2015年12月31日木曜日

12月31日

しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、…[黙示録1:17]

神はこの世界の始まりを作られましたが、では終わりはどうなるでしょう?この質問に対して、神ご自身が答えを出されています。黙示録の第1章で、主による宣言がなされています、『わたしは、最初であり、最後である』と。これは、イエス・キリストの黙示です。そして、同じ書の最終章(22:13)で主は、『わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。』と、再び宣言しています。これもまたイエス・キリストの黙示です。

言葉を換えて言えば、神が始めたことは、真実をもって終えられるということです。かつて、エデンの園で解決できなかった問題も、後に解決されます。主のあがないは完全で完璧なものです。そして主の永遠の計画は完遂されなければなりません。今日解決できなかった問題はすべて、主がやがて来る日に解決してくれます。神に感謝しましょう。来るべき日にはキリストがすべてのものを完成してくれます。主は、最後であると同時に最初でもあるからです。これはイエス・キリストの黙示です。神は私たちに示されます。最初であり最後であるこの方ご自身が、まことにすべての問いへの答えであることを。

2015年12月30日水曜日

12月30日

すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです[1コリント15:22]

アダムにある以上、私たちは皆、罪人であることを忘れてはなりません。アダムから生まれたものはみな、アダムの性質を受け継ぎます。私たちの中の罪人は、すぐにかんしゃくを起こし、ためらいなく嘘をつきます。アダムの命、性質や行いが私たちの中に入り込んでいるからです。救いの道は、神が私たちを良くしてくれる事ではなく、アダムから私たちを救い出して、キリストの中に入れてくださることにあるのです。これによって、キリストにあるすべてのものが私たちの中に流れ込んできます。アダムの中にある私たちはすぐに罪を犯し、キリストの中にあるときにはじめて、義を実践できることを聖書は示しています。次のことに注意してください。私たちの心の中に秘密の場所があり、そこに間違いが潜んでいます。それは、神が私たちを変えてくれることを待ち望む考えです。しかし、神が私たちの内に何かをするということは決してありません。そうではなく、私たちの中にキリストを入れてくださるのです。

2015年12月29日火曜日

12月29日

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』[マタイ25:21]

霊的な事柄においては、『時』は『永遠』のためにあることを認めなくてはなりません。すなわち、今のこの時に行う働きは、私たちが永遠に用いられための準備に過ぎないと言うことです。神が、私たちを今、この場所におかれたのは、永遠の中で用いられるように訓練するためです。時間とは、霊的な訓練と教育を受ける学校のようなものです。今、この時に受けている霊的な訓練と教育のおかげで、永遠の中で、私たちは真に神の役に立つようになれるのです。黙示録22章から分かるように、私たちは永遠の中でさえ神に仕えるのです。今日、主が私たちを神の子供たちの間におかれるのは、私たちが彼らと共に学んで、主に用いられ、永遠に仕える準備をするためにです。

2015年12月28日月曜日

12月28日

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです[ピリピ2:13]

ある女性が亡くなったとき、その墓石にはその人自身の言葉が刻まれました、『彼女は自分にはできなかったことをなした!』

私たちはとても厳しい毎日を送っています。私たちが完璧な救いを得て、清い生活を送ろうと思えば、それは神のみ業でなければなりません。多くの人がキリストの真似をしようとしますが、絶対にうまく行きません。しかし、神がなされるから、私にできるのです。神が私の中で働かれるのだと言う事実を早く認めてください。働くのは私ではありません。神が初めに働かれるから、私が働くのです。聖書にある崇高な要求を、自分の力で為そうと試みても、失敗するに決まっています。私がしなければいけないのはただ、望むこと、私の中で働いてくださいと神に頼むだけです。

2015年12月27日日曜日

12月27日

するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」[ルカ5:5]

すべてのものは神の所有物であり、神にできないことはありません。だから、神こそがすべてであるはずです。すべては御霊の力のうちに成されなければなりません。もし人間がほとんど無になってしまったら、神のみ言葉も大きな痛手をこうむり、あらゆるものが前に進むことを止め、すべてがいっせいに消え去ることはないにしても、その実は衰えてしまうだろう、と考える人がいます。しかし、私たちにとって大切なのは、本物の霊的な働きであり、神の前になる御霊の実です。

御霊の働きは、たった5分でも霊的な役に立ちます。一晩中、ずっと仕事をしても何もなしとげられない私たちと違います。主の命令が下るまで待って、ただの一投げで網いっぱいの魚を捕まえるほうがはるかによいのではないでしょうか?

2015年12月26日土曜日

12月26日

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った[使徒16:6]

私たちが神の僕であることを理解しましょう。主は、ご自分の働きを私たちに任せてくれますが、その僕に指示する権威は、いつも維持しておられます。思い出してみてください。アンテオケにおいて、聖霊が主の僕たちに働きをさせるために呼び出しましたが、パウロとシラスは自分たちが選択したアジアには行けませんでした。主の僕がどこへ行くか、それを決める権威は、永久に聖霊の手の内にあります。この時、アジアの誰かに必要があったからではなく、アジアにおいて、神が彼らを必要としていたのでした。主のために働く力を与えてくれる御霊が、働くところと時を定めてくれることを、使途行伝が教えてくれます。これは素晴らしいことです。働きをするにあたって私たちの責任は、神のその時々の必要を支えることにあります。

2015年12月25日金曜日

12月25日

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」[マタイ2:1-2]

人が飢えていなければ、神は啓示を与えないでしょう。東方の博士たちはおそらく、神に仕え、神を求めてきた人たちなのでしょう。死んだ知識しかなければ、パリサイ人のようになってしまいます。聖書の言葉は知っていても、天国の光を見ることはできません。彼らは、聖書を読んで、救い主のことを、非常に詳しく知っていました。しかし、天国の星が現れたのを見て、彼らは救い主の降臨をみとめたのです!天に現れた星とミカ書(5:2)の予言があったからこそです。神の啓示を受け止める条件とは、待つこと、そして求めることです。

2015年12月24日木曜日

12月24日

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい[マタイ26:41]

クリスチャンがもっとも攻撃を受けやすいのは祈っている時であることは、みな知っています。他のことをしている時は、夜11時、12時までも人と話していられるし、深夜遅くまで働くこともできます。しかし、夜9時に祈ろうとすれば、何かが足を引っ張り、もう眠りたいと思うでしょう。なぜ、初めは調子よかったのに、祈り始めた途端に疲れた気分になるのか、理解できないと思います。

あなたを祈らせないように妨げる敵がいるのだと考えれば、これは説明がつきます。敵は、あなたが天国に語りかける回線を切断したいのです。祈りの力を知っているからです。祈りによって、その活動が制限され、天国からの力を呼び入れることをよく知っているのです。

2015年12月23日水曜日

12月23日

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか[マタイ6:26]

『神にできるだろうか?』、とか、『神はしてくれるだろうか?』とたずねる者は、自分の不信仰をあらわにしています。神への信仰なしに生きることは、人間にとってなんと言う苦しみでしょうか。私たちの悩み事はただ神を信じることによってのみ、和らげてもらえます。神がこの世界を5日間で造り上げた後、6日目に人間を造られました。神は人間を作る前に、必要なもののすべてを用意されました。私たちはよく、自分たちが初めの日に造られたと想ってしまいます!

心配しても何の助けにもならないと分かっているのに、なぜ心配してしまうのですか?助けがあるなら、心配する必要はありません。誰も助けてくれないなら、心配しても、やはり意味はありません。

2015年12月22日火曜日

12月22日

神の霊は水の上を動いていた[創世記1:2]

『動いていた』は元の意味では、『浮かんでいた』とか、上を『漂っていた』と言うことになります。この意味からは、愛情と思いやりを示す絵が浮かんできます。ここにあるのは、母鷲と子鷲を描いた申命記32章11節と同じ言葉です。神もまったく同じではないでしょうか、『わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。』。私たちが神の愛に応えられますように!神のみ心は、どれだけ私たちを求めていることでしょう!そして、私たちは何者なのでしょう?罪びと以外の何者でもありません。堕ちた人間に過ぎません。それでも、主は私たちに怒っておられませんし、私たちを蔑むことも、見放すことも決してありません。神は、私たちの上に精霊が漂う価値がないとは決して考えません。

2015年12月21日月曜日

12月21日

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです[1コリント1:29]

生活と仕事において、信者の進歩を最も妨げる要因はその肉にあります。人は自分の肉を、すべて否定するようにという神の呼びかけに気付いていないのです。罪から離れるだけ十分だろうと想像しています。神の働きを助けるための能力、情熱、知恵、また、霊的な生活における自分の善良さと力、どちらに対しても、神は等しく不満足であることを人は知りません。肉に従って私たちがよいと考えるもの、肉の手段によって計画し、用意するものはすべて、自分で拒否し、死へと明け渡し、神に基づいて審判を受けなければなりません。主には肉の助けは何の役にも立ちません。これは、霊的な生活、霊的な働き、どちらにおいても同じです。

2015年12月20日日曜日

12月20日

彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとした[マルコ15:23]

これは十字架の上で、味合わされる痛みを和らげるためだったと言われています。しかし、私たちの主はそれをお受けになりませんでした。主は苦しみから逃げることを拒まれました。この世に来られる前、主は『まずすわって、その費用を計算』しました(ルカ14:28)。主は世のすべての罪人を心から愛されたので、彼らのすべての苦痛を喜んでその身にお受けになったのです。主はむしろ、罪人の死を、ただこの一度で完全に味わい、それによって、彼らが永遠の命を受けられることを望まれました。主は、罪人が持つあらゆる苦しみを敢えてご自分の身に受けられましたが、それは、彼らが主の正しさを喜ぶことを望まれたためでした。

12月19日

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです[創世記3:5]

神にとって、ご自身の外側からなされた行動はすべて罪です。『神のようになりたい』、たとえば、これは立派な願いです。しかし、神の命令をきいて、神の時を待つことなしに、これを試みようとすれば、それは神の目には罪と映ります。私たちはいつも、悪い事柄を罪とみなし、良いことを正しいと考えてしまいます。神の考えは、しかし、これとは異なります。良いものと悪いものを見かけで区別するのではなく、神は物事がどのように成されるかを見極めます。その言動が世の中に対してどれほど立派に見えようとも、神の御心を求め、神の時を待ち、また、神の力により頼むことなしに、信者が行ったことはなんであれ、神の目には罪を犯したことになるのです。

2015年12月18日金曜日

12月18日

キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです[コロサイ3:11]

イエス・キリストは信仰の創始者であり、完成者であると言われています。私たちの信仰は、主の中に始まり、主の中に終わります。私たちが信じるものは、主の中だけにあります。私たちはただ、主を追い求めなければなりません。神聖さ、勝利、完璧な愛、御霊による洗礼、魂を獲得したいと言う渇望、どのような霊的な闘いも、私たちの主への思いを奪い去ることはありません。初めから終わりまで、それは主イエス様ご自身です。私たちの信仰は、主を終わりであると共に、始まりであると捉えます。主以外に何も見るものはありません。当然のことながら、主イエス様を見つめ続ければ、清さ、勝利、そしてこれらのもののすべてがいのちの中に現されます。許し、正しさと新生がキリストの中にあります。御霊の清さ、勝利、完全さも同じようにキリストの中にあります。キリストこそすべてです。主は、すべての始まりの始まりであり、すべての終わりの終わりです。簡単に言えば、私たちのすべては主のうちにあるのです。

2015年12月17日木曜日

12月17日

それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない[レビ記6:5]

罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえにはその性質において、基本的な違いがあります(第2節を参照)。罪のためのいけにえは『なだめ』のために行われ、罪過のためのいけにえは『償う』ために捧げられるからです。

私たちの罪は、神の前で、神の子羊の流された血を通して、和らげてもらわなければなりません。私たちが人間に対して犯した罪は、どのような物であろうと、償わなければならず、和らげることはできません。預りものをごまかしたり、不正なやり方で利益を得た場合は、相手に対して償う必要があります。償いをしないのなら、罪過のためのいけにえを捧げることはできません。主イエス様の血を通して神の許しを得ることは真実です。しかし、人に対して罪を犯しながら、それを償うことを拒否すれば、神との対話は失われます。過去に行ったことを考えるといつも、良心が咎められるでしょう。そのような状態で、神と自由に交わることはできません。

2015年12月16日水曜日

12月16日

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです[マタイ5:8]

『心がきよい』とは、ただ神の栄光と御心がなることだけを目的としていることを意味します。このような人は神が得るもの意外は何一つ求めません。神は、探求する対象であり、同時に最終的な答えでもあります。ただひとつのもの探す人は、ただひとつのものを見ます。神を求めるからこそ、その人は神を見るのです。『彼らは神とキリストとの祭司となる』(黙示録20:6)。司祭とは神を見る人のことです。誰も、神を見るという恵みを失うことがありませんように。

2015年12月15日火曜日

12月15日

このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました[1ペテロ4:1]

ここで言われているのは、どのような武器でしょう?それは最良の武器です。キリストが苦しみを受けたときと同じ心で武装しているからです。神に従順である時はいつでも、あなたの人生はとても苦しいものとなり、誰からも厳しい扱いを受けると、告げられるでしょう。これに対して、あなたはキリストのこと、主がどれほどの苦しみを肉において受けたかを想い、このため、あなた自身も苦しまなければならないことを思います。

これが私たちの武装です。私たちは苦しみを受けるのです。苦しむことは私たちの義務だけでなく、私たちの職務でもあります。苦しみを受けるのは私たちの仕事のようなもので、私たちはこれを心から喜んで受け入れます。このような武具で武装すれば、あなたと私は何者をも打ち負かすことができます。苦しみを受けることを恐れず、むしろ、喜んでそれを受け入れるのです。苦しみを目の当たりにして怖気ずくことなく、逆に自分から向かって行きましょう。

2015年12月14日月曜日

12月14日

イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」[マタイ24:2]

人の目に見えるものは外面であり、一時的なものに過ぎませんが、主はその霊的な力によって、視覚を超えて見通すことができます。現在の人間の目に、美しく映るものはこの世であり、文明化されているのは物質に過ぎません。しかし、主の持つ霊的な視覚を通せば、人間にも、地上にあるあらゆるものはいつの日か、焼け落ちるという事実を覚えることができます。私たち信者は、なぜ、それでもなお、この世のものを心を奪われるのでしょう?弟子たちには分かりませんでしたが、世界がどれほどよいものであろうと、すべてが火の中で燃え尽きる日がくるのです。

2015年12月13日日曜日

12月13日

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です[1コリント12:12]

マタイによる福音書を読むとキリストのある面を知ります。マルコによる福音書を読むと、キリストの別の顔に気付きます。ルカによる福音書を読むと、キリストの清さのさらに違った側面が見えてきます。そして、ヨハネによる福音書を読めばキリストの栄光について、また別の面を見ることができます。これに加え、ペテロの手紙を読むと、キリストの荘厳な輝きを拝し、パウロの手紙を読めば、そこにはキリストのことがまた別の形で表されています。また、ヨハネの手紙をたどれば、キリストの栄光ある美しさの記録は、これまでに書かれたあらゆるものに勝ると告白せざるを得ないでしょう。これらすべてのことから、私たちの主は誰よりも偉大なお方であり、信じる者は年齢や国籍にかかわらず、主のことを語らずにいられないのです。キリストのみ体は、主の命、そのさまざまな美しさと栄光が、個々の器官を通して、現れているところです。

2015年12月12日土曜日

12月12日

信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました[ヘブル11:21]

神はヤコブの杖のことを自らの言葉で語っておられます。家から出て行ったときも、家に帰ってきたときも、エジプトに向かった時も、その人生を通して、ヤコブはいつも杖を持っていました。これは、ヤコブが人生全体を巡礼者として生きたことを示しています。だからこそ、神は喜んだのです。

これからは、私たちも巡礼者としての人生を送ることになります。世の暮らしに戻ることはないのです。あなたの手には杖がありますか?エジプトに残るか、それとも、荒れ野を旅して約束の地、カナンに達するか、あなたはどちらだと思いますか?あなたが住む世界は、単なる通路に過ぎず、死んだ後は墓石しか残らないのです。通路と墓石、この二つの他には、あなたはこの世と何のかかわりもないのです。

2015年12月11日金曜日

12月11日

主であるわたしは変わることがない[マラキ3:6]

神は決して変わりません。主イエス様の働きも変わるということはなく、御霊もまた、変わりません。何も知らない子供は、雨の日には太陽が消えてしまったと考えます。そして、父親に太陽はどこに行ってしまったのかと尋ねます。階段を上がって、少しでも太陽に近いところから見ようと試みますが、決して見えせん。それでもあきらめず、近くの火の見やぐらに登ってみても、やはり太陽を見つけることはできません。しかし、実際は、太陽は変わったわけではなく、ただ黒い雲の後ろに隠れていることを、私たち大人は知っています。これと同じで、信者にとっての太陽も変わることはありません。ただ、信者の感情かたが変わるのです。自分の心の空に黒雲が立ち込め、太陽の光が視界から遮られてしまいます。信者が自分の感情の中だけに生きれば、その人の空は簡単に変わってしまい、いつも厚い雲の後ろに隠されてしまいます。しかし、感情に頼って生きることをやめれば、空が変わることはなくなります。私たちは、感情と言う黒い雲よりも上に生きなければなりません。

2015年12月10日木曜日

12月10日

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです[ローマ8:2]

ここで言ういのちの原理の性質とはどのようなものでしょう?その性質は、ある流れに沿って無意識のうちに働きます。たとえば、耳は無意識のうちに聞くし、目は本能的に見ます。意識して、そうしむける必要はありません。舌が食べ物を味わうのも同じで、良いものは自然に飲み込み、悪いものは吐き出します。どちらも、意識的な努力は必要ありません。神が私たちの中に入れるものは、いのちであり、このいのちはそれ自体が原理なのです。

以下のように考えてみましょう。枯れた桃の木にこう話しかけるところを想像してみてください、『あなたには緑の葉と赤い花があるはずだし、時機が来れば桃の実を結ぶのではないですか』。一年の初めから終わりまでこう言い続けようとも、何も得られません。その木は枯れているのですから。しかし、まだ生きている桃の木であれば、あなたが頼まなくても、自然に芽、葉、花を付け、実を結びます。これが自然に働く、いのちの原理と呼ばれるものです。

2015年12月9日水曜日

12月9日

立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです[使徒9:6]

あなたに何をさせたいか、ここでは言わないが、他の誰かが教えてくれる。上の聖句の中で主が言われたのはこういうことです。主は、他の誰かを使って、パウロに語りかけました。これはキリストの体を啓示するものです。パウロが救われた初めの日、主は彼に律法、すなわち、み体の原理を現されました。パウロはいずれは主に大いに用いられる器となる者でしたが、それにもかかわらず、主は他のものに彼を助けさせたのです。ですから、神だけから直接すべての物を受けるのであって、他の人に頼る必要はないなどと、決して考えないでください。もちろん、これは他人に盲目的に追従することを教えているのではなく、こう勧告しているのです。私たち自身が主の言葉を受けたら、どのような問題も解決でき、人の手を借りる必要はないなどと考えて、高慢な態度をとることがあってはならないと。

2015年12月8日火曜日

12月8日

だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう[マタイ13:30]

麦は乾かさないといけません(水が必要なブドウと違います)。ですから、日射が必要です。刈り入れの時期を決めるのは、中に残っている水分の量です。刈り入れの前に、煙突と屋根を、完全に乾かしておく必要があります。ここで、われわれはみな、麦であり、乾ききらなければなりません。すなわち、この世の楽しみを求めることをやめるのです。『麦は地に向かって乾いてゆき、天に向かっては熟していく』、鋭くもこう言った人がいます。日光は、過酷でありながらも、麦が生長し熟すのを助けるものであり、霊的に言えば、世を愛する私たちが乾き切るために必要な試練を現しています。麦によって聖人、王国の御子を現された神の知恵は実に深いものです。神は、私たちが熟すのを待ってから、ご自身が刈り入れます。信者の携挙の時は、ある意味、その成熟の度合いによって決まるのです。

2015年12月7日月曜日

12月7日

そして彼らに言われた。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある[マタイ21:13]

教会の祈りについて語るとき、私たちは、私的な祈りと同じくらい真摯に考えているし、個人的な祈りと変わらず重視しています。それでもなお、天の御国においては、ある人物にできないことがあれば、お互いが協力し、助け合って成し遂げる決まりであることを覚えてください。とくに祈りの問題においては、相互の協力が必要となります。主のすぐ後を付いていく者はしばしば、他の信者と共に祈る必要性を感じます。時には、彼らは自分の祈りが不適切であると感じます。とくに何か極めて大きな問題、たとえば天の御国のことを祈るような時は、教会全体の力を必要とします。マタイ21:13で主はこう言われています、『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』ここに、ヘブル書3:6の『私たちが神の家なのです』を加えてもよいでしょう。

2015年12月6日日曜日

12月6日

わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい[ヨハネ20:17]

この箇所は私たちには、神と父があることを教えてくれます。では、父としての神、神としての神、この二つの違いは何でしょうか?聖書の示すところによれば、父としての神は、神と個人とのかかわりをあらわし、神としての神は、神と宇宙全体とのかかわりを意味します。

神を父として知ると、その胸のうちに飛び込みたくなりますが、それに対して、主を神として知るとき、私たちは自ずと地面にひれ伏して礼拝せずにいられなくなります。私たちは神の子供であって、神の愛の中に生き、賜物を喜んで受け取れる者です。私たちは神の民であって、神を褒め称え、礼拝するものとして、自分の土地に立っています。主を神として知ることで、『聖なる飾り物を着けて主にひれ伏す(詩篇29:2)』のです!詩篇の作者が、『あなたを恐れつつ、ひれ伏します(5:7)』と歌うように。人が、神を神として知るなら、どうして主を恐れずにいられるでしょう?

2015年12月5日土曜日

12月5日

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます[ローマ16:20]

私たち信者は、主から選ばれたものであり、悪魔の試みと力を滅ぼす目的で呼び入れられたということを忘れてはなりません。何かするにあたり、それがよいか悪いかではなく、むしろ、それが神の利益となり、サタンの不利益となるかどうかを尋ねてください。闇の王国を揺るがし、悪魔に害を与える力がなければ、何も行うことはありません。

すべての働きにおいて、目に見える結果によらず、それが霊的な世界に与える影響、誰が利益を得、誰が損害を受けるか、それに基づいて判断しなくてはいけません。これは霊的な戦争であって、血肉の働きに対して、対価が支払われるものとは違います。また、これは審判の日に裁きの尺度ともなるものです。ある働きが火に投げ入れられるか、生かされるのか、その違いは神の御心を達成するためにどれだけ有効であったかと言う観点から決まります。

2015年12月4日金曜日

12月4日

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです[ヘブル11:1]

これが聖書による信仰の定義です。『確信』とはなんでしょうか?ギリシャ語(hupostasis)では、この言葉は、『下に立つ』、『支える』ことを意味します。上にあるものを支える何かということになります。たとえば、本は本棚に置かれていますから、本棚は本を支えるものです。『保証』とはどういう意味でしょう?この言葉は、『証明』とは何であるかを教えてくれます。すなわち、信仰とは、希望していた何かを支えてくれるものであり、それによって、私たちの心が平安と安らぎを見つけることができるのです。信仰は、また私たちの中でまだ見たことのないものを証明し、これにより、神が言ったことに、心からアーメンと言えるようになります。

神は真実なお方です。神の誠実さは、その約束と契約をも保証してくれます。もし、信じなければ、その言葉にも嘘があるかのように、神の誠実さを侮辱することになります。ですから、私たちが信じられない時はいつでも、自分自身の不信仰を罪として咎め、主に対し、信じることのできない自分の歪んだ心を取り除いてくださるようお願いしなくてはなりません。

2015年12月3日木曜日

12月3日

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます[マタイ7:24]

賢い人とは、神のみ言葉を行う人であり、愚かな人とは、それに従わない者のことです。岩は主の言葉をあらわしており、砂とは人間の考えのことです。岩の上に立てるとは、あらゆることを神のみ言葉に基づいて行うことです。主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである(箴言9:10)。神の前で、ただ素朴な心でいることは賢く、主に逆らう者はおろかです。『おそらく』とか、『私個人の意見では』など言うのは本当に愚かなことです。なんでも神に従うと、人間にはどうしようもなく愚かに見えるかもしれませんが、神にとっては真実の知恵と写ります。

2015年12月2日水曜日

12月2日

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」[マタイ16:15-16]

教会とは何かといえば、キリストが地上に残する声です。神は地上に教会を置き、これによってキリストを宣言し、告白しました。『主には力があり支配されることを私は信じる。主に栄光があることを信じる』、ペテロにとって、心の中でこう言っただけで終わるのは絶対に認められないことだったでしょう。ペテロには、『主よ、心の中であなたを信じています』という言葉は十分ではなかったでしょう。主が尋ねられた質問は、『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか』でした。ここで言う、『あなたがた』とは使途たちのことです。彼らに求められたことはただひとつ、声に出して叫ぶことでした。私たちは心の中で信じるだけで十分、一人で祈るほうがよい、と考えてしまうことがあります。しかし、ハデスの門も決して教会には打ち勝てないことを知れば、ナザレのイエスが誰なのかを宣言することが、どれだけ命と力と権威に満ちているか、理解することができるはずです。

2015年12月1日火曜日

12月1日

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである[ヨハネ3:16]

このかけがえのないみ言葉は三つのことを明らかにしてくれます。偉大な事実、偉大な条件、そして偉大なる結果です。偉大なる事実とは、神が人間の罪を償うための世界の救い主としてイエス様を遣わしたことです。偉大なる条件、すべての人間がしなければいけないことは、ただ信じることです。偉大なる結果とは、事実すばらしいことであり、人間には考えもつかないことです。信じるものは誰一人として滅びることなく、永遠の命を受けるのです。今述べたこのこと以上にすばらしい真実はこの世にありません。偉大なる条件、要求が、私たち一人ひとりの前に置かれ、それを満たすようにと示されました。すなわち、神が成し遂げたこと、その事実を信じることです。これだけが、ただひとつの条件です。偉大な事実が神によって成され、偉大な条件を人間たちが満たしました。そして、滅びることなく永遠の命を持つという、この偉大なる結果のおかげで、人は救いを持つことができるのです。