母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」[ヨハネ2:5]
キリストのしもべにとって、もっとも大切なことは、神が自分に何をして欲しいかを知ること、いつ、どのようなかたちでして欲しいのかを知ることです。主に仕える者は、なすべき仕事を自分で計画する必要はまったくありません。新しい契約の特徴のひとつとして、誰にでも神の御心を知ることが許されています。キリストのしもべは自分の心に聖霊の啓示を受けることを認められているので、神が自分に何を求めているかを明確に把握できます。こうして得る知識は本物で、自分の想像から来たものでもなく、他者からの励ましや指導によってもたらされるものでもありません。それは聖書の教えに基づいたものであって、その人の心に宿る聖霊によって、神から命令として、いのちの奥底に示されます。
2015年8月6日木曜日
2015年8月5日水曜日
8月5日
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます[マタイ11:29]
時々神は、慎重な人と不注意な人、強い人と弱い人、健康な人と病気の人、賢い人と無知な人、短気な人と穏やかな人、また、きちんとした人とガサツな人をひとつにすることがあります。これは、どちらか一方がもう片方のくびきとなるためです。これにより、両者ともにキリストの本質を学ぶ機会が与えられます。それに抗うなら、気持ちが安らぐことはありません。しかし、もし神に対し、『あなたがくださったくびきを負います。私は自分の居るべき場所に住まい、従いたいのです』と言うなら、そこに安らぎと喜びを見出すでしょう。
時々神は、慎重な人と不注意な人、強い人と弱い人、健康な人と病気の人、賢い人と無知な人、短気な人と穏やかな人、また、きちんとした人とガサツな人をひとつにすることがあります。これは、どちらか一方がもう片方のくびきとなるためです。これにより、両者ともにキリストの本質を学ぶ機会が与えられます。それに抗うなら、気持ちが安らぐことはありません。しかし、もし神に対し、『あなたがくださったくびきを負います。私は自分の居るべき場所に住まい、従いたいのです』と言うなら、そこに安らぎと喜びを見出すでしょう。
2015年8月4日火曜日
8月4日
わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです[マタイ12:28]
神の王国は、神の主権が及ぶところです。主の主権があるところ、悪霊には何の力もなくなります。聖書は二つのことを語っています。神の御国と、神の力です。神の王国は、神の主権を象徴します。神の霊とは、神の力を表すものです。神には権威がありますが、これはその背後に力があるからです。御霊は神の王国の力です。神の御国はどのように来るのでしょう?その力を通してです。主はここに力を示され、神の王国が来るのです。
神の王国は、神の主権が及ぶところです。主の主権があるところ、悪霊には何の力もなくなります。聖書は二つのことを語っています。神の御国と、神の力です。神の王国は、神の主権を象徴します。神の霊とは、神の力を表すものです。神には権威がありますが、これはその背後に力があるからです。御霊は神の王国の力です。神の御国はどのように来るのでしょう?その力を通してです。主はここに力を示され、神の王国が来るのです。
2015年8月3日月曜日
8月3日
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです[ヨハネ6:63]
主イエスの成されるわざを、霊において見るとき、主のすべての働きが私たちのために生きていることに気づきます。主の働きを霊の外から見ると、すべてはただの文字となってしまいます。文字は死んでいます。こう言ったものを単に教義として扱うとき、それは死んでいるのです。聖書に記録された事実を信じているのに、それが日々の生活に何の助けにもならない人がいるのは何故でしょう?また、教義を聞いても、何の力にもなっていないという人もいます。さらにまた、聖書の中に神の言葉を見出しても、それが働かないのはなぜでしょう?こんなふうになってしまうのはすべて、神の真実に霊の中で触れないためです。キリストにおけるあらゆることがらは、単なる文字や書物として取り扱われると、過去のものとなってしまいます。しかし、御霊においてそれらに近づくなら、決して、過去とはならず、生きた現実として存在し続けます。
主イエスの成されるわざを、霊において見るとき、主のすべての働きが私たちのために生きていることに気づきます。主の働きを霊の外から見ると、すべてはただの文字となってしまいます。文字は死んでいます。こう言ったものを単に教義として扱うとき、それは死んでいるのです。聖書に記録された事実を信じているのに、それが日々の生活に何の助けにもならない人がいるのは何故でしょう?また、教義を聞いても、何の力にもなっていないという人もいます。さらにまた、聖書の中に神の言葉を見出しても、それが働かないのはなぜでしょう?こんなふうになってしまうのはすべて、神の真実に霊の中で触れないためです。キリストにおけるあらゆることがらは、単なる文字や書物として取り扱われると、過去のものとなってしまいます。しかし、御霊においてそれらに近づくなら、決して、過去とはならず、生きた現実として存在し続けます。
2015年8月2日日曜日
8月2日
主はモーセに告げて仰せられた。「…最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」[出エジプト13:1-2]
ここで、これから後、イスラエルのすべての初子は神のものであると言い渡されています。今日も代わらず、小羊のかけがえのない血潮をもって引き寄せられた者は、誰もが神に属しています。私たちは買い取られたのですから、もはや自由ではありません。誰が心から、『神よ、私はあなたのものです、私はあなたの奴隷です』と、言えるでしょうか?『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい(1コリント6:20)。』人が救われた日が、その人が買い取られた日となります。奴隷は金で買い取られますが、召使いは金で雇われます。買い取られたものには、何の自由もありませんが、雇われたものには自由があります。私たちは鎖につながれた神の奴隷であって、雇われ人ではありません。聖書が書かれた原語によれば、私たちは神に買い取られた奴隷であって、雇われた使用人ではないのです。
ここで、これから後、イスラエルのすべての初子は神のものであると言い渡されています。今日も代わらず、小羊のかけがえのない血潮をもって引き寄せられた者は、誰もが神に属しています。私たちは買い取られたのですから、もはや自由ではありません。誰が心から、『神よ、私はあなたのものです、私はあなたの奴隷です』と、言えるでしょうか?『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい(1コリント6:20)。』人が救われた日が、その人が買い取られた日となります。奴隷は金で買い取られますが、召使いは金で雇われます。買い取られたものには、何の自由もありませんが、雇われたものには自由があります。私たちは鎖につながれた神の奴隷であって、雇われ人ではありません。聖書が書かれた原語によれば、私たちは神に買い取られた奴隷であって、雇われた使用人ではないのです。
2015年8月1日土曜日
8月1日
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。[ピリピ2:12]
恐れおののいて自分の救いを達成するためには、私たちは自分で責任を負わなければなりません。自分で責任を負わなければ、キリスト者としての生活において偏ってしまいます。キリストはまことに、私たちのために死なれ、私たちのために血を流され、私たちのためによみがえって、天に昇られました。この事実を知った上で、自分は礼拝だけしておけばよいだろうと考えてしまう者もいます。そのような人は、どこまでも受身で考えます。自分から祈り、聖書を読み、また、自分を清めて献身することの必要を感じません。しかし、大切なことがあります。神が私たちのためにすべてを完了されたのですから、私たちもいっそうの熱意を持たなければなりません。神は既に私たちの中に働きかけてくださったのですから、今度は私たちがそれをやり遂げなければなりません。
恐れおののいて自分の救いを達成するためには、私たちは自分で責任を負わなければなりません。自分で責任を負わなければ、キリスト者としての生活において偏ってしまいます。キリストはまことに、私たちのために死なれ、私たちのために血を流され、私たちのためによみがえって、天に昇られました。この事実を知った上で、自分は礼拝だけしておけばよいだろうと考えてしまう者もいます。そのような人は、どこまでも受身で考えます。自分から祈り、聖書を読み、また、自分を清めて献身することの必要を感じません。しかし、大切なことがあります。神が私たちのためにすべてを完了されたのですから、私たちもいっそうの熱意を持たなければなりません。神は既に私たちの中に働きかけてくださったのですから、今度は私たちがそれをやり遂げなければなりません。
2015年7月31日金曜日
7月31日
神のことばは生きていて、…たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます[ヘブル4:12]
はっきりと認めるべきです。私たち自身にとって、霊に属するものと、たましいに属するものを、外から見ただけで区別するのは、容易なことではありません。これは霊に属するものか、あれはたましいに属するのかと、日々自問しても無益なことです。このような問いには何の霊的な価値もありません。尋ねることはできますが、答えを得ることは決してありません。霊的な事柄においては、自己を分析しても、現実を見出すことができないだけでなく、精神を麻痺させることにもなってしまいます。事実を見て、理解するのは神の光を当てられて初めてできることです。光が輝けば、自然に目に見えてきます。ですから、もはや自問する必要もありません。私たちに必要なのは、み言葉が私たちの中で輝くよう神にお願いすることです。神の言葉は生きており、もっとも効き目があるからです。
はっきりと認めるべきです。私たち自身にとって、霊に属するものと、たましいに属するものを、外から見ただけで区別するのは、容易なことではありません。これは霊に属するものか、あれはたましいに属するのかと、日々自問しても無益なことです。このような問いには何の霊的な価値もありません。尋ねることはできますが、答えを得ることは決してありません。霊的な事柄においては、自己を分析しても、現実を見出すことができないだけでなく、精神を麻痺させることにもなってしまいます。事実を見て、理解するのは神の光を当てられて初めてできることです。光が輝けば、自然に目に見えてきます。ですから、もはや自問する必要もありません。私たちに必要なのは、み言葉が私たちの中で輝くよう神にお願いすることです。神の言葉は生きており、もっとも効き目があるからです。
2015年7月30日木曜日
7月30日
さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた[ルカ14:25]
なぜ、これほど大ぜいの群集が主といっしょに歩いていたのでしょう?それは、主が福音を伝えたすぐ後だったからです。前の節のたとえで示されたように主は大ぜいの人を招き寄せました。実際には、お腹のすいていた人たちが来たのです。多くはキリスト者です。救われるのは、どれほどうれしいことでしょう。生まれ変わって、神の恵みを受けるのはなんとすばらしいことでしょう。そのような人々は神とともに歩み、神は彼らの方を向いて語ります。主が次に語られた言葉の趣旨は、『確かにあなたは救われましたが、私に着いて来たければ、条件を満たさなければならない』ということです。主はここで、真理に至るための基準を高くします。大ぜいの群衆に合わせて、神の定めた物差しを緩めることはできないからです。主イエスを信じ、救われるための門は広いが、主に従い主とともに栄光を受けるために通らなければならない門は狭いのです。
なぜ、これほど大ぜいの群集が主といっしょに歩いていたのでしょう?それは、主が福音を伝えたすぐ後だったからです。前の節のたとえで示されたように主は大ぜいの人を招き寄せました。実際には、お腹のすいていた人たちが来たのです。多くはキリスト者です。救われるのは、どれほどうれしいことでしょう。生まれ変わって、神の恵みを受けるのはなんとすばらしいことでしょう。そのような人々は神とともに歩み、神は彼らの方を向いて語ります。主が次に語られた言葉の趣旨は、『確かにあなたは救われましたが、私に着いて来たければ、条件を満たさなければならない』ということです。主はここで、真理に至るための基準を高くします。大ぜいの群衆に合わせて、神の定めた物差しを緩めることはできないからです。主イエスを信じ、救われるための門は広いが、主に従い主とともに栄光を受けるために通らなければならない門は狭いのです。
2015年7月29日水曜日
7月29日
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです[ローマ10:17]
家庭、学校、仕事や個人的なことがらで問題を抱えているときも、神のみ言葉を信じていなければ、祈る意味はありません。欲しいものが手に入らないのは、祈らないからです。祈っても、まだいただけなければ、それはあなたが神のみ言葉を信じていないからです(ヤコブ4:2,3)。神のみ言葉を信じないまま祈っても、時間の無駄です。神の恵みを受けたければ、必要なことはただひとつだけ、み言葉をしっかりと掴むことです。あなたが信じれば、神は働いてくださります。困難に立ち向かうときは、いつでも、主にみ言葉をくださるよう頼みなさい。そうすれば、主のみ言葉によってどのような問題も切り抜けることができるはずです。このような形で神の言葉を受け取るのは、御霊の剣を持つことに他なりません。エペソ6章で語られた武具はそのほとんど全てが身を守るものですが、『神の言葉である』精霊の剣だけは、攻撃のために使われます。神の言葉があれば、行く手をふさぐ何者をも打ち破り、あらゆる問題を解決できるのです。
家庭、学校、仕事や個人的なことがらで問題を抱えているときも、神のみ言葉を信じていなければ、祈る意味はありません。欲しいものが手に入らないのは、祈らないからです。祈っても、まだいただけなければ、それはあなたが神のみ言葉を信じていないからです(ヤコブ4:2,3)。神のみ言葉を信じないまま祈っても、時間の無駄です。神の恵みを受けたければ、必要なことはただひとつだけ、み言葉をしっかりと掴むことです。あなたが信じれば、神は働いてくださります。困難に立ち向かうときは、いつでも、主にみ言葉をくださるよう頼みなさい。そうすれば、主のみ言葉によってどのような問題も切り抜けることができるはずです。このような形で神の言葉を受け取るのは、御霊の剣を持つことに他なりません。エペソ6章で語られた武具はそのほとんど全てが身を守るものですが、『神の言葉である』精霊の剣だけは、攻撃のために使われます。神の言葉があれば、行く手をふさぐ何者をも打ち破り、あらゆる問題を解決できるのです。
2015年7月28日火曜日
7月28日
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った[ヨハネ20:16]
私たちは、マリアに聞こえたこの声を聞いたことがあるでしょうか?この『マリア』と言う声を、物置の中で祈る時でも聞くことができたら、満足できることでしょう。主が『マリア』と言った時、すぐにそれが誰なのか分かりました。これは啓示です。主が、一言だけ語ればそれで十分です。羊飼いが、羊を呼べば、羊の目は直ぐに開きます。マリアは主の声を聞くやいなや、それが庭師ではなく、先生の声であることが分かりました。泣く必要はもはやなくなったのです。主がご自分を人に現されたら、それ以上言葉を発する必要はないのです。私たちも、マリアのように主の声を聞き分けることができるでしょうか?
私たちは、マリアに聞こえたこの声を聞いたことがあるでしょうか?この『マリア』と言う声を、物置の中で祈る時でも聞くことができたら、満足できることでしょう。主が『マリア』と言った時、すぐにそれが誰なのか分かりました。これは啓示です。主が、一言だけ語ればそれで十分です。羊飼いが、羊を呼べば、羊の目は直ぐに開きます。マリアは主の声を聞くやいなや、それが庭師ではなく、先生の声であることが分かりました。泣く必要はもはやなくなったのです。主がご自分を人に現されたら、それ以上言葉を発する必要はないのです。私たちも、マリアのように主の声を聞き分けることができるでしょうか?
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