神のことばは生きていて、…たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます[ヘブル4:12]
はっきりと認めるべきです。私たち自身にとって、霊に属するものと、たましいに属するものを、外から見ただけで区別するのは、容易なことではありません。これは霊に属するものか、あれはたましいに属するのかと、日々自問しても無益なことです。このような問いには何の霊的な価値もありません。尋ねることはできますが、答えを得ることは決してありません。霊的な事柄においては、自己を分析しても、現実を見出すことができないだけでなく、精神を麻痺させることにもなってしまいます。事実を見て、理解するのは神の光を当てられて初めてできることです。光が輝けば、自然に目に見えてきます。ですから、もはや自問する必要もありません。私たちに必要なのは、み言葉が私たちの中で輝くよう神にお願いすることです。神の言葉は生きており、もっとも効き目があるからです。
2015年7月31日金曜日
2015年7月30日木曜日
7月30日
さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた[ルカ14:25]
なぜ、これほど大ぜいの群集が主といっしょに歩いていたのでしょう?それは、主が福音を伝えたすぐ後だったからです。前の節のたとえで示されたように主は大ぜいの人を招き寄せました。実際には、お腹のすいていた人たちが来たのです。多くはキリスト者です。救われるのは、どれほどうれしいことでしょう。生まれ変わって、神の恵みを受けるのはなんとすばらしいことでしょう。そのような人々は神とともに歩み、神は彼らの方を向いて語ります。主が次に語られた言葉の趣旨は、『確かにあなたは救われましたが、私に着いて来たければ、条件を満たさなければならない』ということです。主はここで、真理に至るための基準を高くします。大ぜいの群衆に合わせて、神の定めた物差しを緩めることはできないからです。主イエスを信じ、救われるための門は広いが、主に従い主とともに栄光を受けるために通らなければならない門は狭いのです。
なぜ、これほど大ぜいの群集が主といっしょに歩いていたのでしょう?それは、主が福音を伝えたすぐ後だったからです。前の節のたとえで示されたように主は大ぜいの人を招き寄せました。実際には、お腹のすいていた人たちが来たのです。多くはキリスト者です。救われるのは、どれほどうれしいことでしょう。生まれ変わって、神の恵みを受けるのはなんとすばらしいことでしょう。そのような人々は神とともに歩み、神は彼らの方を向いて語ります。主が次に語られた言葉の趣旨は、『確かにあなたは救われましたが、私に着いて来たければ、条件を満たさなければならない』ということです。主はここで、真理に至るための基準を高くします。大ぜいの群衆に合わせて、神の定めた物差しを緩めることはできないからです。主イエスを信じ、救われるための門は広いが、主に従い主とともに栄光を受けるために通らなければならない門は狭いのです。
2015年7月29日水曜日
7月29日
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです[ローマ10:17]
家庭、学校、仕事や個人的なことがらで問題を抱えているときも、神のみ言葉を信じていなければ、祈る意味はありません。欲しいものが手に入らないのは、祈らないからです。祈っても、まだいただけなければ、それはあなたが神のみ言葉を信じていないからです(ヤコブ4:2,3)。神のみ言葉を信じないまま祈っても、時間の無駄です。神の恵みを受けたければ、必要なことはただひとつだけ、み言葉をしっかりと掴むことです。あなたが信じれば、神は働いてくださります。困難に立ち向かうときは、いつでも、主にみ言葉をくださるよう頼みなさい。そうすれば、主のみ言葉によってどのような問題も切り抜けることができるはずです。このような形で神の言葉を受け取るのは、御霊の剣を持つことに他なりません。エペソ6章で語られた武具はそのほとんど全てが身を守るものですが、『神の言葉である』精霊の剣だけは、攻撃のために使われます。神の言葉があれば、行く手をふさぐ何者をも打ち破り、あらゆる問題を解決できるのです。
家庭、学校、仕事や個人的なことがらで問題を抱えているときも、神のみ言葉を信じていなければ、祈る意味はありません。欲しいものが手に入らないのは、祈らないからです。祈っても、まだいただけなければ、それはあなたが神のみ言葉を信じていないからです(ヤコブ4:2,3)。神のみ言葉を信じないまま祈っても、時間の無駄です。神の恵みを受けたければ、必要なことはただひとつだけ、み言葉をしっかりと掴むことです。あなたが信じれば、神は働いてくださります。困難に立ち向かうときは、いつでも、主にみ言葉をくださるよう頼みなさい。そうすれば、主のみ言葉によってどのような問題も切り抜けることができるはずです。このような形で神の言葉を受け取るのは、御霊の剣を持つことに他なりません。エペソ6章で語られた武具はそのほとんど全てが身を守るものですが、『神の言葉である』精霊の剣だけは、攻撃のために使われます。神の言葉があれば、行く手をふさぐ何者をも打ち破り、あらゆる問題を解決できるのです。
2015年7月28日火曜日
7月28日
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った[ヨハネ20:16]
私たちは、マリアに聞こえたこの声を聞いたことがあるでしょうか?この『マリア』と言う声を、物置の中で祈る時でも聞くことができたら、満足できることでしょう。主が『マリア』と言った時、すぐにそれが誰なのか分かりました。これは啓示です。主が、一言だけ語ればそれで十分です。羊飼いが、羊を呼べば、羊の目は直ぐに開きます。マリアは主の声を聞くやいなや、それが庭師ではなく、先生の声であることが分かりました。泣く必要はもはやなくなったのです。主がご自分を人に現されたら、それ以上言葉を発する必要はないのです。私たちも、マリアのように主の声を聞き分けることができるでしょうか?
私たちは、マリアに聞こえたこの声を聞いたことがあるでしょうか?この『マリア』と言う声を、物置の中で祈る時でも聞くことができたら、満足できることでしょう。主が『マリア』と言った時、すぐにそれが誰なのか分かりました。これは啓示です。主が、一言だけ語ればそれで十分です。羊飼いが、羊を呼べば、羊の目は直ぐに開きます。マリアは主の声を聞くやいなや、それが庭師ではなく、先生の声であることが分かりました。泣く必要はもはやなくなったのです。主がご自分を人に現されたら、それ以上言葉を発する必要はないのです。私たちも、マリアのように主の声を聞き分けることができるでしょうか?
2015年7月27日月曜日
7月27日
女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」[1サムエル18:7]
ダビデはゴリアテを殺した後、神の手で面倒な立場に追い込まれました。イスラエルの女たちが、こう歌ったからです、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』この二つの節をよく読むと、ひとつはダビデを試すためであり、もうひとつは、サウルを試すためであったことが分かるでしょう。箴言27章にも、『他人の称賛によって人はためされる(21節)』とあります。人に過剰に誉められるときは、自分が高慢になっていないか気を付け、また、人に十分誉められないときは、嫉妬心を持っていないか注意しなさい。イスラエルの女たちのこのふたつの宣告が、ダビデとサウルの心をどう動かしたでしょう?ダビデは、『彼は万を打った』と言う叫びに、微塵も動揺しなかったのに対し、サウルのほうは、彼が千しか打たなかったと言う言葉に、深く傷つけられたのです。
ダビデはゴリアテを殺した後、神の手で面倒な立場に追い込まれました。イスラエルの女たちが、こう歌ったからです、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』この二つの節をよく読むと、ひとつはダビデを試すためであり、もうひとつは、サウルを試すためであったことが分かるでしょう。箴言27章にも、『他人の称賛によって人はためされる(21節)』とあります。人に過剰に誉められるときは、自分が高慢になっていないか気を付け、また、人に十分誉められないときは、嫉妬心を持っていないか注意しなさい。イスラエルの女たちのこのふたつの宣告が、ダビデとサウルの心をどう動かしたでしょう?ダビデは、『彼は万を打った』と言う叫びに、微塵も動揺しなかったのに対し、サウルのほうは、彼が千しか打たなかったと言う言葉に、深く傷つけられたのです。
2015年7月26日日曜日
7月26日
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました[2コリント12:8]
祈りには、皆が知っておくべき秘訣があります。主に対して3回祈ると言うことです。『三度』とありますが、これは3回だけに限定するわけではなく、もっと多くてもよいのです。主イエスはゲッセマネの園で3回お願いしたところで、祈りを聞いてもらうことができ、その時点で止めました。パウロも神に三度祈り、み言葉を与えられたので、祈りを終えました。ですから、祈るときは、三度と言う原則を心に留めておきましょう。ここで言う『三度』とは、私たちがただ、1回、2回、そして、3回祈ったら、止めなければならないという意味ではありません。神が聞いてくださるまでは、気持ちをこめて祈らなければならないことを象徴しているのです。
祈りには、皆が知っておくべき秘訣があります。主に対して3回祈ると言うことです。『三度』とありますが、これは3回だけに限定するわけではなく、もっと多くてもよいのです。主イエスはゲッセマネの園で3回お願いしたところで、祈りを聞いてもらうことができ、その時点で止めました。パウロも神に三度祈り、み言葉を与えられたので、祈りを終えました。ですから、祈るときは、三度と言う原則を心に留めておきましょう。ここで言う『三度』とは、私たちがただ、1回、2回、そして、3回祈ったら、止めなければならないという意味ではありません。神が聞いてくださるまでは、気持ちをこめて祈らなければならないことを象徴しているのです。
2015年7月25日土曜日
7月25日
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています[ガラテヤ4:19]
パウロはここでむなしい言葉を使っていなし、自分の悲しみを表現しているのでもありません。彼は、子どもたちのために『再び産みの苦しみ』をしています。そこには時間、愛、とりなし、涙、そして日々、待ち望むことが必要です。
今日、神の子供たちの中で、内側にキリストが形造られている人はどれだけいるでしょう?主に仕えるもののうち、何人が、神の子供たちの霊的な状態を観て、彼らが受けている霊的な産みの苦しみのことを気にかけているでしょうか?ああ、ここで私たちは、自分たちの異常な状態と、神の子供たちへの愛の欠乏を思って、悔い改め、嘆き、そして、涙を流さなければいけません。神の子供たちの中に、その霊的な状態が、子供じみていたり、異常であったり、時には後ろ向きであるものが多いのは何故でしょうか?その責任は彼らだけにあるのでしょうか?私たちは彼らのために嘆き、祈ったのでしょうか?ああ、神よ、お許しください。私たちを哀れんでください!
パウロはここでむなしい言葉を使っていなし、自分の悲しみを表現しているのでもありません。彼は、子どもたちのために『再び産みの苦しみ』をしています。そこには時間、愛、とりなし、涙、そして日々、待ち望むことが必要です。
今日、神の子供たちの中で、内側にキリストが形造られている人はどれだけいるでしょう?主に仕えるもののうち、何人が、神の子供たちの霊的な状態を観て、彼らが受けている霊的な産みの苦しみのことを気にかけているでしょうか?ああ、ここで私たちは、自分たちの異常な状態と、神の子供たちへの愛の欠乏を思って、悔い改め、嘆き、そして、涙を流さなければいけません。神の子供たちの中に、その霊的な状態が、子供じみていたり、異常であったり、時には後ろ向きであるものが多いのは何故でしょうか?その責任は彼らだけにあるのでしょうか?私たちは彼らのために嘆き、祈ったのでしょうか?ああ、神よ、お許しください。私たちを哀れんでください!
2015年7月24日金曜日
7月24日
宝をちりの上に置け。…そうすれば全能者はあなたの黄金となる[ヨブ22:24, 25]
一般に、信者は金銭的な問題を抱えていることがよくあります。これには二つの理由があり、ひとつは、自分に合わない職業に従事し続ける能力に欠けること、また、神が何らかの霊的な目的から特別にその人を追い込んでいることもあります。時に、神は私たちの富を取り去ることで、キリストを求めるように追い込み、主がすべてに勝る存在となるように仕向けてくれます。金持ちが神の御国に入るのは不可能なことではなく、極めて難しいというだけです。
神は荒れ野でイスラエルの子供たちから衣食など、この世の必需品をすべて奪い去ることで、神の豊かさを知らしめました。地上のものがなくなった時、天から賜物が降ってきました。必要な物が欠乏したとき、私たちは主を追い求めますが、これは信仰の教えを受けるためであり、キリストがあらゆるもののかしらであることを知るためです。
一般に、信者は金銭的な問題を抱えていることがよくあります。これには二つの理由があり、ひとつは、自分に合わない職業に従事し続ける能力に欠けること、また、神が何らかの霊的な目的から特別にその人を追い込んでいることもあります。時に、神は私たちの富を取り去ることで、キリストを求めるように追い込み、主がすべてに勝る存在となるように仕向けてくれます。金持ちが神の御国に入るのは不可能なことではなく、極めて難しいというだけです。
神は荒れ野でイスラエルの子供たちから衣食など、この世の必需品をすべて奪い去ることで、神の豊かさを知らしめました。地上のものがなくなった時、天から賜物が降ってきました。必要な物が欠乏したとき、私たちは主を追い求めますが、これは信仰の教えを受けるためであり、キリストがあらゆるもののかしらであることを知るためです。
2015年7月23日木曜日
7月23日
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です[マタイ18:4]
ここで言う、自分を低くするとは、心のあり方の問題です。へりくだった態度を取らなくてはなりません。小さな子供は自分自身を見ることも、人に対抗心を持つこともありません。パウロは自分のことを使徒の中でもっとも小さな者とみなしました(1コリント15:9)が、これは他の誰かと自分を比較してそう考えたのではありません。彼は同胞の救いのために必要とあらば、自分自身がキリストから引き離されることすら願ったのです(ローマ9:3)。ここに、彼がどれだけ自分を無にしたかが現れています。自分自身をまったく見なかったのです。ヘリくだりとは、一切のプライドを捨てることです。それは、教えを説いたり、リバイバル運動を率いる力を失うことではありません。小さな子供のようにへりくだる者だけが、プライドを捨て去ることができます。そして、へりくだる者が褒め称えられるのです。
ここで言う、自分を低くするとは、心のあり方の問題です。へりくだった態度を取らなくてはなりません。小さな子供は自分自身を見ることも、人に対抗心を持つこともありません。パウロは自分のことを使徒の中でもっとも小さな者とみなしました(1コリント15:9)が、これは他の誰かと自分を比較してそう考えたのではありません。彼は同胞の救いのために必要とあらば、自分自身がキリストから引き離されることすら願ったのです(ローマ9:3)。ここに、彼がどれだけ自分を無にしたかが現れています。自分自身をまったく見なかったのです。ヘリくだりとは、一切のプライドを捨てることです。それは、教えを説いたり、リバイバル運動を率いる力を失うことではありません。小さな子供のようにへりくだる者だけが、プライドを捨て去ることができます。そして、へりくだる者が褒め称えられるのです。
2015年7月22日水曜日
7月22日
わたしは、…生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている[黙示録1:17,18]
主イエス様が永遠に生きる神であると知ったら、私たちは主のご臨在を、自分の霊の中に絶え間なく感じけることができます。主が実際におられると感じとることは、何よりも、強く生きる力を与えてくれます。ある方が、ドイツのもっとも偉大な宗教改革者にまつわるこんな話を聞かせてくれました。『あるとき、マルティン・ルターは自分の未来は危険に満ちていると感じ、心は悲しみと恐怖で満たされました。彼はこの時、自分が高きところからの力を手に入れない限り、困難を乗り切ることはできないと悟ったのです。ルターは一人で部屋に座り、ある言葉を指でテーブルになぞりました、「主はいつまでも生きている!」神は生きている!ルターはうれしくなり、信仰を取り戻したのです。』
『主はいつまでも生きている』ことは常に、私たちの力であり、希望です。人は皆、消え去りますが、主のみが永遠に存在します。
主イエス様が永遠に生きる神であると知ったら、私たちは主のご臨在を、自分の霊の中に絶え間なく感じけることができます。主が実際におられると感じとることは、何よりも、強く生きる力を与えてくれます。ある方が、ドイツのもっとも偉大な宗教改革者にまつわるこんな話を聞かせてくれました。『あるとき、マルティン・ルターは自分の未来は危険に満ちていると感じ、心は悲しみと恐怖で満たされました。彼はこの時、自分が高きところからの力を手に入れない限り、困難を乗り切ることはできないと悟ったのです。ルターは一人で部屋に座り、ある言葉を指でテーブルになぞりました、「主はいつまでも生きている!」神は生きている!ルターはうれしくなり、信仰を取り戻したのです。』
『主はいつまでも生きている』ことは常に、私たちの力であり、希望です。人は皆、消え去りますが、主のみが永遠に存在します。
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