによって、私たちの霊的な生活は日々、前進します。

2015年9月21日月曜日

9月21日

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません[1ヨハネ2:15]

ある時、絵画展が開かれました。その中で一枚の絵が、寓話的にキリスト者を表現していました。絵の中では、子供の好きなおもちゃがたくさん、当たりに散らばっていました。しかし、子供は、そのどれにも気に止めていないようでした。代わりに彼の目は、窓に釘付けになっており、手を窓の方に伸ばしていました。その絵を、離れたところから見ても、なんの意味があるのか分かりませんが、近づいてみると、きれいな小さい鳩が一羽、窓の敷居にとまっていることに気付きます。そして、絵の下の非常に長い説明があり、小さな可愛い鳩が欲しいばかりに、その子供はどんなおもちゃもいらなくなったと、解説しています。ここから絵に隠された意味が明らかになります。すなわち、もっとも優れたものを手に入れるために、他のものすべてを捨てなければならないのです。神は、私たちに何かを捨てるように強制することはありません。代わりに、私たちの目の前にもっと優れた何かをおきます。もっと優れたものを手に入れるために、人は自然に、意味のない多くのものを捨てることになります。

2015年9月20日日曜日

9月20日

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい[1コリント10:31]

正しいか、間違っているか、善か、悪か、霊的に価値があるか、ないか、これらのことがらは全て、神の栄光の存在によって計られます。人間の目には、些細でどうでもいものに見えても、それに触れることで正しく神の栄光にふれることもあります。そして、神の栄光に触れることで、自分が既に神の導きを得ていることがわかるのです。そうなればもう、待つ必要はありません。何かの働きをしている時、それにあまり価値がないとか、何かがうまく行っていないと感じることがあるかもしれませんし、一方で、あなたが参加している他の働きの中で、そこには意味があり、本質的に正しいと感じることもあるでしょう。問題は、働きが外から見て大きいか、小さいかではなく、神の栄光がそこに存在しているか、いないかということにあります。神の栄光がなければ、何の意味もなく、神の栄光が存在するところには、大きな価値があります。

2015年9月19日土曜日

9月19日

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません[マタイ10:29]

近代におけるもっとも大きな間違いは、人類全体に対して注意を向けるあまり、個人個人を無視していることです。しかし、神はそうではありません。神は全人類を祝福することを考えていますが、それをひとりひとりの人間からはじめます。神は誰一人、見下すことはしません。『二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。』神の働きのすべてにおいて、父の手を見るべきです。人間は確かに罪を犯し、堕落してしまいましたが、神はその一人も蔑んでいないことに感謝しましょう。神はどれほど、御心を一人ひとりに注いでくださることでしょう。それこそが、私たちの慰めです。神の心だけが、人の心を真に満たしてくれます。

2015年9月18日金曜日

9月18日

さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがあった。それでイサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行った[創世記26:1]

概して言えば、エジプトには飢饉はありませんでしたし、飢饉になりかけた時も、古い穀物のたくわえがありました。しかし、カナンの地ではよく飢饉が起こったようです。霊的に言えば、これは次のことを語っています。この世界において、この世にいるだけでなく、世に属する者が飢えることは、実際にはほとんどあり得ません。しかし、神への従順への道を歩んでいる者には、時に飢饉がもたらされます。較べてみますと、地上では、ほとんど、あるいは、まったく苦難がなくても、従順へと向かう道筋には、多くの試練が待っています。苦難がどれほど大きくあろうと、神のいるところ、常に脱出の道も備えられています(1コリント10:13を参照)。ですから、真実を尽くすと同時に、いつも目を覚ましていましょう。

2015年9月17日木曜日

9月17日

人が主に対して罪を犯し、不実なことを行なうなら、…あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなら、…[レビ6:2,3]

あまり、真剣に考えないかもしれませんが、これはやはり不誠実な行為です。落し物を自分のものにしても、間違ったことは何もないと考えてしまうかもしれません。それでも、神はそれを不正な行為であると明言しています。キリスト者は、他の人のものを取って、自分のものとすることはできません。多くの人は、他の人のポケットより、自分のポケットに多くのお金が入ったほうがよいと考えるでしょう。しかし、それは正しい考えではありません。ハンカチ、帽子、万年筆や手紙、なんであろうと、拾ったものを自分のものと考えることはできません。それは正しくないことだからです。過去には、そんなことを平気でしていた人も、今は持ち主に返すようできるだけのことをするべきです。無くした人が取り戻せるようにするか、紛失物をその土地のお役所に届けるようにしましょう。そうでなければ、罪を犯したことになります。

2015年9月16日水曜日

9月16日

彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた[マタイ25:15]

5タラントと2タラントを渡された二人には、それを誇ったり、満足する理由などありません。一方で、1タラントしか渡されない者にも、恥じ入ったり、妬んだりする必要があるでしょうか。今日の教会における信者は、大きな者をありがたがり、小さなものを見下すのではないでしょうか!これらはすべて肉の行いです。

1タラントしか渡されなかった者は、最も大きな誘惑を受けます。彼はこの贈り物を、土の中に埋め、怠惰になってしまいがちです。彼は、少ししか渡されなかったことを恥じているのです。彼はまた、それを元手に商売をしてもほとんど儲けにはならないことも知っています。そのため、彼は賜物をただ地中に埋めてしまいます。彼はすばらしい説教をして、一度に数百人を救うことはできないし、目を見張るような大きな働きをすることはないかもしれませんが、それでも、主のために何かの小さな働きはできるのです。神が小さな賜物をくださる時は、私たちも、小さな働きをするようにと望む心を持てますように。

2015年9月15日火曜日

9月15日

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を[詩篇42:11]

多くのクリスチャンは、あまりに感情のおもむくままに生きています。楽しく幸せな気持ちでいられた日は、今日は神が本当に祝福してくれていると言います。しかし、冷たく退屈な日を過ごした時は、こんな風に言いたくなってしまいます、神がどこにいるかどうして分かろうか?このように、多くのクリスチャンが感情に依存し、自分の気持ちを見失うと、戸惑ってしまいます。ここから分かるのは、彼らが本当の意味で主を知らないことです。冷たくても暖かくても、単調であろうと、波乱があろうと、そんな感情は何の問題にもならない、自分は既に神を知っていて、どんな感情よりも深い知識がある。そう言える段階まで、神の子どもたちは、主に移されなければなりません。外に向けて、さまざまな感情が湧き出しても、それが楽しみ、痛みであれ、心の中では知っている。そのような人だけが、どれだけ揺さぶられても、持ちこたえることができます。

2015年9月14日月曜日

9月14日

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです[2コリント3:18]

銅細工師は金型に溶けたままの銅を注ぎ、その銅は固まると金型の形となります。また、お菓子作りを例にとっても、人が金型に用意した生地を入れると、それがその形をしたケーキとなります。この例えのように、私たちは主のようになるべきです。『御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた』、とパウロがローマ書8章29節の中で述べているとおりです。これは、私たちがいずれは、栄光に満ちて人の姿を取った主のようになることを意味しています。人間が、神の供えた金型に合わせて、本当に変わるためには、その人の内なる性質が変容をとげなければなりません。すなわち、神のいのちを自分の霊へと受け入れ、そのいのちを自分の全存在の中に浸透させなければならないのです。それは、生まれたままの性質が変化し、その姿が完全に変わってしまうところまで行う必要があります。主の霊は一歩一歩働かれます。それは、『栄光から栄光へと』進みます。主を褒め称えましょう!

2015年9月13日日曜日

9月13日

あなたがたは主キリストに仕えているのです[コロサイ3:24]

神に仕えることと、神のために働くことはまったく違います。神のために働く者はたくさんいますが、彼らは神に仕えてはいません。働きが信仰に基づくものであるか、それが本当にキリストのためかどうかは、動機と目的から判断できます。自分を大きくするためとか、自分が属する集団のため、また、自信の勉強のための労苦をしてはなりません。ただキリストのためにのみ働くべきです。神が何かを得ることが私たちの喜びです。自分たちの働きから出たものでなくても、神が何かを得られたら、それは嬉しいことです。私たちが踏み出すのは、自分の修練のためではなく、罪びとを救うためです。自分の心を満たすためではなく、ただキリストの心を満足させるためです。

2015年9月12日土曜日

9月12日

強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです[マタイ12:29]

強い人を縛りあげるとは、神の御霊を通して行われることです。御霊の力が、悪霊を追い出すために必要です。悪霊は、主の御名によって追放されますが、これは御霊がその御名の力であるからです。

強い人を縛り上げられるには、どうすればよいでしょう?それは、主イエス様の十字架を間接的に介して行われます。十字架の上で主はサタンの頭を砕きました(創世記3:15を参照)。十字架がサタンの頭に立ち向かい、その力と支配を破壊しました。しかし、主が死者の中からよみがえり、天へと昇られた後、御霊が地上に降りて、主が十字架で成し遂げられたことを実行に移しました。それ故、サタンを縛り上げるのは御霊の力であり、それは十字架を基にして行われます。私たちの方は、信仰の祈りを通して、サタンを縛りあげます。私たちは祈りによって強い人を縛り上げるべきです。したがって、主の働きにおける、すばらしい原理は、まず縛りあげてから、力を失わせるということです。

2015年9月11日金曜日

9月11日

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます[ルカ17:32-4]

この2人の間に、違いはないように見えます。場所も、働きもほとんど同じです。それでも、携挙の時には、違いが示されます!この一瞬に、なんと大きな違いが現れることでしょうか!

最も深刻な問題がここに示されています。携挙に及んで引き上げられ、主に会い、そして、天の御国に入ることを望むなら、まずは、今この時の魂を捨て去る必要があります。主のために、私たちは世界を捨て去り、神の御心に沿わないあらゆるものを捨て去り、私たちを縛り付けるあらゆるものを捨て去り、そして、上にあるものへの想いを妨げるすべてを捨て去る必要があります。私たちがロトの妻のように、ただ自分の魂を守り、何も捨てたくないと思ってしまえば、引き上げてもらうことはできません。そうなれば、ソドムとゴモラで罪人とともに滅びることはないにしても、主に引き上げてはもらえません。永遠の命に違いはないかもしれませんが、携挙においては違いが示されるでしょう。