2015年6月30日火曜日

6月30日

それから、モーセはシナイ山から降りて来た。…彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった[出エジプト記34:29]

おしろいを塗っている女性は、始終、鏡で自分の顔を見ていなくてはいけませんが、モーセの顔は、自分でも気付かないのに、いつも、輝いていました。自分の内にある神の働きを外に現す者は、誰もが霊的な人と呼ばれます。しかし、何かを作り出そうとするときは、大きな力が必要です。そのため、時に人は、キリスト者であることに疲れを感じます。とは言え、どのような場合も、キリスト者は自分の力で問題に当たってはいけません。私たちはしばしば、物事を判断するに当たり、見た目によければ、おそらく大丈夫だろうと考えがちですが、神は、物事の根本を見て、それが御自信から来ているか、それとも、肉の力で模倣しているに過ぎないのかを判断します。

2015年6月29日月曜日

6月29日

みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります[詩篇119:160]

アッシリアで見つかった石版に刻まれた言葉が解読されたとき、旧約聖書に記された歴史がこの石版によって立証されたことが報告され、人々は熱狂しました。これはまさしくアベコベです。神の言葉を検証する必要などあるでしょうか?はっきりと理解しましょう。アッシリアの石版に記録されたことが、聖書の記述と一致したら、それは、石版に歴史的誤りがないことを示すに過ぎません。もし不一致があれば、石版が誤っていることになります。同じように、科学の教えることが聖書と合致する場合、聖書が科学の正しさを実証していることになります。二つから導かれる結論が違っていたら、それは聖書が科学的仮説に虚偽があることを証明したということです。

2015年6月28日日曜日

6月28日

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました[1ペテロ2:21]

ある姉妹はかつて、女王のように家を支配していたましたが、後に救われると、まるで家政婦のようになりました。彼女が両親にお小遣いを求めても、以前のようにすぐにはもらえなくなると、その人は娘としての地位と特権を自分から放棄してしまいました。クリスチャンとなった今、あなたはこれまでのように親に子供として扱われることを求めてはいけないし、また、友人は必ずしも以前のようにあなたに親切に対応してくれないかもしれません。人があなたの権利を踏みにじったとしても、自ら神の御手に任せ、主の御心を探るべきです。主とは、『神の御姿であられる方なのに、ご自分を無にした(ピリピ書2:6-7)』方です。主は、自分のために口を開かなかったのですから、私たちも、自分のために口を開くべきではありません。

2015年6月27日土曜日

6月27日

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった[申命記8:2]

神には、私たちを敗北や失敗させる必要などないことを理解しましょう。その必要があるのは私たちです。私の人生が順風満帆で、勝利と喜びに満ちている時は、自分自身を有能な人間とみなし、他の人にはない何か特別なものを持っていると考えがちです。霊的生活においても、何か進歩があったり、霊的な働きの面で何らかの成果を挙げたとき、大っぴらに自慢はしないにしても、今の自分は真に聖なる力に満ち、非常に優れた者ではないかとという気持ちになってしまいます。このような状態では、不注意になりやすく、神に依存する心構えを失ってしまいます。このため、主は私たちを栄光から塵の中へ突き落とされるのです。そうして、自分が世界で最悪の罪人と何の違いもないことを知らされます。その結果、はじめて自分に頼ることをあきらめ、すべてのことで、恐れと畏怖をもって、神に自分自身を委ねることができます。

2015年6月26日金曜日

6月26日

あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです[コロサイ3:9-10]

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、…古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ…[エペソ 4:22-23]

これらのみ言葉は、私たちが、神の命に従って、『新しい人』の完全さを体験することの必要を強調しています。『脱ぐ』、『脱ぎ捨てる』、そして、『着る』、これは意思による行動です。信者は自ら意志に沿って行動することによって、あらゆる面で、古い人のはたらきを否定し、新しい人の新鮮さを選択することが必要です。クリスチャンとしての最良の生活は、意志で選び取る人生です。意思が定まった時、心と知識は、神のみ姿に合わせて、新しく置き換えられるはずです。心は霊的な戦いの戦場です。それは、アダムの生活の砦であると同時に、罪のために腐敗しきった私たちの生活の一部でもあります。心が新たにされるなら、神の似姿とされるのは簡単なことです。

2015年6月25日木曜日

6月25日

パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ[出エジプト記2:15]

神があなたの方を見てくれない時、御心を理解できないかもしれません。神は、そのようなことを何度も繰り返して、安らかな環境を奪いますが、これは、神の力強い手の下に、あなたが自分から服従できるようにとされていることです。それは、あなたが主の御心を行うかどうかのテストです。自分の意思で対処しなければならないのです。それは立ち向かわなければならない危機です。イスラエルの子どもたちがモーセを拒絶したのは神から来たことでした。パロが彼の命を付け狙ったことも、神から来ていました。誰もいない荒れ野を逃亡させたのも、同じように神でした。40年間、荒れ野で神と何度に渡って語りあったことで、ついに、彼は、神から教えられました。ついに自分がまったく役に立たない者であることを認めたのです。それからの彼は、イスラエル人を自分の能力で救おうと夢見ることはなくなりました。もはや、自分を偉大で、力ある男と考えることもありませんでした。彼は、霊的な世界で自分がずば抜けて優秀な人物であると考えることをやめました。ようやく、彼は自分の力では何もできないことを知りました。そして、まさにそこが、長い旅の果てに到達して欲しいと、神が望んでいた場所でした。

2015年6月24日水曜日

6月24日

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません[マタイ10:38]

主が要求されていることはただひとつ、主を愛することだけです。自己を否定することなしには、誰も主を愛することはできません。ここで主は自分の十字架について語っているのではありません。強調されているのは、十字架を負うことです。主が十字架に付けられたのはただ一度の出来事です。その時は、主が私たちを支えました。十字架を負うのは毎日のことです。ここでは、私たちが主を支えます。

十字架を負うとはどういう意味でしょう?それは心の底から神に服従することです。ゲッセマネの園で、私たちの主は、父の意志を行うと心に決めていました。そのとおりに主は動かれ、十字架を負いました。したがって、十字架を負うとは、神の意思を成すと心に定めることに他なりません。

2015年6月23日火曜日

6月23日

私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです[エペソ2:18]

信頼とは、委ねる能力、信頼する大胆さ、完全に依存できる確信などを持つことを意味します。これは非常に大きなことです。信頼の精神は、祈りとクリスチャン生活のすべてにおいて最も重要なものと言えます。主と私たちの関係が絶えず揺れ動いているようなら、すなわち、私たちが確信も自信も失ってしまえば、私たちの人生のすべてが致命的な傷を負うことになります。

真の信頼を得られる原因はただひとつだけ、それは、キリストご自身です。私たちは、神の御許に近づくと言うすばらしい特権を与えられていますが、これは、キリスト自身がその特権だからです。それは神が提供されたものです。キリストのみ名において、私たちはいつ、どこでも父の元に来ることが許されています。私たちは、自分の名前や今の状態のまま、父に近づくことはありません。それは許されないことです。私たちはただ、御子の名においてのみ父に拝することができます。

2015年6月22日月曜日

6月22日

しかし、ノアは、主の心にかなっていた[創世記6:8]

ノアの生きた時代、人間はあまりに恐ろしい罪を犯し、その悪行が地上に満ちていました。そのため、神は洪水で彼らを滅ぼしました。しかし、神はノアとその家族だけでなく、他の多くの生き物のことも、心に止めてくださいました。神は、その生命を守りたかったのです。ですから、神はノアとの間に契約を結び、こう言われました、『わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり…、あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい』(創世記6:18-21)。彼らを生かしておくために、神はその食糧のことさえ心配されました。この契約には、神の心がどれだけ人間への愛に満ち、細やかであったかを現れています。

2015年6月21日日曜日

6月21日

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです[1ヨハネ1:3]

福音書が、書簡よりも先に置かれていることに注意してください。福音書が先ず、キリストが何をしたかを伝え、その後で書簡が、そこから何が生まれたのかを説明しています。最初にキリストの経験、次にキリストの教義。最初にキリストの生涯が語られ、その後にキリストの教えが来ます。

マルティン·ルターは、多くの悩み、苦しみを経てもなお、自分を義と信じるには至りませんでした。しかし、ある日、神は人はただ信仰によって義とされることを示されました。ただ信仰によってのみ、彼はついに義とされたのです。そして、その後で、彼は信仰による義認という教えを語りました。初めに生活があり、次いで該当する教義があります。教義を調べ、考え、研究することにに多くの時間を費やすことはやめましょう。それは葦のようなもので、実生活において困難に遭遇したとき、決して、あなたを助けてはくれません。あなたを最後まで支えてくれるのは神です。初めてに経験、そして教義です。

2015年6月20日土曜日

6月20日

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい[マタイ5:44]

ここで述べられていることは、愛があるからこそ行われるものです。心が荒れたままでは、迫害する者のために祈ることなどできないでしょう。ここで見る愛とは、相手に対する好感とか、親しみによるものではなく、むしろ哀れみから来る愛です。私たちは、哀れみの心を閉じてはいけません。

44節のとおりに生きることができれば、私たちは、天の父の子となることができます。父と同じ性質を示したことになるからです。『それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ…』、という45節に、神が人をどれだけ寛大に扱うか見ることができます。神が私たちのようであれば、誰も救いを受けることはないでしょう。ただ、神だけが、人間の悪を忘れることができます。人間には、悪を忘れる力はありません。人間の心は完全に、何かを忘れ去ることはできないのです。

2015年6月19日金曜日

6月19日

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え…これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです[マルコ7:21,23]

ここで、マルコの言う心とは、私たちの生まれたままの心のことです。その心はどのような状態にあるでしょうか?『これらの悪はみな、内側から出て…』と主は言われます。ああ、どれだけの邪悪さが心から生まれることでしょうか!しかし、マタイの福音書(5:8)では、主がこう宣言されています、『心のきよい者は幸いです』。主は人の心を救い、その邪悪を純粋さへと変えることができるのです。

内にある邪悪さを抑え付けて、外に出ないようにしても、私たちの心は救われません。内も外も徹底的に清めなければなりません。はっきり言いますが、何かを覆い隠したり、封印しようとすることは、決して救いではないのです。私たちはまだ、心の純粋さに至るまで救われていないからです。主の御前で自分を省みるべきです。どれだけの悪い考え、よこしま、高ぶりが心の中にあるでしょう。心の内側で抑え付けているだけなら、それは覆い隠しているだけであって、私たちの心はまだ救われていません。神は本当に、『心のきよい者は幸いです』と言ってくださるでしょうか?

2015年6月18日木曜日

6月18日

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです[ローマ6:14]

アメリカにあるクリスチャンがいて、彼は多くのことを克服したのですが、ただ、過去にくり返し犯してきた四、五個の罪だけは無理でした。彼は、自分の人生は絶え間ない告白の連続だったと証ししました。ある日、彼はローマ書6:14を読み、それに合わせて、次のように祈ったのです。『み言葉に、罪が私を支配することはないとありますが、今の状況を見れば、罪が私を支配していることは明白です。それでも今日、あなたの言葉を信じて、宣言します。私はすでに罪を克服しました。』

いつか、同じ誘惑のひとつに襲われたとき、彼が自分自身だけを見ていれば、再び下落するでしょう。しかし、神の言葉を信頼し、神の言葉の中には真実しかない、と述べる時、必ずや彼は勝利を経験するのです。こうなれば、彼は勝利の人生を生きることでしょう。私たちがしっかり、掴まなければいけないのは、ただひとつ、神の言葉だけです。自分を見れば、以前のように、堕落してしまうでしょう。周りの目にとらわれれば、以前と同じくらい、困難になります。しかし、あなたが神の言葉を信じるならば、打ち破ることができるのです。

2015年6月17日水曜日

6月17日

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです[ルカ15:10]

私たちの献身と服従が、父の心にどれだけの喜びを与えるか、これまでに考えたことがあるでしょうか?福音の頂点は、罪人が何を受けるかではなく、神が何を受け取るのかと言うことにあります。私たちは自分のすべてを神に与える必要があるのです。私たちはどれだけのものを神に差し出すことができるでしょう?少しくらい冷たくても、たいした問題ではないなどと、考えないようにしましょう。小さな冷淡さが、神にどれだけ損失を与えるか、頭においておきましょう。世を愛し、世と交わることは大きな問題ではないなどと、自分を正当化してはなりません。それが、私たちの神への関係につながることに気づくべきです。どれほど大きな損失を父に与えることでしょうか。

聖別を強いられるのは、私たちを落としめるためではありません。むしろ、それは、神の喜びに入ることを可能にしてくれ、神が私たちのことを喜んでくださるのです。なんとに素晴らしいことではありませんか!私たちが、今日、父の喜びに入り、神に喜びを与えることができますように!

2015年6月16日火曜日

6月16日

そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」[マタイ15:33]

そのような言葉を口にするものは、自分の周りしか見えていないのです。信仰が教えてくれるのは、自分の中で、『どこから』来るのかと言う思いを消し去りなさいことです。信仰のある祈りには、『どこから』と言う言葉はありません。神がそう言われるなら、それで十分だからです。

人々に配るよう弟子たちに与えられたパンは、復活を表しています。弟子たちの手の中のパンは、そのままでは増えることはありません。しかし、主によって裂かれ、女と子どもを除いて、男四千人が食べた後、増えたパン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあったのです。十字架が生活の中に入ってきたら、それはもはや自然ではなく、超自然なものとなり、他のすべての者の必要を満たして余りあるものとなります。

2015年6月15日月曜日

6月15日

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように[エペソ1:18-19]

時に、人は思わずこんな風に言いたくなる誘惑に駆られます、『神が世界を作られた時に、あれをこうしてくれていたら、もっと良かったのに』。しかし、パウロは、神が世界の礎が置かれる前に定められたことは完璧、かつ、完全であることを語っています。また人は、ついこう言いたくなることもあります、『ああ、今日、神がこうしてさえくれたら』。しかし、神が、私たちに理解して欲しいのは、すべてのことがすでに十字架にと復活で完了していることです。

ですから、神が私たちのためにもう少し何かをしてくれたら、とか、もっと私たちに向けて豊かに恵んでくれたら、もうちょっと力を示してくれたら・・・パウロはそんなふうに祈ることはなかったのです。パウロが強く望んでいるのは、私たちが神からより多くを得ることではなく、私たちが既に得ているものがどれだけの栄光に満ち、豊かで偉大であるかを理解することです。

2015年6月14日日曜日

6月14日

それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです[ローマ3:26]

人は、神の啓示を通じて罪を見るほどに、自分の罪を悲しく思い、また、赦された恵みをより深く感謝するようになります。中には、自分の罪はあまりに大きく重いので、神は許さないだろうと恐れる人がいます。それどころか、神が本当に彼らを許すとしたら、許しはあまりにも安易に与えられすぎだと考える人さえいるのです。このような間違った思い込みをする人は、みな、赦しはどこまでも信頼してよいと言うことを知る必要があります。それは確固たる基盤があって初めて成されるものだからです。

恵みは、それ自体が支配するのではなく、義の賜物によって支配します(ローマ5:21)。恵みは、私たちのところに直接、与えられるのではありません。十字架を介して間接的にもたらされます。神が私たちの罪を許すのは、私たちが悔い改め、後悔の念を語り、悲しみを言い表し、そして泣くの見て哀れに思うからではないのです。神はそんなもので、人を許すことはありません。神はまず、私たちの罪を判定し、それから、赦します。多くの人が思い込んでいるのは、『恵みと義の両方を守り続けることはできません』。これに対し、恵みによって教えられてきたすべての人なら言い返すでしょう、私たちの罪を赦しにあたって、神は恵みと義の両方を完全なままに保っておられます、と。

2015年6月13日土曜日

6月13日

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです[1コリント12:27]

からだのひとつの器官というのは、細胞とは違うものです。ひとつの細胞がなくても大きな問題にはなりませんが、体の器官のひとつがないということは考えられません。非常に悲しいことに、多くのキリスト者のあり方は体で言うと細胞のようなものに過ぎず、器官ではないのです。そのような人は、キリストのみ体において、特別に何かの役には立たないし、自分の役割を満たすこともないのではないでしょうか。教会の集まりでも、そんな人の存在はキリストの体に何かの足しになるようには見えないし、その人が仮にいなくてもからだから何かが欠けているとは誰も気付かないのです。もし、その人がみ体を理解することがあれば、自分自身をその一器官として見ずにはいられないでしょう。その人がからだを理解することになったら、そこにいのちを与えなければ、からだは失われてゆくことを知るでしょう。

2015年6月12日金曜日

6月12日

だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように[マタイ6:9]

主が弟子たちに教えたこの祈りは、新約聖書に記録されている、偉大なる啓示です。この祈りは、神の心からの願いを明らかにしています。それは、神は神でありたいということです。ただ一人、神ご自身のみが、天国でその名前を使うことができます。しかし、地上では神の名は、多くの人々にむなしく使われています。あたかも、神は存在しないかのように、ご自身を隠しているようすら見えてしまいます。しかし、ある日、私たちの主は弟子たちに、祈り方をこう教えました、『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように』。主は今も、私たちにこうに祈るように示されます。それによって、主のみが神であって、他にはいないと信じていることをはっきり言明するためです。私たちは詩篇の作者のようになり、こう述べ伝えましょう、『主の聖なる名を誇りとせよ(105:3)』。また、『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう(8:1)』と、明らかにうたいたいものです。

2015年6月11日木曜日

6月11日

死とハデスとのかぎを持っている[黙示録1:18]

黙示録6:8には、死の後にはハデスがつき従ったとあります。黙示録20:14では、死とハデスがついに、火の池に投げ込まれるのを見ます。引用した二つの箇所を見ると、死とハデスの両方が、人格を奪い去ったかのように見えるでしょう。聖書の他の箇所でも、同じことを確認できます。たとえば、ヘブル2:14では、悪魔は死の力持つとあり、また、マタイ16:18はハデスの門(または力)に触れています。死とハデスの裏側には、悪魔が現れて、力を握っています。しかし、主は死者の中からよみがえられました。主に対しては、もはや、死とハデスは何の力もありません。反対に、主はその両方の鍵を握っておられます。ここで分かることは、死とハデスが私たちの主を超えた力を持つことなどあり得ず、それどころか、主がそれらを打ち破ったことです。

2015年6月10日水曜日

6月10日

キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう[ヘブル9:14]

この節は、キリストが私たちの良心を、どこまで救えるかを教えてくれます。主の血は死んだ行いを清めて、良心とすることができます。あなたの良心について教えてください。非難を受けていますか?いつも、非難されているなら、あなたはキリストがあなたのために成し遂げたものを完全に手にしていません。主は私たちを救い、主の血は、私たちの良心を清めます。主の血によって清められたからには、もう非難を受けることはありません。ともに集うとき、こう祈ってもよいでしょう、『ああ神よ、私たちの心が邪悪な良心から振り払われたことを感謝します』。それでもなお、私たちはしょっちゅう困難には見舞われます。それはただ、私たちが自分の良心を覆い隠したか、時には、見落としていることを示しているだけです。しかし、神の御子の血は、私たちを清めることができます。私たちの良心が完全に清められたところまで、主は私たちを救うことができます。

2015年6月9日火曜日

6月9日

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます[マタイ6:33]

祈りがキリストをすべてのものの先頭に置くことを目指しているなら、それは応えられます。神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。自分の必要のために祈る時間が、神の業のために祈る時間へと変えられますように。そうすれば、神は、私たちが口にした祈りを聞いてくれます。それは、神の業のための祈りです。しかし同時に神は、言葉に出さなかった祈りも聞いてくれます。それは、私たち自身の問題のための祈りです。初めに、主が御自分の分を受けるように頼めば、主は私たちも受けることを許してくださいます。クリスチャンの生活の中で甘美な経験のひとつは、いつも祈りへの応えを受けることです。

2015年6月8日月曜日

6月8日

しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい[ルカ21:36]

主がはっきりと約束しているように、教会は大きな艱難を免れて、『人の子の前に立ちます』。これは疑いなく、キリストの携挙を指しています。しかし、それには条件があります。生まれかわった者すべてではなく、生まれかわった者の中で、目をさまして、祈っている者に限られます。『人の子の前に立つことができるように』、目をさまして、祈っていれば、人の子の前に立つことができます。約束はこれを実行する人々に対して与えられています。教会に属する人は皆、目を覚まして、祈っていますか?このことをいつも気に留めておきましょう。

2015年6月7日日曜日

6月7日

そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした[1コリント2:4]

わずかでも自分に依存する気持ちがあれば、間違いなく、私たちは聖霊により頼むことができなくなります。十字架につけられた人だけが知っていること、知りたいと願っていることは、どうすれば神の御霊とその力にと拠り頼むことができるかということです。パウロは、例えば、自分がキリストとともに十字架につけられました。それ故に、彼が働くときは、決して自己に依存せず、完全に十字架の精神を示すことができます。彼は十字架の道によって、十字架の救い主を述べ伝えているから、聖霊とその力は、パウロが証しできるよう支えています。私たちもパウロ兄弟とともにこう言えるでしょうか、『私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです』(1テサロニケ1:5)。どれだけ感極まって話したとしても、聖霊がその言葉の後ろで働いていなければ、なんの役に立つでしょう?

2015年6月6日土曜日

6月6日

私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです[2コリント10:13]

主のしもべには、神がそれぞれに示された役割があり、働きをする範囲が決まっています。ひとりひとりの信者は神に定められた路を走り抜けなければいけません。それぞれが自分の出発地点に立ち、与えられた役目を果たし、指示されたコースを走り終えたら、どれだけの栄光を見られるでしょう!

家を建てるには、大きな柱がなければなりませんが、小さな釘の一本も同じくらい必要とされます。教会に属する人がみな、偉大な復興者、偉大な伝道者や偉大な教師になりたいと望んだら、教会は成り立つでしょうか?私たちは主のみこころのうちを歩くべきではないでしょうか?大きな仕事を成し遂げてやろうなどと目論むべきではありません。そうではなく、神が自分のために選んだ場所に立つべきです。主が私たちに、目立たない小さな仕事をして欲しいなら、ただ、それを行って満足しましょう。神は、『偉大な才能』を求めません。ご自分で使えるものを誰でもお召しになります。どうか私たちが、神が示された立場を喜んで受け入れることができますように。

2015年6月5日金曜日

6月5日

すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え…[エペソ3:8]

自分のうちなる嫉妬、高ぶりと欲望に気づき、一方で、自分の中には愛も謙遜も優しさもないことを感じ取る。あなたにもそんな日が来るかもしれません。あなたは、主に救いを求めます。一度、二度、何度となく主に頼みます。キリストの豊かを啓示され、主に救いを求めた自分の愚かさを認めるまで、それは続くでしょう。この神のみ言葉を与えられることになります、『わたしの恵みは、あなたに十分である』(2コリント12:9)。ですから、お願いする必要はもうないのです。主はこう言っておられるのですから、『私は聖なるものです、私は優しさです、私は恵みに満ちています』。すべては主にあります。神がキリストの豊かさを示され、あなたは危機を乗り切ります。こうして、あなたはキリストの恵みを、いっそう経験することでしょう。

2015年6月4日木曜日

6月4日

花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた[マタイ25:5]

悪いしもべのたとえ話(マタイ24章)は、信者に対し、今日にでも主とお会いできるように用意をしておきなさいと教えています。これに対し、10人の花嫁のたとえが、教えてくれるのは、主の帰りが予想外に遅くても、ずっと備えておくようにということです。主が仮にあと56年ばかり遅れたとしても、まだ主にお会いする用意をしていられるでしょうか?ランプが、この日の夜中まで灯っているように準備したら、主はその後まで遅れて来られるかもしれません。主の試しを軽く見てはいけません。器の中の油がどれだけ、貴重なものであるか、それは主が遅れるほどに現されるのです。

2015年6月3日水曜日

6月3日

なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです[1テサロニケ1:5]

私たちは、ただ意味のある言葉のみで満足しないようにしましょう。私たちは、神の力をこそ求めなければなりません。多くの人が、聖霊の真実について語りますが、実際にはその力を受けることすらありません。信者に欠けているものは、神の命に他なりません。

最も興味深い事実として、自分の心だけで神の真実を理解しているときは、その人は必死でこの真理を把握し続けなければならないのです。しかし、聖霊の力で真実を知った上で、同じ力でそれを保っていれば、その人は、溺れている人が必死でロープを掴むように、必要な時だけ真実にしがみつくようなことはありません。むしろ、その人自身が、精霊を通して真実によって捕らえられ、救われます。この違いはもっとも明白です。

2015年6月2日火曜日

6月2日

また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません[2テモテ2:5]

陸上競技で、あえてレース場に引かれた線をはみ出す人がいるでしょうか?誰もが決められた線の中を走らなければなりません。そしてこれこそが、第2テモテ2章にある、『競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません』の意味に他なりません。つまり、ルールを守るということです。非常に残念なことに、多くのクリスチャンが熱心に走るのですが、神が定めたコースに沿って走っていません。私たちの熱意、努力や行動は、神の規則と意思を置き換えることはありません。神の意志の外を走れば、敗北につながります。主が私たちの前にコースを設定されたのですから、そこを走ることが必要です。そうでなければ、成果を得ることは期待できません。

2015年6月1日月曜日

6月1日

それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた[創世記24:58]

リベカは、アブラハムのしもべといっしょに行くかと尋ねられたとき、『はい。まいります』と答えました。彼女はこうして、父の家を出ました。父の家を出た後、リベカは、ラクダに乗って荒野を旅しました。これは苦しみの道を意味しています(ラクダは苦難を象徴します)。こうしなければ、彼女はイサクを助け、喜ばせることができなかったのです。

キリスト者であれば、主にこう語るべきです、『これから私は、すべてのものを喜んで投げ出します。あらゆる人、これからの出来事、どんなものでも』。こう言えない人は、神が、今日何かを捨てるよう、私たちに言ったとしても、それはあまりに辛いのでできないと答えるしかありません。また、明日、神が別のことを命令してきた場合、私たちは再びこう答えます、『いいえ、それはとても苦しいので、できません』。神は、あまりに厳し過ぎるのではないかと思えることがあります。なぜでしょう?それは、私たちがまだ、父の家を出たことがないからです。『あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。そうすれば王は、あなたの美を慕おう(詩篇45:10-11)』