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2015年1月31日土曜日

1月31日

それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった[マタイ18:26-27]

このたとえ話に出てくる主人だけでなく、天におられる私たちの神は更に大きな慈悲の心に突き動かされています。それは、しもべが借金を返したいと望んでいるからではなく、後者の悔い改めと謙遜と慈悲を願う心の故です。主は、しもべには借金を返すことができないことを良くご存知であられ、それゆえ負債を免除します。『許した…免除した』、この二つの動詞は、この時代に起こる出来事を説明しています。もし、このような出来事が、後の時代に起こり得るとしたら、主の義は危うくなるでしょう。今日、神は許すだけでなく、すべての負債を免除してくれます。神の寛大さは常に人間の予想を超えています。

2015年1月30日金曜日

1月30日

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす[黙示録3:12]

真実の主の器は、初めから今日に至るまで変わっていません。すなわち、個人的な何かではなく、共同体としての性質を持つものであり、言葉を換えれば教会です。

教会ではどのような人が勝利者となるのか、知りたいと思うでしょう。確かに教会には勝利者が必要です。しかし、こういった勝利者たちの証しは、個人ではなく、組織の利益のために求められるものです。勝利者とは、自分が有能だと信じている人々、他の人より自分の方が優れていると自負して、彼らを押しのける人たちとは違います。決してそうではありません。組織全体のために働く人たちです。そのような人たちの働きによって、教会全体が利益を受けます。勝利者とは自分たちのために存在するのではなく、むしろ、教会を守るために立ち、教会を成長へと導きます。こうして、克服した者が勝利を得ることが、教会の勝利へとつながるのです。

2015年1月29日木曜日

1月29日

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ[イザヤ59:2]

R.A.トーレーがある場所で講演していると、一人の大学生が彼の前に進み出て、こう言いました、『私は以前は神を信じていましたが、最近はもう信じていません。あれこれ本を読みましたが、結局は、神の言葉から遠ざかってしまいました』。トーレー氏はこう応えました、『私を騙そうとするのはやめなさい。私だって大学生だったんですから。私もたくさんの本を読み、博士号を取りました。しかし、私は神の言葉から遠ざかることはありませんでした。ひとつ、質問させてください。あなたは今は神を信じていないと言うことですが、生活の道徳面ではどうですか?』。これに対して学生は、率直に答えました、『正直に言うと、私の行動は倫理的には、以前ほど良くありません』。ここですぐに、トーレー氏は次のような鮮やかな言葉で締めくくったそうです、『あなたと議論する必要は私にはありません。ただ、悪い行いをやめ、道徳的な生活を始めれば、神はすぐにでも戻ってきます』。なんという事実でしょうか。多くの人が神を信じることができないのは、正当な理由があるからではなく、彼らの罪の重さが信仰から妨げているのです。彼らは無心論者への道へと向かわされます。

2015年1月28日水曜日

1月28日

私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った[ダニエル10:8]

豊かな人生は啓発からもたらされます。上に光が照らされるとき、私たちは豊かになります。不思議なことですが、このような啓発を受けるとき、自分の側では盛んになるというより、衰えていくような気持ちになります。これは光の明るさが、過去の物の見方を打ち砕くからです。元から持っていたものが打ち壊されます。神から照らされる光のもとでは、私たちは盛んになるのですが、実際にはそのようには感じません!もし、すべてに神が光を当てられたかのごとく、あなたが自分は盛んになったと思い込んだとすれば、現実にはあなたには何も見えていなかったのです。しかし、本当に真実を見ることができた時、感覚的に言えば、ただ虚しさを感じ、霊的な人生の旅路をまだ歩き始めてもいなかったかのように思うことでしょう。真に豊かな者は、自分自身は神の光の元では何の価値もないと感じるものです。

2015年1月27日火曜日

1月27日

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです[ガラテヤ2:20]

特別に注意しなければいけないことがひとつあります。神が私たちのために用意された完全な救いは、完全な形で受け取らなければならないということです。私は罪のない完全な世界があって、そこでは、罪の源が根絶されるとは信じませんが、神が私を力の及ぶ限り救ってくださることは信じています。私は、十字架が私を滅ぼすとは信じていませんが、主がそこで死なれたことは信じております。神が私の罪の根源を取り除いてくれたのではなく、神はキリストを私のうちに生きるようにと与えてくれるのです。キリストは、かつて十字架で私のために死にました。今、彼は私のうちに、私のために生きています。神の救いは、私の罪の贖いの全範囲に及びます。不機嫌さ、不浄、不安や肉欲を持ち続ける必要はどこにもありません。神は、私たちを悪から解き放つことができ、また、善いものをくれることもできるのです。

2015年1月26日月曜日

1月26日

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか[マタイ7:3]

この前の節(1~2節)において、主は、私たちに裁くことをしないように警告し、代わりに慈悲深くあるようにと勧めておられます。この箇所で主は、人を裁くことは間違いであることを教えてくれます。自分の目に梁があることは、間違いありません。誰かが他の人の目にちりを見たとき、その者は明らかに自分自身の目に梁があるからです。それは何故でしょう?なぜなら、非常に小さなちりを、兄弟の目の中に見るということは、あなたはちりを見つける専門家であるに違いないのです。あなたにはこのような罪を犯した経験があるからこそ、極めて簡単にそれを見つけることができるわけです。古い中国の格言にもありますが、泥棒を捕まえたければ、前科者を雇えというではありませんか。自分自身の罪が重いほど、人は兄弟の失敗には批判的になる傾向があります。

2015年1月25日日曜日

1月25日

私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています[ローマ9:1]

新生に際して、私たちの良心も復活します。主イエスの血が良心を洗い清め、穢れなく、研ぎ澄まされたものとします。聖霊は私たちの行いのことを、良心の中に語りかけてきます。間違いを犯したら、私たちの良心に働いて、たしなめるのです。どのようなことでも、良心が咎めるときは、疑いなく、神の非難を受けたのだと言うことに注意しましょう。このことから、私たちの良心が何かを間違っていると宣言したのなら、それは間違っているのです。その何かを、悔い改めて、告白し、主のかけがえのない血で清めらなければなりません。私たちは、恐れることなく、神に仕えることができます。そのためには、汚れなく、はっきりした良心がなければなりません。

2015年1月24日土曜日

1月24日

また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし…[コロサイ1:11]

神の力が内側で働く時、信者の間には平和と調和が見られます。神の栄光ある権能は、神の力の中でもっとも偉大なものです、このような栄光に満ちた権能を与えられたことで、私たちは、人間にはとても想像もできないような奇跡的な功績をあげることができるのです。『忍耐と寛容を尽くし、・・・・喜びをもって』、これは神の力のもっとも偉大な現れです。面倒を起こす信者に対して忍耐を持つことは、祈って神の答えを受けるよりも難しいことです。忍耐強くあるのは苦しいことですが、神の力が、それを可能にしてくれます。キリスト者が神の力の働きを受け、それに満たされると、その人が人々と平安を保ち、忍耐強く、また寛容になるのが分かります。

2015年1月23日金曜日

1月23日

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい[マタイ16:24]

自身を否定するとは、自分自身の存在を無視し、また、自分の持つ権利を捨てることを意味します。自分自身を否定するとは、神の御心を探る中で、自我を退けるこであり、これによって、すべてにおいて自分の心には従うことをやめ、自己中心を排除することに他なりません。そのような人だけが主について行くことができます。これは、分かりきったことです。自分自身を求める人が、どうして主について行くことができましょう?

『自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』、これは自身を否定するより、更に深いことです。自分を否定するとは、自分の存在を軽視するに過ぎないのに対し、十字架を背負うことは神に従うことを意味しているからです。十字架を背負うとは、神がその人に対して定めたことを必ず受け入れること、そして神の意思に沿った苦しみを喜んで受けることを意味します。自身を否定し、十字架を背負うことで、本当の意味で主に従うことができます。

2015年1月22日木曜日

1月22日

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った[マタイ14:30]

水の上を歩いた時、ペテロは決して強風に気を取られてはなりませんでした。彼は、主の御言葉をいただいていたのですから、風や波を見てはいけなかったのです。それを見たために、彼はあっさりと、主の御言葉を忘れてしまいました。第一に、御言葉がなければ、どれほど静まりかえっていても、決して水の上を歩くことはできません。水の上を歩くということは、風や波のおかげでできる分けではないのですから、それらを見てはいけないのです。誰でも、主だけを見なければならないのです。

2015年1月21日水曜日

1月21日

私ヨハネは、・・・神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた[ヨハネ黙示録1:9]

神の言葉とイエスのあかしとに対する強い信仰心を捨てなかったがゆえに、ヨハネはパトモスと呼ばれる島に流されました。人間的な見方をすれば、ヨハネにとって、こんなに孤立した場所に置き去りとされたのは、さぞかし、孤独で惨めな経験と言うことになるでしょう。しかし、彼は不平も不満も言いませんでした。それは、自分が誰のために苦しみを受けているかをよく知っていたからです。神を褒め称え、感謝せよ。このような状況でこそ、栄光あるキリストは彼に現れ、新たな啓示と、よりいっそうの信頼とを彼に与えました。このときのヨハネのために、地は引いてゆき、天は開けてゆきました。この出来事を思うと、塔の中のヨセフ、荒れ野のモーセ、試練が続いたダビデ、囚われの身となったパウロを思い出さずにはいられません。彼らがどうして生き生きとした啓示をいただいたかということを!ここからヨハネは、これらの人々の足跡を追い始め、それまではまったく知らなかった啓示を受けました。そして、王座に座る主を知ることとなったのです。

2015年1月20日火曜日

1月20日

それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、あなたがたに与えるであろう[ヨシュア記1:2-3]

カナンの地に入ろうとしていたのはすべて、信仰を持った人たちでした。彼らは神の言葉をしっかりと握り締めたままヨルダン川を渡りました。しかしヨルダンを過ぎた後、彼らはすぐにすべての土地を手に入れたでしょうか?サタンは決して、神を信じる人たちにそんなに甘くはありません。エリコの壁は高く、城壁の扉は硬く閉じたままでした。こんな状況に陥ったとしたら、私たちはおそらく神のところへ出向いて不満をぶつけるのではないでしょうか?『あなたはカナンの地を私たちに与えるとおっしゃったのに、川を越えてここに来ても、エリコの壁はこんなに高いし、街を護る門は堅く閉じています。約束されたことと違うではないですか?』イスラエルの子供たちは、そのようなことはしませんでした。彼らは神の言葉を信じ、神の約束をあらためて心に刻みました。彼らは町の城壁の周りを一日一度、7日間、回り続け、7回目に街の周りを回ったとき、叫び声をあげると、それに応えるように、エリコの壁は崩れ落ちたのです。そして、それから後、次々と街を占領し続けたのでした。

2015年1月19日月曜日

1月19日

はじめに神は天と地とを創造された[創世記1:1]

ほとんどの人々は、中国人、バビロニア人や他の古代人の間に伝わっている天地誕生の神話物語を聴くと笑います。科学者は、こんな神話物語には、反証する意味すらないと思っています。何故でしょう?このような伝承自体には、何の価値もないので、注目する意味すらないからです。聖書に対する人々の態度はしかし、まったく違います。多くの人々が聖書に書かれた物語に必死に反証しようとしていることが、聖書の力を証明しています。彼らはこの書物を、各国に伝わる伝説と同じように取り扱ったりしません。この事実こそが、聖書の置かれた圧倒的な地位を示しています。

創世記の第1章を呼んで、その独自さに目を見開かずにいられる人がいるでしょうか?誰でも、知っている話でありながら、あまりに驚嘆すべき物語ではないでしょうか!真実が、これほど分かりやすく単刀直入に示され、理論で説明することもありません。ここに書かれた話が真実そのものであることを、議論して、証明しようと試みる必要などありません。主がご自分で書かれた物と比較しても、主ご自身があまりに大きいため、その著者が本に縛られることはありません。ただ著者ご自身が神であるため、宇宙をはるかに超越しているのです。

2015年1月18日日曜日

1月18日

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である[1コリント1:18]

十字架について説くとき、私たちは十字架の人生を他者に伝える者とならなければなりません。私にとって大きな痛みは、今も多くのものが説教の中で十字架について語っているのに、聴衆は神の人生を受けているように見えないことです。人々はわれわれの言葉を聴き、それに賛同して、喜んで受け取っているように見えますが、そこには神の人生が存在していません。

人間の考え、言葉、雄弁さ、議論は、人間の魂をかき乱すことしかできません。こういったものは人間の感情、心や意思を駆り立てるだけです。しかし、命は人間の精神に届きます。そして、精霊の働きはすべて、私達の精神に対して成されるのです。すなわち、私達の内なる人に対してです(ローマ8:16、エペソ3:16を参照)。私たちが、霊的な経験の中で、命を精神へと送り出すと、精霊は自分の命を、他の人間へと送り込み、その人たちが生まれ変わった命や、より豊かなる命を受け取ることを可能にしてくれます。

2015年1月17日土曜日

1月17日

神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである[ヘブル1:1-2]

神の言葉は、私たちに、古い時代、神がいかにそのしもべを通して、人間に対する心からの愛の願いを私たちに示されたかを教えてくれます。それは、あらゆる場所、さまざまな形で現されましたが、人間の方は、それを理解し切れませんでした。このため、神はご自身がこの世界に降りて来られ、人間となるしかありませんでした。その人こそ、私たちがイエス・キリストと呼んでいるお方です。

栄光の神、ご自身が人間となってくださったのです。これほどの謙虚さがあるでしょうか!すべてのもののはるか上にあるお方が、ご自身を無にして、人間と同じ姿となる責任を負ってくださったのです。主イエスがこの世界で生きた人生全体は、神の愛する心を人間に対し現すことが目的であったと言えるのではないでしょうか。主のこの世での33年間において明らかにされたのは、神の心に他なりません。主がこの世で人間に対して行ったことは、そのまま神が人間に対して行うことです。

2015年1月16日金曜日

1月16日

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図[マタイ1:1]

言うまでもなく、ダビデの息子はソロモンです。主をダビデの息子と言うのなら、主はソロモンのようであると述べていることになります。ソロモンはその人生において、二つの大切なことを行いました。彼は知恵に満ちた言葉を語り、また聖なる神殿を気づいたのです。しかし私たちの主は、預言者としても創造主としても、ソロモンよりも偉大なるお方です。主は御霊を送り込んで、霊の神殿を築き上げられました。

主をアブラハムの子孫として語ることもできます。聖書には、主がイサクと同じようになるはずであったことが記されています。生きていたころイサクも非常に優れたことを二つ行いました。ひとつは捧げ物となる祭壇を整えられたこと、もうひとつはヘブル人ではないリベカと結婚したことです。同じように、われらの主も十字架で犠牲として捧げられました。また、その死と復活によって、主は教会と結婚というかたちで結びつきましたが、その教会は異邦人とユダヤ人の両方から構成されていました。

1月15日

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました[2コリント5:17]

自分が新しく作り出されたと聖書に書かれているのに、自分の姿を見ても、ちっとも新しく見えないじゃないか、と言いたくなる方もいるでしょう。私はもう一度、これにお答えしたいと思います。信仰に欠けている罪人や聖人がどれほど多くいることでしょう!全員がひざまずき、こう祈るよう、お願いします、『神様、あなたを讃え、感謝します。あなたの言葉に、キリストにあるものは新しく生まれ変わった者だ、とあります。私はキリストにある者です。ですから、私は新たに生まれたものです』。誘惑にかられ、お前はまだ古い人間のままじゃないかと言われても、私はキリストにあって新しく作られたものだという神のみ言葉を持って答えれば、サタンは尻尾を巻いて逃げ去ります。ただ、神のみ言葉の側によって立ち、そんな誘惑に見向きもしなければ、それによっても勝利を得るでしょう。なぜなら、勝利は感情ではなく、神のみ言葉に頼るものだからです。

2015年1月14日水曜日

1月14日

神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです[コロサイ1:27]

神の真実はすべてが、有機的に連鎖しています。中心が存在しており、すべての真実がそこに向かっています。神のすべての真実を通じて紡がれる糸とは何でしょう?神のすべての真実とは、いったい何でしょう?主イエスとは誰でしょう?彼こそが私たちの救い主です、と答える人もいるでしょう。しかし、ペトロのように、彼が『神のキリストです』と答えられる人は、ほとんどいないのではないでしょうか(ルカ9:20)。

神の真実の中心にあるのはキリストです。『神の奥義であるキリスト』とパウロも書いています(コロサイ2:2)。奥義は神の御心に隠されているものです。かつて、神はご自身がなぜ、天地を作られたのか、人間を含めて、誰にも語ったことはありませんでした。長い間、このことは不思議なる奥義とされてきました。しかし後に、神はこの奥義をパウロに示され、彼が人々に説明することを許されました。そしてこの奥義こそがキリストであると、この使徒は述べています。

2015年1月13日火曜日

1月13日

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく[箴言4:23]

精神は人間のもっとも高尚な部分ではあるものの、その人を真に表すのは、精神ではなく心です。心こそが本物の『私』であると言ってよく、私たちの毎日の生活でそれがもっと重要なものであることは疑問の余地がありません。箴言4章23節の意味は、人間が結ぶすべての実は、心から外に出てくると言うことです。その品格も同じです。

心は、命の向かう方向を決める道、通路なのです。神が、ご自身の命を私たちの中に入れる前に、私たちの心を動かさなければならないのはこのためです。心に何の悲しみも悔い改めもなければ、神の命も入ってくることができません。神は私たちの心に触れなければならず、これによって私たちは罪の痛みを感じ、神の甘美さとキリストの大切さを味わうことになります。これは私たちに悔い改めさせるためです。

2015年1月12日月曜日

1月12日

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな[箴言3:5]

神に寄り頼むとはなんと難しいことでしょう!利口なものほど、信じることは難しいのです。才能のあるものこそ聖なるものに頼ることは苦しいものとなります。時に、私たちは、神が特別な力を与えてくれるまで待たずに、動き始めます。私たちにとって、自分の才能を否定すること、神の前に完全に無力となって、自分の才能に頼らず、ただ主のみにより頼むことは、最も難しいことです。主は、私たちが自分自身を否定し、自分の力を否定し、すべての言動において、自分の弱さと無力さを認めることを望んでおられます。神からの賜物が現れることがなければ、私たちには、ことばを発することも、何かの行動を取ることもできないのです。このようなかたちでのみ、主は、私たちがご自分により頼むことを望んでいるのです。

子供がまだ幼い頃は、両親からあらゆることを学びます。しかし、成長するにつれ、依存ばかりせず、独立した心を求める力と知恵を自分の中に持つようになります。私たちの神は、私たちが子供として永遠の関係を持ち続けることを望んでおられます。これによって、神を信じ続けることができるからです。