2015年9月9日水曜日

9月9日

あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、…しっかりと組み合わされ、結び合わされるのです[エペソ4:15,16]

この一節から分かることは、キリストのからだの各部分は、しっかり組み合わされ、お互いと結び合わされています。これはすべてがかしらへと強固にしがみついて、体の部分としての使命をまっとうしているからです。ここで、神はあなたの隣に座っている人にだけ注意を払って欲しい、と願っているわけではありません。神は、あなたが主と適切な関係を持つことを何よりも望んでおられるのです。かしらとこのような関係を維持するなら、体の他の部分とも良い関係を持つことができます。自分をかしらへとゆだねるなら、あなたと兄弟姉妹との間に起こった問題も簡単に解決されます。主との間に食い違いがなければ、兄弟姉妹と問題が起こることもありません。

2015年9月8日火曜日

9月8日

弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった[マタイ17:6-8]

『心から、怖れなさい』、神が現れる時、誰が怖れずにいられるでしょうか!

『恐れるな』、この言葉は聖書の中で365回出てきます。一年の中で、一日一回に当たります。毎日が、『今この時』と、祝福されます。どの日も恵みとして分け与えられているからです。

『だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった、』律法と預言者、人の子の栄光、あたりを包む光り輝く雲と響く声、そして、仲間たち。それらはすべて消えてしまい、イエス様お一人が残っています。私たちがイエス様だけを見ていられますように。

2015年9月7日月曜日

9月7日

…喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。[コロサイ1:12,13]

神が、私たちを祝福したいと思っておられることはたしかです。しかし、神は私たちのために、もっと大きなことを望んでおられるのです。それは、神の王国に入ることであり、神の支配の下に置かれることです。皆さん、理解しましょう。救いは楽しみのためだけにあるのではなく、もっと重要なことには、神の主権の下に置かれるためにあるのです。かつての私たちは自分のやりたいことをやり、深く考えもせずに、日々を無為に過ごしていました。今、私たちは神に服従しなければなりません。一度、救われたら、もう意味なく時を過ごすことは認められません。神の規範を受け入れなくてはなりません。救いとは聖霊のくびきの下に置かれることに他なりません。人が、救われたいと望むなら、聖霊がくびきを付けます。くびきをつけられたものは誰でも救われます。肉として見るなら、救いは全く楽しいものではありません。それは、人を神の主権と支配の下に引き込むからです。

2015年9月6日日曜日

9月6日

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です[詩篇119:105]

私たちの心が正常な状態にあるときは、青い空と明るい太陽の下を歩いているようなものです。しかし、心の状態は何時までも同じままではありません。聖書はこう語っています、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』暗い夜がなければ、ともしびも光も必要はないでしょう。私たちの心の中が明るい時は、内なる欲求は明瞭で確固としています。心が暗くなると、内なる欲求も混乱し、揺れ動くことが多くなります。だからこそ、聖書の言葉を調べる必要があるのです。いのちに真実が加われば、本物の安定した力となります。私たちは、このどこまでも続くいのちと真実の道を歩かなくてはなりません。私たちの考えや判断は、そのひとつひとつを聖書の言葉と付き合わせることが必要です。こうすれば、左右によろめくことなく、まっすぐ前に歩いてゆく助けとなります。

2015年9月5日土曜日

9月5日

イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」[ヨハネ4:10]

神様は何も売りません。『賜物』とはただで与えられるものです。神はいつも、ただで人に与えます。そして、神はお願いすれば誰にでも与えてくれます。神は、何も取らずに、陽の光を輝かせてくれます。神は、一円も払わなくても雨を降らせてくれます。主はまた、精神的な満たしも同じように与えてくださるのです。

あるところに、お母さんが大好きな子供がいました。お母さんを喜ばせるために花を買ってあげたくなったのですが、ポケットには、ペニー硬貨2枚しかありません。その日、男の子はきれいな庭を見つけて、花を買おうと中に入り、そこにいた紳士に自分の願いを打ち明けました。それを聞いた紳士は、数本の花を取って男の子にあげました。男の子はていねいにお金を払わなくては花は受け取れないと言いました。しかし、その男性は応えて、『私の花はいつもただであげてますよ。欲しいければいくらでも差し上げます。』その人が誰だったと思いますか?英国の皇太子で、そこは王室の庭だったのです。

2015年9月4日金曜日

9月4日

祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです[マタイ6:7]

『くり返す』とは、多くの意味のない言葉を使って、祈りを長引かせることを指します。決して祈りの中で同じ言葉を使うなと言っているのではありません。主イエスでさえ、同じ言葉で3回祈られたのです。心の中に重荷を抱えている時、主は祈りの中で、同じ言葉を何度も口にされていることが分かります。祈り方をもっとよく知っているものほど、祈りにおいても創意を持っています。

私たち、今日の信者の間に残念な傾向が見られます。私たちには長い祈りをすることが多く、多くの言葉で祈りを長引かせ、たくさん話すほど聞いてもらえると考えています。しかし、聖書に記されている祈りは、もっとも率直で簡潔なものです。マタイ8:25の『主よ。助けてください』がその例です。極めて短いお祈こそりが、はっきりと受け止めてもらえることがよくあるのです。苦しい時、罪を犯す人を見ているとき、助けが必要なとき、短い祈りがもっとも効き目があります。

2015年9月3日木曜日

10月3日

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました[エペソ1:19,20]

パウロが生きていた頃、エペソの信徒たちのために、彼らが、神が賜った力のすばらしさ、偉大さに気付くことができるようにと祈りました。もし今、自分の中にある力とキリストの中にある力が、同じひとつのものであると信じられなければ、それを理解できるように祈らなければなりません。私たちの中に現された力が、キリストの中に現された力よりも弱ければ、まだ分かっていないことがたくさんあることを認めざるを得ません。へりくだって神の前に告白し、理解させてくださいと祈りましょう。信じる者の中で神が働く力は、神がキリストの中で働かれた力の強さに一致するほどのものです。ハレルヤ!これが霊的な真実です。本当にこの事実を理解し、受け入れることができるよう、神に目を開いてくださいとお願いしましょう。神に、外からもっと大きな力を注いでくださいと、お願いするのではありません。ただ、私たちが既に自分の中にあるものに気づき、見つけられますようにと、頼むのです。

9月3日

こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります[ローマ14:12]

私たちの人生の中で犯したすべての過ちと罪のうち、血の下を通され、十字架で償われたものは、もはや裁きの座で吟味されることはありません。事実、この座で主が裁かれるのは、私たちのまだ償われていない空虚な言葉、考えと働きだけです。裁きの座の光はすべてを貫くものとは言え、既に血の下にある罪を暴くことはできません。では、例えば、いつも空虚な言葉をもてあそぶ舌をどうすればよいでしょう。十字架が必要なのです。それは、無意味な考えや働きに対しても同じです。それにも十字架が必要なのです。ですから私たちも、信仰をもって十字架を受け入れ、十字架につけられた古い人のことを思いましょう。そうすれば、裁きの座は、既に十字架で償われた過去の罪を探し出して、裁くことはできなくなります。

2015年9月2日水曜日

9月2日

彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである[ヨハネ12:43]

人間が善と悪を知る知恵の木の実を食べて以来、人の栄光は、人間の魂における重要な関心ごととなりました。私たちは一人ひとりが自分専用の王座を持っており、この王座は人の栄光の上に建てられたものです。しかし、もし私たちが主の忠実な僕であろうと望むなら、自分の王座からは下りなければなりません。それを拒めば、主に仕えることはできないのです。ヘブル書12章2節は、私たちの主であるイエス様が、はずかしめをものともせずに十字架を忍んだことを教えてくれます。主は、喜んで十字架を選んだのです。そして、十字架は死だけではなく、恥辱でもありました。真に十字架に砕かれたことがあるなら、恥辱をものともせずに正面から受けとめる経験を、必ずあなたも味わうでしょう。神が哀れみ深くあって、私たちに主を喜ばせる心を持たせてくださり、主の恵みによって私たちがが忠実なしもべとされますように。

2015年9月1日火曜日

9月1日

主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています[詩篇119:89]

私の父が土地を買ってくれ、登記書も私にくれたとしましょう。父は私にそこへ行って、その地所を管理するように命じます。そこで、私はその土地がある国へ行きます。すると、ごろつきのような男が出てきて、なぜ、ここに来たのかと尋ねます。私が、『父の地所を探しに来た』と応えると、そのごろつきは、『ここはお前の父親の土地なんかじゃない、俺の親父の土地だ』と、言い返します。さて、もしここで私が父の言葉を疑えば、家に帰るしかありません。しかし、『いや、私の父は間違っていない。私が持っているこの証文に、ここが私たちの土地であると書いてある』と言い返してやれば、ごろつきはどこかに去ってゆくに違いありません。すなわち、私か彼か、どちらかが消えなければならないのです。

さて、私たち自身にも同じことが言えます。父なる神は、既にキリスト・イエスを通してあなたにすべての恵みをくださったのですから。そして、聖書は父があなたにくださる権利証書です。あなたが聖書に書かれていることを信じるなら、サタンは立ち去るしかありません。