2015年6月30日火曜日

6月30日

それから、モーセはシナイ山から降りて来た。…彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった[出エジプト記34:29]

おしろいを塗っている女性は、始終、鏡で自分の顔を見ていなくてはいけませんが、モーセの顔は、自分でも気付かないのに、いつも、輝いていました。自分の内にある神の働きを外に現す者は、誰もが霊的な人と呼ばれます。しかし、何かを作り出そうとするときは、大きな力が必要です。そのため、時に人は、キリスト者であることに疲れを感じます。とは言え、どのような場合も、キリスト者は自分の力で問題に当たってはいけません。私たちはしばしば、物事を判断するに当たり、見た目によければ、おそらく大丈夫だろうと考えがちですが、神は、物事の根本を見て、それが御自信から来ているか、それとも、肉の力で模倣しているに過ぎないのかを判断します。

2015年6月29日月曜日

6月29日

みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります[詩篇119:160]

アッシリアで見つかった石版に刻まれた言葉が解読されたとき、旧約聖書に記された歴史がこの石版によって立証されたことが報告され、人々は熱狂しました。これはまさしくアベコベです。神の言葉を検証する必要などあるでしょうか?はっきりと理解しましょう。アッシリアの石版に記録されたことが、聖書の記述と一致したら、それは、石版に歴史的誤りがないことを示すに過ぎません。もし不一致があれば、石版が誤っていることになります。同じように、科学の教えることが聖書と合致する場合、聖書が科学の正しさを実証していることになります。二つから導かれる結論が違っていたら、それは聖書が科学的仮説に虚偽があることを証明したということです。

2015年6月28日日曜日

6月28日

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました[1ペテロ2:21]

ある姉妹はかつて、女王のように家を支配していたましたが、後に救われると、まるで家政婦のようになりました。彼女が両親にお小遣いを求めても、以前のようにすぐにはもらえなくなると、その人は娘としての地位と特権を自分から放棄してしまいました。クリスチャンとなった今、あなたはこれまでのように親に子供として扱われることを求めてはいけないし、また、友人は必ずしも以前のようにあなたに親切に対応してくれないかもしれません。人があなたの権利を踏みにじったとしても、自ら神の御手に任せ、主の御心を探るべきです。主とは、『神の御姿であられる方なのに、ご自分を無にした(ピリピ書2:6-7)』方です。主は、自分のために口を開かなかったのですから、私たちも、自分のために口を開くべきではありません。

2015年6月27日土曜日

6月27日

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった[申命記8:2]

神には、私たちを敗北や失敗させる必要などないことを理解しましょう。その必要があるのは私たちです。私の人生が順風満帆で、勝利と喜びに満ちている時は、自分自身を有能な人間とみなし、他の人にはない何か特別なものを持っていると考えがちです。霊的生活においても、何か進歩があったり、霊的な働きの面で何らかの成果を挙げたとき、大っぴらに自慢はしないにしても、今の自分は真に聖なる力に満ち、非常に優れた者ではないかとという気持ちになってしまいます。このような状態では、不注意になりやすく、神に依存する心構えを失ってしまいます。このため、主は私たちを栄光から塵の中へ突き落とされるのです。そうして、自分が世界で最悪の罪人と何の違いもないことを知らされます。その結果、はじめて自分に頼ることをあきらめ、すべてのことで、恐れと畏怖をもって、神に自分自身を委ねることができます。

2015年6月26日金曜日

6月26日

あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです[コロサイ3:9-10]

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、…古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ…[エペソ 4:22-23]

これらのみ言葉は、私たちが、神の命に従って、『新しい人』の完全さを体験することの必要を強調しています。『脱ぐ』、『脱ぎ捨てる』、そして、『着る』、これは意思による行動です。信者は自ら意志に沿って行動することによって、あらゆる面で、古い人のはたらきを否定し、新しい人の新鮮さを選択することが必要です。クリスチャンとしての最良の生活は、意志で選び取る人生です。意思が定まった時、心と知識は、神のみ姿に合わせて、新しく置き換えられるはずです。心は霊的な戦いの戦場です。それは、アダムの生活の砦であると同時に、罪のために腐敗しきった私たちの生活の一部でもあります。心が新たにされるなら、神の似姿とされるのは簡単なことです。

2015年6月25日木曜日

6月25日

パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ[出エジプト記2:15]

神があなたの方を見てくれない時、御心を理解できないかもしれません。神は、そのようなことを何度も繰り返して、安らかな環境を奪いますが、これは、神の力強い手の下に、あなたが自分から服従できるようにとされていることです。それは、あなたが主の御心を行うかどうかのテストです。自分の意思で対処しなければならないのです。それは立ち向かわなければならない危機です。イスラエルの子どもたちがモーセを拒絶したのは神から来たことでした。パロが彼の命を付け狙ったことも、神から来ていました。誰もいない荒れ野を逃亡させたのも、同じように神でした。40年間、荒れ野で神と何度に渡って語りあったことで、ついに、彼は、神から教えられました。ついに自分がまったく役に立たない者であることを認めたのです。それからの彼は、イスラエル人を自分の能力で救おうと夢見ることはなくなりました。もはや、自分を偉大で、力ある男と考えることもありませんでした。彼は、霊的な世界で自分がずば抜けて優秀な人物であると考えることをやめました。ようやく、彼は自分の力では何もできないことを知りました。そして、まさにそこが、長い旅の果てに到達して欲しいと、神が望んでいた場所でした。

2015年6月24日水曜日

6月24日

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません[マタイ10:38]

主が要求されていることはただひとつ、主を愛することだけです。自己を否定することなしには、誰も主を愛することはできません。ここで主は自分の十字架について語っているのではありません。強調されているのは、十字架を負うことです。主が十字架に付けられたのはただ一度の出来事です。その時は、主が私たちを支えました。十字架を負うのは毎日のことです。ここでは、私たちが主を支えます。

十字架を負うとはどういう意味でしょう?それは心の底から神に服従することです。ゲッセマネの園で、私たちの主は、父の意志を行うと心に決めていました。そのとおりに主は動かれ、十字架を負いました。したがって、十字架を負うとは、神の意思を成すと心に定めることに他なりません。

2015年6月23日火曜日

6月23日

私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです[エペソ2:18]

信頼とは、委ねる能力、信頼する大胆さ、完全に依存できる確信などを持つことを意味します。これは非常に大きなことです。信頼の精神は、祈りとクリスチャン生活のすべてにおいて最も重要なものと言えます。主と私たちの関係が絶えず揺れ動いているようなら、すなわち、私たちが確信も自信も失ってしまえば、私たちの人生のすべてが致命的な傷を負うことになります。

真の信頼を得られる原因はただひとつだけ、それは、キリストご自身です。私たちは、神の御許に近づくと言うすばらしい特権を与えられていますが、これは、キリスト自身がその特権だからです。それは神が提供されたものです。キリストのみ名において、私たちはいつ、どこでも父の元に来ることが許されています。私たちは、自分の名前や今の状態のまま、父に近づくことはありません。それは許されないことです。私たちはただ、御子の名においてのみ父に拝することができます。

2015年6月22日月曜日

6月22日

しかし、ノアは、主の心にかなっていた[創世記6:8]

ノアの生きた時代、人間はあまりに恐ろしい罪を犯し、その悪行が地上に満ちていました。そのため、神は洪水で彼らを滅ぼしました。しかし、神はノアとその家族だけでなく、他の多くの生き物のことも、心に止めてくださいました。神は、その生命を守りたかったのです。ですから、神はノアとの間に契約を結び、こう言われました、『わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり…、あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい』(創世記6:18-21)。彼らを生かしておくために、神はその食糧のことさえ心配されました。この契約には、神の心がどれだけ人間への愛に満ち、細やかであったかを現れています。

2015年6月21日日曜日

6月21日

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです[1ヨハネ1:3]

福音書が、書簡よりも先に置かれていることに注意してください。福音書が先ず、キリストが何をしたかを伝え、その後で書簡が、そこから何が生まれたのかを説明しています。最初にキリストの経験、次にキリストの教義。最初にキリストの生涯が語られ、その後にキリストの教えが来ます。

マルティン·ルターは、多くの悩み、苦しみを経てもなお、自分を義と信じるには至りませんでした。しかし、ある日、神は人はただ信仰によって義とされることを示されました。ただ信仰によってのみ、彼はついに義とされたのです。そして、その後で、彼は信仰による義認という教えを語りました。初めに生活があり、次いで該当する教義があります。教義を調べ、考え、研究することにに多くの時間を費やすことはやめましょう。それは葦のようなもので、実生活において困難に遭遇したとき、決して、あなたを助けてはくれません。あなたを最後まで支えてくれるのは神です。初めてに経験、そして教義です。