このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません[マタイ24:2]
なぜ、主はここで、それほど美しい宮が、イスラエルの子孫の手に渡る前に荒れ果ててしまうなどと言われるのでしょう?それは宮の栄光が、金銀財宝ではなく、主の臨在にあるからです。世界中の金や宝物を集めた宮であっても、主がいなければ、それがなんの役に立つでしょう?こう言った物が遺されて、人々がそれに心を奪われることがあってはならないのです。神の宮である私たちは、神が真に臨在されているのでなければ、外見を取り繕っているにすぎないことに注意しましょう。
2015年8月10日月曜日
2015年8月9日日曜日
8月9日
主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように[詩篇41:3]
私たちの体が病み、弱められることを神が許されるのは、次の点を学ぶためです、(1)夜の間に祈る、(2)屋根にとまったスズメのように見る、(3)主がどのように私たちを床に着けてくださるかを知る、(4)罪を負う、(5)静かな心で待つ、(6)主の着物のふさにさわる、(7)神がみ言葉を送って私たちを癒すことを知る、(8)神が病によって私たちを使い良き器とするさまを見定める、(9)聖なるものこそが癒しであることを知る、そして、(10)自分の弱さ、病と死を克服する中で主のよみがえりの力を体験する。神のおかげで、私たちは病を通して、信じ、信頼し、かつ従うことを学びます。こうして、キリストが私たちの生活の中でもっとも大きな位置を占めることになります。
私たちの体が病み、弱められることを神が許されるのは、次の点を学ぶためです、(1)夜の間に祈る、(2)屋根にとまったスズメのように見る、(3)主がどのように私たちを床に着けてくださるかを知る、(4)罪を負う、(5)静かな心で待つ、(6)主の着物のふさにさわる、(7)神がみ言葉を送って私たちを癒すことを知る、(8)神が病によって私たちを使い良き器とするさまを見定める、(9)聖なるものこそが癒しであることを知る、そして、(10)自分の弱さ、病と死を克服する中で主のよみがえりの力を体験する。神のおかげで、私たちは病を通して、信じ、信頼し、かつ従うことを学びます。こうして、キリストが私たちの生活の中でもっとも大きな位置を占めることになります。
2015年8月8日土曜日
8月8日
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました[エペソ2:6]
主に仕えるようになったばかりの頃、主が自分をともによみがえらせてくれるよう祈ったことを思い出します。その当時、私は、主がご自身とともに生き返らせてくれるなら、自分に、神の御心を実行する力が与えられると考えていたのです。このような祈りは間違っていました。自分自身から出たものだったからです。すべてはキリストとともに始まります。聖書は言っています、私はキリストとともによみがえらされた、と。これは既に成された事実です。覚えておきましょう。私たちは、自分自身の方を見ればそれだけ、悪くなるのです。
今、私はこう言うことができます、『主よ、あなたがすでによみがえられたこと、私もあなたとともに生き返ったことに感謝します』。私たちは先ず、自分が死者の中からよみがえった事実を信じる必要があります。とは言え、私はどのようにして生き返るのでしょう?自分が復活したと感じるからですか?そうではありません。私を生き返らせたのはキリストです。
主に仕えるようになったばかりの頃、主が自分をともによみがえらせてくれるよう祈ったことを思い出します。その当時、私は、主がご自身とともに生き返らせてくれるなら、自分に、神の御心を実行する力が与えられると考えていたのです。このような祈りは間違っていました。自分自身から出たものだったからです。すべてはキリストとともに始まります。聖書は言っています、私はキリストとともによみがえらされた、と。これは既に成された事実です。覚えておきましょう。私たちは、自分自身の方を見ればそれだけ、悪くなるのです。
今、私はこう言うことができます、『主よ、あなたがすでによみがえられたこと、私もあなたとともに生き返ったことに感謝します』。私たちは先ず、自分が死者の中からよみがえった事実を信じる必要があります。とは言え、私はどのようにして生き返るのでしょう?自分が復活したと感じるからですか?そうではありません。私を生き返らせたのはキリストです。
2015年8月7日金曜日
8月7日
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです[2コリント4:10]
私たちは、いのちの通る管なのですから、何者にも押し止められてはいけません。そうなれば、詰まった管の中を水が流れないのと同じで、神の命が私たちの中を通ってゆくことができないからです。十字架の働きによって、私たちは開かれます。他の人たちも聖霊の命を受けることができるように、アダムから来たあらゆるものを捨て去り、、自然の秩序を排除するためです。聖霊に満たされることによって、私たちの霊は常に、キリストの十字架を負うことができます。そして、一度聖霊に満たされたら、十字架のいのちを持つことによって、私たちは神の御霊に用いられ、自分たちの中から、周囲の人々へと、同じ十字架のいのちを放つことになるのです。私たちは、自ずと会話や人とのやり取りの中で、いのちを広めることになります。個人的な会話の中でも、公の場でも、こうして私たちは触れ合う誰をも豊かにするのです。
私たちは、いのちの通る管なのですから、何者にも押し止められてはいけません。そうなれば、詰まった管の中を水が流れないのと同じで、神の命が私たちの中を通ってゆくことができないからです。十字架の働きによって、私たちは開かれます。他の人たちも聖霊の命を受けることができるように、アダムから来たあらゆるものを捨て去り、、自然の秩序を排除するためです。聖霊に満たされることによって、私たちの霊は常に、キリストの十字架を負うことができます。そして、一度聖霊に満たされたら、十字架のいのちを持つことによって、私たちは神の御霊に用いられ、自分たちの中から、周囲の人々へと、同じ十字架のいのちを放つことになるのです。私たちは、自ずと会話や人とのやり取りの中で、いのちを広めることになります。個人的な会話の中でも、公の場でも、こうして私たちは触れ合う誰をも豊かにするのです。
2015年8月6日木曜日
8月6日
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」[ヨハネ2:5]
キリストのしもべにとって、もっとも大切なことは、神が自分に何をして欲しいかを知ること、いつ、どのようなかたちでして欲しいのかを知ることです。主に仕える者は、なすべき仕事を自分で計画する必要はまったくありません。新しい契約の特徴のひとつとして、誰にでも神の御心を知ることが許されています。キリストのしもべは自分の心に聖霊の啓示を受けることを認められているので、神が自分に何を求めているかを明確に把握できます。こうして得る知識は本物で、自分の想像から来たものでもなく、他者からの励ましや指導によってもたらされるものでもありません。それは聖書の教えに基づいたものであって、その人の心に宿る聖霊によって、神から命令として、いのちの奥底に示されます。
キリストのしもべにとって、もっとも大切なことは、神が自分に何をして欲しいかを知ること、いつ、どのようなかたちでして欲しいのかを知ることです。主に仕える者は、なすべき仕事を自分で計画する必要はまったくありません。新しい契約の特徴のひとつとして、誰にでも神の御心を知ることが許されています。キリストのしもべは自分の心に聖霊の啓示を受けることを認められているので、神が自分に何を求めているかを明確に把握できます。こうして得る知識は本物で、自分の想像から来たものでもなく、他者からの励ましや指導によってもたらされるものでもありません。それは聖書の教えに基づいたものであって、その人の心に宿る聖霊によって、神から命令として、いのちの奥底に示されます。
2015年8月5日水曜日
8月5日
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます[マタイ11:29]
時々神は、慎重な人と不注意な人、強い人と弱い人、健康な人と病気の人、賢い人と無知な人、短気な人と穏やかな人、また、きちんとした人とガサツな人をひとつにすることがあります。これは、どちらか一方がもう片方のくびきとなるためです。これにより、両者ともにキリストの本質を学ぶ機会が与えられます。それに抗うなら、気持ちが安らぐことはありません。しかし、もし神に対し、『あなたがくださったくびきを負います。私は自分の居るべき場所に住まい、従いたいのです』と言うなら、そこに安らぎと喜びを見出すでしょう。
時々神は、慎重な人と不注意な人、強い人と弱い人、健康な人と病気の人、賢い人と無知な人、短気な人と穏やかな人、また、きちんとした人とガサツな人をひとつにすることがあります。これは、どちらか一方がもう片方のくびきとなるためです。これにより、両者ともにキリストの本質を学ぶ機会が与えられます。それに抗うなら、気持ちが安らぐことはありません。しかし、もし神に対し、『あなたがくださったくびきを負います。私は自分の居るべき場所に住まい、従いたいのです』と言うなら、そこに安らぎと喜びを見出すでしょう。
2015年8月4日火曜日
8月4日
わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです[マタイ12:28]
神の王国は、神の主権が及ぶところです。主の主権があるところ、悪霊には何の力もなくなります。聖書は二つのことを語っています。神の御国と、神の力です。神の王国は、神の主権を象徴します。神の霊とは、神の力を表すものです。神には権威がありますが、これはその背後に力があるからです。御霊は神の王国の力です。神の御国はどのように来るのでしょう?その力を通してです。主はここに力を示され、神の王国が来るのです。
神の王国は、神の主権が及ぶところです。主の主権があるところ、悪霊には何の力もなくなります。聖書は二つのことを語っています。神の御国と、神の力です。神の王国は、神の主権を象徴します。神の霊とは、神の力を表すものです。神には権威がありますが、これはその背後に力があるからです。御霊は神の王国の力です。神の御国はどのように来るのでしょう?その力を通してです。主はここに力を示され、神の王国が来るのです。
2015年8月3日月曜日
8月3日
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです[ヨハネ6:63]
主イエスの成されるわざを、霊において見るとき、主のすべての働きが私たちのために生きていることに気づきます。主の働きを霊の外から見ると、すべてはただの文字となってしまいます。文字は死んでいます。こう言ったものを単に教義として扱うとき、それは死んでいるのです。聖書に記録された事実を信じているのに、それが日々の生活に何の助けにもならない人がいるのは何故でしょう?また、教義を聞いても、何の力にもなっていないという人もいます。さらにまた、聖書の中に神の言葉を見出しても、それが働かないのはなぜでしょう?こんなふうになってしまうのはすべて、神の真実に霊の中で触れないためです。キリストにおけるあらゆることがらは、単なる文字や書物として取り扱われると、過去のものとなってしまいます。しかし、御霊においてそれらに近づくなら、決して、過去とはならず、生きた現実として存在し続けます。
主イエスの成されるわざを、霊において見るとき、主のすべての働きが私たちのために生きていることに気づきます。主の働きを霊の外から見ると、すべてはただの文字となってしまいます。文字は死んでいます。こう言ったものを単に教義として扱うとき、それは死んでいるのです。聖書に記録された事実を信じているのに、それが日々の生活に何の助けにもならない人がいるのは何故でしょう?また、教義を聞いても、何の力にもなっていないという人もいます。さらにまた、聖書の中に神の言葉を見出しても、それが働かないのはなぜでしょう?こんなふうになってしまうのはすべて、神の真実に霊の中で触れないためです。キリストにおけるあらゆることがらは、単なる文字や書物として取り扱われると、過去のものとなってしまいます。しかし、御霊においてそれらに近づくなら、決して、過去とはならず、生きた現実として存在し続けます。
2015年8月2日日曜日
8月2日
主はモーセに告げて仰せられた。「…最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」[出エジプト13:1-2]
ここで、これから後、イスラエルのすべての初子は神のものであると言い渡されています。今日も代わらず、小羊のかけがえのない血潮をもって引き寄せられた者は、誰もが神に属しています。私たちは買い取られたのですから、もはや自由ではありません。誰が心から、『神よ、私はあなたのものです、私はあなたの奴隷です』と、言えるでしょうか?『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい(1コリント6:20)。』人が救われた日が、その人が買い取られた日となります。奴隷は金で買い取られますが、召使いは金で雇われます。買い取られたものには、何の自由もありませんが、雇われたものには自由があります。私たちは鎖につながれた神の奴隷であって、雇われ人ではありません。聖書が書かれた原語によれば、私たちは神に買い取られた奴隷であって、雇われた使用人ではないのです。
ここで、これから後、イスラエルのすべての初子は神のものであると言い渡されています。今日も代わらず、小羊のかけがえのない血潮をもって引き寄せられた者は、誰もが神に属しています。私たちは買い取られたのですから、もはや自由ではありません。誰が心から、『神よ、私はあなたのものです、私はあなたの奴隷です』と、言えるでしょうか?『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい(1コリント6:20)。』人が救われた日が、その人が買い取られた日となります。奴隷は金で買い取られますが、召使いは金で雇われます。買い取られたものには、何の自由もありませんが、雇われたものには自由があります。私たちは鎖につながれた神の奴隷であって、雇われ人ではありません。聖書が書かれた原語によれば、私たちは神に買い取られた奴隷であって、雇われた使用人ではないのです。
2015年8月1日土曜日
8月1日
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。[ピリピ2:12]
恐れおののいて自分の救いを達成するためには、私たちは自分で責任を負わなければなりません。自分で責任を負わなければ、キリスト者としての生活において偏ってしまいます。キリストはまことに、私たちのために死なれ、私たちのために血を流され、私たちのためによみがえって、天に昇られました。この事実を知った上で、自分は礼拝だけしておけばよいだろうと考えてしまう者もいます。そのような人は、どこまでも受身で考えます。自分から祈り、聖書を読み、また、自分を清めて献身することの必要を感じません。しかし、大切なことがあります。神が私たちのためにすべてを完了されたのですから、私たちもいっそうの熱意を持たなければなりません。神は既に私たちの中に働きかけてくださったのですから、今度は私たちがそれをやり遂げなければなりません。
恐れおののいて自分の救いを達成するためには、私たちは自分で責任を負わなければなりません。自分で責任を負わなければ、キリスト者としての生活において偏ってしまいます。キリストはまことに、私たちのために死なれ、私たちのために血を流され、私たちのためによみがえって、天に昇られました。この事実を知った上で、自分は礼拝だけしておけばよいだろうと考えてしまう者もいます。そのような人は、どこまでも受身で考えます。自分から祈り、聖書を読み、また、自分を清めて献身することの必要を感じません。しかし、大切なことがあります。神が私たちのためにすべてを完了されたのですから、私たちもいっそうの熱意を持たなければなりません。神は既に私たちの中に働きかけてくださったのですから、今度は私たちがそれをやり遂げなければなりません。
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