2015年11月10日火曜日

11月10日

彼らは、その知性において暗くなり、…神のいのちから遠く離れています。[エペソ4:18]

初めに、神はご自身の命、そして、敬虔さに関わる全てのものを、私たちに与えるようと計画されました。私たちは、罪と、罪から来る死のゆえに、神から遠く引き離され、神に属するあらゆる物を受けることはできなくなりました。神が与えてくれたもの、またこれから与えようと考えていたものすら、失われてしまいました。しかし今では、主イエス様が流された血によって、私たちの罪はきよめられ、神との関係は修復されました(エペソ2:13)。こうして、神がくださった物、これからくださる物は何であれ、遮られることなく私たちに与えられることになりました。主イエス様の血は私たちを神と和解させてくださり、また、神ご自身を与えてくれたのです。

2015年11月9日月曜日

11月9日

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。[ローマ6:6]

罪の力から引き離されたい、罪の奴隷であることをやめたいと望むなら、自分のからだに打ち勝たなければなりません。ローマ書6:6の中で、この使徒は主が、からだの強固な支配から、私たちを引き離してくださったことを明らかにしています。主イエス様は私たちの内なる古い人を自分とともに十字架につけることによって、私たちの罪のからだを滅ぼしました。『滅びた』(または、『破壊した』)にあたるギリシャ語の原語は、『休止させる、機能しなくなる、動作しなくなる、動きを止めさせる』などを意味する言葉です。主が十字架で成し遂げたみ業によって、主イエス様は、私たちの罪の体の働きを止め、罪の奴隷という立場から開放してくれました。それでも、体は存在しており、完全に滅ぼし去られわけではありません。ただ、生理的な構造に起因する欲望が、主の力で、その働きを弱められていることが分かります。私たちは皆、十字架を通して勝利するのです。

2015年11月8日日曜日

11月8日

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です[マタイ10:31]

どれほど小さなことであっても神は自分の子らに対して無関心ではありません。ある夫婦が海を渡っているときに嵐に遭いました。妻は恐れおののきましたが、夫の方は荒れ狂う海をまったく落ち着いた様子で眺めていました。夫の様子にいらだった妻は、彼を叱り付けました。すると、夫はナイフを取り出し妻を殺すようなふりをしました。しかし、妻はまったく恐れている様子を見せませんでした。夫が、なぜ怖くないのかと尋ねました。妻の答えは、ナイフが夫の手にあったからというものでした。それで、今度は夫のほうが、なぜ嵐を恐れないか説明できたのです。それは、父なる神の御手の中にあったからです。

2015年11月7日土曜日

11月7日

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。[1ヨハネ5:14]

信者が何かを欲しいと思った時はいつも、先ずはこう自問してみましょう、これが欠けていると神に影響するだろうか?私が欲していることを、神は望んでいるだろうか?私の欲求をかなえることは神の御心だろうか?あなたの欲求をかなえることが神の御心であると信じたら初めて、必要なものを備えて御心をかなえてください、と求めてもよいのです。神の御心を知るようになったからには、あなたが知り得たその御心に合わせて祈らなければなりません。御心がなるようにと祈ってください。もはや、問題はあなたの願いがかなえられたかではなく、御心が成ったかどうかになります。今日のあなたのお祈りは過去の祈りとそう大きく違わないかもしれません。それでも、今ではあなたが求めるものは、特定の問題において、御心が成されるようにという点に移っており、自分自身の欲求が満たされることではなくなっています。

2015年11月6日金曜日

11月6日

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです[ピリピ2:13]

ある姉妹がいました。この女性は、良心を徹底的に糾弾されていて、自分には神の御心も必要ないし、もう神に従うことも決してしないと決めていました。この女性は、ただ死刑判決を待っているような、深い苦悩の中にありました。そんな時、彼女は自分の中で祈りをしました。彼女は神にささやきました、『ああ、神様、私にはあなたの御心を求めることはできませんが、どうか、あなたに従いたいと思えるようにしてください。』不思議なことにこの日、ピリピ書2章13節の言葉が、彼女を支えました。神が心に働きかけてくれなければ、自分にはこんな祈りをできなかったと、理解し始めたのです。神ご自身がこの女性の内側にこのお祈りをするように働きかけたのですから、間違いなく神のおかげで、この女性は主の喜びを求め、そのために働くようになったのです。神はご自身の御心にこの女性が従えるようにしました。これが神の働きの目的だからです。この女性はそれを見て、立ち上がり、喜びに満ち溢れたのです。

2015年11月5日木曜日

11月5日

ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです[士師記6:15]

神の前にへりくだるのは比較的易しいことです。しかし、人の前にへりくだり、自分よりも優れている者として敬意を持つことは、非常に難しいものです。『自分は小さいものです』と言うのは、どちらかと言うと簡単ですが、父の家で自分が一番若いと告白するのは簡単ではありません。自分の父の家がもっとも貧しいと告げることは、それほど困難なことではありませんが、自分の父の家がマナセで最も貧しいことを認めるのは、きわめて屈辱的なことです。顔から、自分でも知らないのに輝きを放っている者、外から自信に満ちた輝きを認められれるものこそ勝利者です。自分の顔が輝いているかを確かめようとして、鏡を見るようなものは、誰一人として勝利者ではありません。ダビデは油注がれたものでありながら、自分自身を死んだ犬とみなしました(1サムエル24:14)。勝利者とは、真に勝利を得たもののことであって、勝利者と名乗っている者のことではないのです。

2015年11月4日水曜日

11月4日

ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。[マタイ25:20-21]

儲かった5タラントは成功を表すものではありません。むしろ、このしもべが良く忠実なものであることを表現しています。外見から言えばステファノ(使途6~7)は力が全く足りないように見えていたかもしれませんが、霊的な現実においては彼は、良く忠実な働きをしました。従って、もし一杯の冷たい水がキリストのために捧げられれば(これこそが忠実さです)、それは報われます。忠実であることは、それを主のために行うことを意味します。私たちは本当は誰のために働いているのでしょうか?よく、私たちは成功を求めますが、主のための成功でなければ、それは木、草、切り株に過ぎないことが分かっていません。主は忠実さを求めておられます。

2015年11月3日火曜日

11月3日

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。[マタイ16:18]

誰もが、こんなふうに何度でも証しすることができるしょう。大きな困難に遭遇した時、信仰も祈りも助けにならなかったが、、立ち上がってこう宣言したある時、すべてを乗り越えて勝利にいたる道筋が示された、『イエスよ、あなたは主です。あなたは王です。あなたはすべての悪魔を足元にひれ伏させました。そしてあなたは、敵のすべての業を打ち破りました!』こう宣言した瞬間に不思議な力が与えられました。このような状況では、最良の祈りとは何かをお願いする祈りではありません。最良の祈りとは、はっきりとこう宣言することです。『あなたがそうです!』、『あなたこそがそのお方です!』、これが教会における信仰の宣言になります。教会は神の黙示のみに基づいて作られたのではなく、人間が受けた啓示を宣言することによって成り立っています。黙示の結果としての宣言は霊的な価値に満ちています。そこにはハデスを揺さぶるほどの霊的な力があるのです。

2015年11月2日月曜日

11月2日

また彼らが…、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。[ヘブル8:11]

砂糖と塩は見た目はよく似ています。どちらも白く、細かい粒でできています。口に入れてみるまで、どちらが砂糖で、どちらが塩かは分かりません。砂糖か塩か、外から見た目だけで判断するのは、舌で味わって内側で判断するより、はるかに困難です。神に対する知識もこれと同じです。外から入ってくる知識は、在り来たりのものであり、内にある知識は確かなものです。神が私たちの中でご自身を味あわせてくださるときはいつも、言葉にできないほどの喜びがあります。『主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は(詩篇34:8)』。私たちが神様を味わうとは不思議な言い方ですが、これは真実です。『一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで…(ヘブル6:4-5)』。この御言葉は、霊的なものであっても、実際に味わうことができることを示しています。新しい契約の特徴として、霊的なもの、神ご自身までをも私たちが味わい知ることが許されています。ですから、神に感謝しようではありませんか。なんという祝福でしょう。なんと光栄なことでしょう。ハレルヤ!

2015年11月1日日曜日

11月1日

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。[ヨハネ4:14]

外から入ってくるものは何であれ、人を真に満足させることはできません。しかし、キリストを受ければ、それは、その人の内で泉となり、日々、満足を得ることができます。人間に欠けているものは内なる満足です。

ある人が医師の元を訪れました。その人は医師に、なぜ人生は無味乾燥で、希望がないのかと尋ねました。診察してもらった後でその人は、医学的にどこも悪いところがないことを告げられました。男は、ひどく落ち込んだ気分を癒してくれるものは何かないかと尋ねました。医師の答えは、『人生を楽しみなさい。おもしろい道化芝居でも見に行ったらどうです?人を大笑いさせて、すごく明るくしてくれますよ』。すると、その男が言うには、『実は私がその道化師なんです』。そして彼は続けて、『他の人を笑わせることはできても、自分は笑えません』。なんと悲しいことでしょう。しかし、この世が与えてくれるのはこの程度のものです。人を少しだけ笑わせて、その時だけ喜ばせてくれますが、それで終わりなのです。